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 サイズ違いのフードをかぶった黒人に肩をぶつけられ、アルドは我に帰る。遮断されていた喧噪が蘇ると、街路の中央に立ち尽くしている自分に気づく。
 振り向いた黒人と視線がかち合った。ぼけっとしてんじゃねぇよ、クソガキ。
 そのような意味のことを二三語のスラングにつめこんで、黒人は人ごみの中へ消える。
「坊や、立ち止まっちゃダメよ」
スーツを着たブロンドの女性が通りざまに背中を押した。
「NYの街頭で殺されたくなかったら、人の流れに従うことね」
アルドはこっくりと頭を下げ、再び歩き始める。両手にじっとりかいた汗をジーンズで拭って。
 束の間に見ていたあの光景は、夢だったのか?
 白昼夢……いや、そんな言葉で飲みこめるほど、曖昧な空想ではない。むしろ、フラッシュバックに近い。数年間の生活が、刹那の時間に凝縮されて襲いかかってきた。細部までリアリティの伴った不思議な一瞬。まだショックから覚めない。
 自分が銃に撃たれて死ぬ、なんて……。


 その夢はある悲惨な事件をきっかけに始まっていた。思い出すのもはばかられる、自分の中で最も恐れていることが夢の中で起こってしまった。
 怒りに身を任せ、見もしない犯人の背中を追って、裏の世界に飛び込んだ。ありとあらゆる仕事に手を染め、そのうちに、自分を形作ってきたものがすべて偽りのように思えて、ならば壊した方がいい。ゼロに戻って彼女のことも忘れてしまおうと、理性を放棄した。
 行き場のない憎悪を誰かの憎悪と重ね合わせ、標的を始末することで心の平安を得る。肉を喰らい、血をすする。獣の本能に呑み込まれていれば、悪夢にうなされずにいられた。
 大した時間もかからずに、その平安も虚無へ変わった。人を殺すたび、死者の手が自分の魂をちぎっていく。昔の記憶が一つずつ、血に染まって見えなくなる。指先にこびりついた硝煙のにおい。衝動が消えうせ、その代わり自分を追いつめる銃口の先を想像するようになった。
 殺してくれと願いながら、一体何人殺したのだろう……。
 闇に沈んだ心の底にわずかな光がさしたのは、わずか一年半前のこと。事件から既に五年の月日が経過していた。
 古びた墓を暴くようで、初めのうちは気が進まなかった。しかし、捜査を進めていくうちに、虚無を消し去る強い感情が湧きあがった。
 仕事として割り切れない、使命のようなもの。仕事を通じて知り合った日本人の青年、そして「彼女」によく似た別の女性――彼らの名前を思い出したいけれど、もう何も思い出せない――自分が何より彼らの無事を願っていたことだけ、覚えている。
 こいつらを守る、命に代えても。
 そんな決意を胸に秘めていることも知らないで、自分は最期の時を迎えた。
 目が覚めてから、すべて知った。無意識の次元に抱えていたありとあらゆる感情を。寂しさや、恐怖や、泣きたいくらいの悲しみや、叫びたいほどの怒り……それだけじゃない。夢のどこかで喜びや、愛情も感じた――だから守ろうとしたのだろう。あのときの自分は、彼らを。


 所詮は夢の中でのできごとなのに、泣きたい気持ちになるのは、なぜだ?
 アルドは大きなショーウィンドウの前に立ち止まって、久しい時を経て友人に再会したときのように、ガラスに写った自分の姿をまじまじと見つめた。
 ハイティーンも終わりかけの、薄ぼんやりとしたなあどけなさが、曇り空のように顔全体を覆っている。切れ長の目、灰青色の瞳。にっと笑うと尖った犬歯が唇の端からちらりとのぞく。見慣れた自分の顔なのに、どことなく幼く感じるのは、夢の中で五年後の自分の顔を何度も目にしたからだろうか。
 そんなことを考えながら、アルドはハッと思いだす。約束の時間を二十分もオーバーしていることに。
 ポケットから携帯電話を取り出すと、案の定メッセージが届いている。
【何度も呼びかけたのに、あなたってば、まったく気づいてくれないんだから。】
「ごめん」
独り言を携帯電話につぶやいて、アルドは走りだす。人込みを器用にかきわけて、信号を渡る。
 ジーンズのポケットで小銭がじゃらじゃら鳴っている。見慣れた街、看板、店、ポスター……すべてが手の届かないところにあるようで、懐かしい感じがする。
 今朝、別れたばかりなのに、猛烈に彼女の顔が見たくなる。
 何をこんなに焦っているのか、自分でも分からない。
 君と過ごす時間はたっぷりある、はずなのに。
 待ちあわせの場所は地下鉄サブウェイのホームだった。地下へ続く階段を見つけて駆け降りる。途中で何度も人にぶつかったが、謝っている暇はなかった。パスカードを通し、ゲートを回す。階段を降りるとホームの遠くに、彼女の姿が見えた。
 同時に電車が滑りこんで、ドアが開く。何百という人が一斉に電車を降りる。人の群れの間を縫って、アルドは彼女を目指して進む。それでも中々前へ行けない。気を緩めるとすぐに後方へ押し流されてしまう。
 彼女は地面に視線を落としていた。白いワンピースは背後の壁と同調し、今にも人込みの中へ消えてしまいそうに思えた。
 普段なら絶対にそのようなことはしないのに、アルドは衝動に駆られ、力いっぱい叫んだ。
「アヤ!」
 声に気づいて、彩が顔を上げる。停車していた電車が再び走り出す。行く手を阻んでいた人の流れはあっという間に後方に消え去り、白い灯りのホームに二人だけになった。先程の喧騒が嘘のように、辺りは静まり返っている。
 アルドはゆっくりと彼女のそばへ近づいていった。
 彩はいつもと同じ笑顔で微笑んだ。
「来てくれなかったら、どうしようかと思った」
額の汗をぬぐいながらアルドも微かに笑う。
「君に呼ばれて、俺が来ないことなんてなかっただろ?」
「そうよね。いつだってアルドは傍にいてくれた」
「それで、今日はどこに行くんだっけ? 先週言っていた、例のライブ?」
彩はくすくす笑う。
「そうそう。わたしたち、週末はよく地下鉄に乗ってインディーズ・バンドのライブに行ったわ。うるさいところが苦手なくせに、あなたはいつも黙ってついてきてくれて。そうやってわたしを守ってくれていたのね」
アルドの首筋に手を回して、彩はぎゅっと抱きしめる。戸惑いながら、アルドも彩の細い腰を抱いた。切りそろえられた前髪をかき分け、真っ白な額にキスをする。それから少しだけ見つめ合って、今度ははっきりと、互いの唇に口づけた。遠い昔に消えうせた感触が蘇る。懐かしい匂いがするその現実の中で何よりも懐かしいのはこの瞬間だとアルドは気付く。
「別れのキスよ、アルド。安らかな子供の時代は終わったの」
 彩を抱きしめる腕が、手が、自分のものとは思えないほど大きく、傷ついている。
 五年間、片時も銃を手放さなかったせいで掌の感覚が薄れてしまっていた。ティーンエイジャーの安っぽい洋服は、頑丈な黒いスーツに変わっている。与えられた名前もあのころとは違う。自分の知らぬ間にどんどん時が加速して、過去はますます遠ざかる。
 いつの間にか、アルドは元の姿に戻っている。フィアスという名の、大人の姿に。
「この五年間で、俺は多くの物を失ったよ。君を失くしてから手に入れたものなんて一つもなかった。もう嫌なんだよ、生きながらに死んでいくのは……。だから俺は、俺の中に残されたわずかな記憶を辿って、君に会いに来た。そのことの、何がいけないんだ」
フィアスは力をこめて、彩の華奢な身体を抱きしめる。柑橘系の爽やかな匂いのする髪の中に顔をうずめた。
「……ここが夢でも構わない」
腕の中で彩はじっと動かない。しかし耳元で、彩の震える唇が小さくつぶやくのをフィアスは聞き逃さなかった。
 凛は、どうなるの?
 フィアスは肩を震わせる。 凛。その名を呼ぶと、最後に別れた夜の記憶が、まざまざと脳裏に蘇る。龍頭凛。あの晩、彼女は泣いていた。周りにいる人たちがみんないなくなってしまうと、子供のように大粒の涙を流していた。その声があまりに悲痛で、いてもたってもいられなくて、だから誓いを立てたのだ。
 一人にしない、と。
 うつむいたフィアスの頭を、背を伸ばして彩が撫でる。大人だから背が高いわ、と言って。
「昔からそうだ。君はそうやって、すぐに頭を撫でる」
「違うわ。落ち込んでいるときだけ」
「そんなにも、俺はしょっちゅう落ち込んでいたのか」
「自分で思っているほど感情を隠せていないのよ。でも、それはきっと、いいことよ」
フィアスは目を閉じた。腕にこもっていた力が抜け、鳥を空へ離すように、ゆっくりと抱擁を解く。と同時に、彩も髪を撫でる手を止めた。ひんやりとした手が頬を滑り、唇をなぞる。首筋を流れて肩から腕へ。掌に彩の小さな白い手が重なる。
「あなたには守るべき人たちがいる。わたしのためじゃない。これからは、その人たちのために戦うの」
遠くから電車の走行音が聞こえる。ホームに英語のアナウンスが流れ、静かに電車が到着する。
 扉が開いた。誰も降りて来ないし、車内には誰も乗車していない。
 彩は最後にぎゅっとフィアスの手を握った。
「あなたはもう大丈夫よ」
 くるりとワンピースのすそを翻し、彩はフィアスから離れる。ばいばい、と手を振って電車に乗り込むと、発車のベルが響いて扉が閉まった。彩を乗せた電車はトンネルの闇へ見えなくなる。
蛍光灯の光が強く発光する間際、フィアスは小さな声でつぶやいた。

「さようなら、アヤ」