「来たね」
ネオが嬉しそうに独りごちたのと同時に銃声が轟いた。放射線状にヒビが割れ、自動ドアが勢いよく砕け散る。撃ちこまれた弾丸はガラスを貫き、突き当りの壁にめり込んだ。
洪水のような陽の光がフィアスの肩先に降り注ぐ。背後を振り返ると、そこには銃を構えた真一と凛の姿があった。あろうことか、彼らの先頭を切るようにしてBLOOD THIRSTYの№3……フォックスの姿がある。フィアスは自分の心臓が決壊したように、血液が
「来るなっ!」
口をついて出たのはこの言葉だった。正面に向き直ると、ネオは笑みを深くして、龍頭凛を見つめていた。フィアスはネオの額に標準を定める、一歩でも動いたら容赦なく撃ち殺すという暗黙の脅しを込めて。
ネオは、ふふんと鼻で笑ったが、それでもその場に立ったまま身じろがなかった。
ネオから視線をそらさずにフィアスは言った。
「フォックス。そいつらを連れて、この場から離れろ!」
「何を言っているんだ? 俺はお前を助けに来たんだぜ?」
「いいから言うとおりにしろ! リンとマイチをビルから逃がすんだ!」
「ちっ、ここでもガキのお守かよ! 俺はお前を助けにきたんだ、ついでにそこのガキの命も……」
「いいから! 早く
フォックスとのやりとりに集中しているうちに、前方からただならぬ気配を感じ、フィアスは意識を戻す。しかし、ネオは先程と同じ体勢のままだ。笑みを浮かべた表情は変えずに、何事か口走っている。囁くようだが、強い制御の声はフィアスの耳にも届いた。
「小麗、やめろ……凛に当たったらどうする……小麗!」
ネオの頭上で、構えたS&Wがふるふると震えている。感情的になるあまり、標準が定まっていないのだ。グリップを握る白い両手が、上下左右に何重にもぶれている。
小麗の大きな瞳は激しい怒りの渦に巻かれ、今にも泣き出しそうだった。顔じゅうが真っ赤に染まり、息が荒い。冷静から興奮へ、誰かが心の芯を、そっくりすり替えてしまったみたいだ。小麗の耳には誰の声も届かない。彼女の視線を追うと……そこにはフォックスがいる。
小麗の怒りに思い当たる節があったようで、フォックスは目を細め、伊達男の笑みで手を振った。
「また会ったな、
その言葉が合図だったように、
「あのときはよくも……!」小麗が震えた声で怒りの言葉を吐き始める。
「あのときはよくも私を
「俺とのキスの味を、まだ覚えていてくれたのか?」フォックスはニヤついたまま、サブマシンガンを構えた。
「もう一度、味わわせてやるよ」
「あれから私がどんな思いでネオと再会を果たしたか……貴様には分かるまい!」
小麗、抑えろ! フォックス、挑発するな!
ネオとフィアスの
「色情にまみれた貴様の挑発、万死に値するっ!」
それよりもコンマ数秒早く、火を噴いたのはグロックだった。
フィアスの放った弾丸が小麗の首筋を掠め飛んだ。鮮血が勢いよく吹き出し小麗が目を見開いたまま硬直する。背を伸ばしたままの恰好で、するするとその場に尻持ちをつく。小麗も放ってはいたが、軌道は大きく外れて、正面の観葉植物の葉を数枚散らしただけだった。反射的に、真一が凛を抱えて床に伏せた。
小麗が崩れ落ちるより先に、フィアスの銃口は右に大きく移動している……勢いの波に乗るように、ネオへ向けて。
しかし、フィアスは知っていた。
俺も、ここで終わりか……。
頭の中でつぶやくと同時に、間近で発砲音。銃を握る手が、自分の意思とは関係なく大きく逸れた。ネオの手にはいつのまにか銃が握られていた。
振動で身体が背後に傾いた。気がつくと肩口から血が零れ、太い筋を作っている。
自分の指先が赤く染まるのを一瞬、目にしただけだった。発砲音も聞かぬ間に、さらに身体が後方へバランスを崩す。何奥もの細胞が虚空の彼方へ消し飛ぶのをフィアスは感じた。時が遅い。自分の血痕の飛沫が球状のまま、宙をゆるやかに飛んでいく。
ちっ、と言う子供の舌打ちが、銃声より先に届く。
三発目を撃ちこまれてすぐ、周囲の音が聞こえなくなった。空気の揺らぎさえ感じない。無音のまま、水中に沈んでいくようだ。
瞬間的な吐き気が喉奥から込み上げる。煮えたぎるように口から吐き出したものは
「フィアス―――――っ!!」
凛の叫びも重い空気の壁に閉ざされて、フィアスには届かない。
耳元でひゅっと音がして、意識の全てをかっさらう、ひどく冷たい風が吹いた。
フィアスの元へ駆け寄る凛に邪魔されて、ネオはそれ以上の攻撃を断念した。
小麗の腕を掴む。即死は免れたものの、おびただしい量の血が、微かに呼吸を続ける彼女の胸を流れている。もはや一刻の猶予もない。
「だからやめろと言ったんだ、小麗……!」
少年の体躯に似合わない力で彼女を軽々と持ち上げると、ネオは撤退を決めこむ。最上階のヘリポートを目指して、エレベーターへ乗り込んだ。
その背中に飛びかかるように、敵の元へ駆け出そうとする真一の肩先をフォックスは掴んだ。乱暴に後ろへはねのけると、H&KMP5を構える。軽い音を立てて、銃弾は閉まりきったエレベーターのドアに穴を開けた。
「クソっ! 逃げられた!」
フォックスの勢いに気圧され、真一が我に帰ったようだ。歯を食いしばりながら、別の目標へ――凛が
凛の周りには真っ赤な血の大輪ができていた。腐食したヨーグルトのように生臭い血のにおいがフォックスの嗅覚を刺激した。確認しなくても、今までの経験と、動物的直感が知らせてくる。
こいつはもう駄目だ……。
仰向けに倒れたフィアスの全身はホースで水をふりまいたように自身の血でびしょ濡れていた。透き通るような金髪も血に染まり、赤黒く変色している。硬く閉じた両目はぴくりとも震えず、血の気を失った顔に早くも死相が現れ始めていた。フィアスの身体から血液と一緒に、生命の砂までもがさらさらと流れ出ていくのをフォックスは感じる。抽象的だが実感として持っている、今まで殺してきた何人もの人間が死の間際に発するものと同じ気配がした。
揺り起こすように真一がフィアスの肩先に触れるのを見て、フォックスは怒鳴った。
「むやみに触るな! 出血性ショックを起こしたらおしまいだぞ!」
言葉の通じないはずだが、真一は慌てて手を引っ込めた。
フォックスはフィアスの口に手をかざす。虫の息だが、まだ生きている。だが、それもすぐに消えてしまうだろう……ここから先は、二人のための気休めでしかない。
「小僧、お前は救急車を呼べ。女、お前は着ているドレスを千切って寄越せ、応急処置をする」
フォックスの手振りを見て、二人とも意図を汲んだらしい。半泣きになりながら真一は携帯を取り出し、凛はドレスの裾を破り始める。
「おいフィアス、聞こえてるか?」
反応はない。ずいぶん深いところまで落ちてしまっている。それもそのはずだ、先ほどの銃撃で左肩と腹部と右足を貫かれたのだ。衝撃に耐性のない人間なら即死していた。
ちっ、と舌打ちしてフォックスはつぶやく。
「ちくしょう! こんなはずじゃなかった……!」