何か忘れた気がする。
なんだろう。
頭の中のカレンダーは電子化されている。携帯にデフォルトで入っている、カレンダーアプリのシンプルな画面そのままだ。
架空のスクロールをしながら、記入した内容を思い出す。
右ポケットの手は、スマートフォンを掴んでいる。
一応、実在のアプリにも同じ記録を残してある。
携帯を取り出せば一瞬で思い出せるのだが、野外の寒さと
二十四日あたりからスクロールを繰り返す。そして、未完了のタスクを探す。
ちなみに今年最後の予定は、「瑠璃子の家に寄る」だ。
開始時刻は19:00。終了時刻は終日。
元は星空から目を離し、隣を歩く瑠璃子を見下ろす。
そのタスクも完了間近である。
元は物覚えが良い。
学生のころから、時間割や遊びの予定を抜け漏れなく覚えることができた。当然ながら学業成績も優秀で、特に頑張ることなく国公立の大学に進学した。社会人になってからスコアが目に見えなくなったが、上司の機嫌が良くなる程度にそつなく仕事をこなしている。
本人に
幸か不幸か、「俺って記憶力良いんだ!」と気づく場面に元は出くわさなかった。
同僚や上司がやらかすと、頭の中のカレンダーを見返さない人なんだな、と元は考える。
その思い違いに気づく場面も、幸か不幸か、死ぬまで出会わない。
そういうわけで、彼の特異な才能は「何事もそつなくこなせる」程度で、今後もきらめく。
なんだったかな、と思いながら、反射的に煙草を探す。
しかし、どこにも見つからない。
コートのポケット、ジャケットのポケット、ズボンのポケット……全部ハズレだ。
煙草を忘れたか、と元は思う。
なるほど。どうりでカレンダーを見ても分からないわけだ。
物覚えの良い元だが、目に映るすべてを脳裏に叩き込んでいるわけではない。数年ぶりのうっかりミス。微かに唸った元の声に、瑠璃子が気づいた。
「どうかした?」
「煙草、忘れたかも」
元はつぶやく。
「たぶん、縁側だよ」
三十分前まで、元は篠田家にいた。
ここ数年、恒例のように彼女の実家の年越しに参加している。
帰り際、凍える縁側で瑠璃子の父親と話をした。とりとめない会話の片手間、あれが最後の喫煙だったはずだ。
「あとで見ておいてくれる? 今夜、小雨になるらしいから」
隣を歩く恋人が、うーん、と返事をする。
「よろしく」と言いながら、あれ? と元は首を捻る。
たまらずスケジュールアプリ(実在)を開いて、頭の中にある文字と同じ文字を確認する。
19:00 瑠璃子の家に寄る
今日の予定は全て終えた……ものの、あれ? 俺なんかしたっけ? いや、なんかしなくちゃいけなかったんだっけ? と不安が脳裏をよぎる。
上げ
職場の飲み会と同じように、それなりに気遣いをしたはずだが……。
「……今度会うとき、持っていくね」と瑠璃子が言う。
「中旬になるかも知れないけど」
滅多に聞かない声の暗さは、大晦日の特別感を演出しない。
雪崩のような計画倒れの気配がする。
元はスケジュールアプリ(脳内)とスケジュールアプリ(実在)の
僕たち結婚します、と言うのを忘れた。
ぼんやり進んでいた道が、明確になったのが一ヶ月前。
「家族ぐるみの付き合いで、今さら挨拶に来てもらうのも変だから」と瑠璃子は言った。
「お互い忙しいし、時制に合わせて軽くできれば」と付け足した。
元は例のごとくスケジュールを確認した。
勤務シフトがちょうど出ていて、元旦も三が日も仕事が入っていた。
「大晦日に言うのってアリかな?」と元は言った。
「ささやかで良いんじゃない?」と瑠璃子は言った。
「いきなりだとびっくりするから、私からちょっとずつお父さんに伝えておくね」と瑠璃子は言った。
「お願いします」と元は言った。
そして、その話をしたことを忘れた。
瑠璃子の父親が縁側に来たのは、何らかの示唆を与えたからに違いない。
青ざめる元を、瑠璃子は見上げた。
「すごい。本気で忘れてたんだ……」
「ごめん。やらかした」
「め、珍しい〜! ハジメちゃんに限って、そんなことある?」
「ああ。俺も驚いたよ」
多忙な
事務作業、書類整理、同僚や上司の手伝い、気楽な飲み会と強制的な飲み会の参加。
時間を上手く調整しながら、それらの雑事を淡々とさばいた。毎年恒例。細々したスケジュールは、一つも忘れなかったのに……。
煙草の置き忘れ以上の、大失態だ。
「戻ろう」
元は瑠璃子の手を引く。
「演出にしよう。帰るフリをしましたっていう
「すごく、無理があるような……」
「日を改めた方がいいかな」
「ううん。今日がいい」
瑠璃子が元の肩先に頬を寄せる。
「今日がいいよ」
「だよな」
「ちょっと眠いけど」
「ごめん」
元は片手で携帯を操作し、カレンダーに追記する。
23:30〜終日 結婚報告。あと煙草さがす