思いだした。全部、思い出した。八歳以前の記憶。
 日本にいたことも、父親に連れられて海を渡ったことも。

 研究員から奪ったカードキーでフィアスは扉を開けた。このフロアには十数名の人間がいるようだ。リノリウムの床を歩く他者の足音がまるで銃声のような爆音で耳に届く。敵と遭遇しないようにどの経路を辿れば良いのか、手に取るように分かる。
 遠くで火薬のにおいがする。銃に沁み込んだ油のにおいも。階段を上ったところに、武器庫がある。
 この状況で感覚が研ぎ澄まされるのはありがたい。無用な戦闘を避け、武器の保管場所を特定できた。問題は、この鋭利な感知能力に精神が打ち勝つかどうかだ。そして、淀みなく頭の中に流れ続ける走馬灯のような昔の記憶に、自我が呑みこまれずにいられるかどうかだ。
 上階に続く階段の踊り場で一人の研究員と遭遇した。悲鳴を上げられる前に米神を殴りつける。気絶した人間をそのままにしておけば、いずれ誰かが侵入者の存在に気付くだろう。しかし、敵を隠している余裕はなかった。壁に手を添えて身体を支える。足取りは覚束ない。
 五感に叩き込まれる現在の状況と頭の中で再現される過去の記憶に抗おうとするが、それらは自分の意思に関係なく次々と飛び込んでくる。
「うるさい! 静かにしろ!」
 力任せに壁を殴りつけると、ぱらぱらと破片がこぼれ、コンクリートの壁に小さな亀裂が走った。以前はできなかったことだ。感覚の他に腕力まで増しているというのか。フィアスは額を手で覆う。
 冗談じゃない。俺はアメリカン・コミックのヒーローじゃないんだぞ……。
 ある部屋の前に来ると火薬のにおいが強くなった。ドアの材質が他のものより頑強にできている。どうやら、ここが武器庫みたいだ。フィアスは手にしたカードキーをドアのくぼみに滑らせた。
 けれども、サインは赤く明滅したまま。カードの種類が違うようだ。武器庫は武器庫専用のカードキーがあるのだろう。一介の研究員が全ての部屋のセキュリティを解除できるような、万能鍵を持っているはずがない。よく考えれば分かる事だった。拳を握るとアルミで出来たカードがぐにゃりとひしゃげた。
 遠くで誰かの足音がする。研究員のものではない。床を蹴る靴は頑丈なショートブーツだ。ついに攻撃専門の〈サイコ・ブレイン〉がやってきたか。服が銃に擦れる音、ポケットの小銭がぶつかる音、どれもがガラスを床に叩きつけたように鋭く響く。フィアスは耳を塞ぐ。
 戦えない。こんな状態で銃を発砲されたら鼓膜が破れてしまう。戦えない。無理だ。
 頭の中ではちょうど八歳の自分が父親の手によって暗い川の底に突き落とされる場面が回想されていた。何回も夢に見た光景。金属音。ルディガーの叫び。ブーツの音。戦闘服を着た男の身体。硝煙のにおい。血のにおい……フィアスは耳を押さえたままその場に膝をついた。目を閉じるとあの日の光景がありありと蘇ってくる。ブーツの足音が近づいてくる。〝何者だ、なぜそんなところにいる。答えろ。おい、聞こえているのか〟、誰何する男の声。川の中へ落ちる。肩を掴まれる。
 どちらが現実で、どちらが過去のできごとなのか分からない。
「頼むから、静かにしてくれ!」


――貴方を、助けてあげる。


 誰かの手が、自分の体を十七年前の水の底からすくいあげた。
 意識が覚醒する。
 フィアスは立ち上がり様、敵兵の銃を蹴りあげる。手にしていた三十五口径が宙高く吹っ飛んだ。サイドアームを取り出される前に相手の顎を殴りつける。骨の砕けた感触が拳に残った。顎を砕いた。男は尚もホルスターから銃を取り出そうとする。その手を脇に挟んでねじり上げるとこちらも骨の軋む音がして間接とは逆方向に曲がった。利き手を壊してしまえばこっちのものだ。逃げださんばかりの男を捕まえて、壁に抑えつける。胸倉を掴むとフィアスは凄んだ。
「今すぐ、出口に案内しろ!」
敵のホルスターからサイドアームを抜いて男に付きつける。男の苦悶の声は言葉にまとまらない。
「自分の銃で死ぬ事になっても良いのか!」
うめき声をあげながら男は、フィアスの目を――悪魔のように赤い瞳を見た。
「ネ……オ……!」
男は慌てて頭を守るような動作をする。折れ曲がった手首だけが自分の意思とは真逆の方向に突きだされている。
「ネオ! こ、殺さないで……くれ……」
 男はずるずるとその場に崩れ落ち、動かなくなった。フィアスはしばらく目下の男をぼんやりと見つめていたが、やがて思い出したように床に転がった銃を拾い上げた。
 手にした銃を見ると、Glock22。FBI時代に使っていた銃だ。グリップの感触は五年前と何も変わらない。
 スライド部分を顔に近づける。と、ステンレスの板の上に自分の顔が映し出された。映る瞳は赤色。充血しているわけではなく、虹彩そのものが変色している。
 化け物のような赤い双眼が、静かに自分を見つめ返している。
「俺は……ネオじゃない」
フィアスは小さく呟いた。