灯が消えるとき

灯が消えるとき

 生業の話は、緊張する。
「刑事、やってます」などと口を開けば、眉をひそめて警戒されるか、目を輝かせて詮索されるかのどちらかだ。
 刑事って、そんなに特殊な仕事だろうか? 一介の公務員ですけど……と河野薫は思うのだが、今日も異様な空気が辺りを取り巻いた。視線に剣がないのは、周りの反応がおしなべて後者だったからだ。
 酒の酔いも絡んで、男も女も好奇心を隠そうともせず目を輝かせている。
「河野が刑事? 冗談だろ? どうしてそうなった?」
「殺人犯や窃盗犯を逮捕するの? 河野くんが?」
「刑事ねぇ……お前、正義感とか強かったっけ?」
今回、興味の対象は、刑事の仕事内容ではなく、刑事という仕事に就いた自分にあるようだ。というのも、ここは中学時代の同窓会の会場。のほほんとした当時の自分を知る面々からすると、現職とのギャップが面白いらしい。ここで胸に秘めたる思いを語ることが出来れば様になるというものだが、あいにくそんなものは胸のどこにも秘めていない。
 あはははは、と笑ってみせると、つられて周りも笑い始めた。
「飲み過ぎても逮捕しないでくれよ~!」とお調子者の内田が叫んだが、それもあはははは、と笑って流す。女性たちは手を叩いて爆笑している。「相変わらず河野くんって面白いよね~!」と笑われる。
 あはははは、そうかなぁ。あははははー、と笑う。
 一同、爆笑。
 馬鹿にされているわけではないが、警察っぽい形のゆるキャラ的な扱いをされているような気がする。
 ちょっとお茶目な正義の味方。ピーポー君みたいな。
 ショートホープに火をつけながら、まあ平和だしいいか、と薫は思った。
 思えば中学時代から、そんな風にすべてを受け流してここまで来た。なんで刑事をやっているのか俺が一番聞きたいが、例え聞けてもあはははは、と笑って流されるだけだろう。
 ホープの重たいタールを吸うと、なぜか前歯が痛くなる。いつもそうだ。何かが歯に染みている気がする。
 なんだろうな、ホープのときだけ……そんなことを思いながら、ふと顔を上げると、斜向かいに女が見えた。
 手酌で日本酒を注ぎながら、一人しんみりと飲んでいる。賑やかな酒宴の雰囲気からかなり浮いていて、不機嫌にすら見える。
 あの子、知ってる。瞬間的に薫は思った。
 童顔で、黒髪で、アイシャドウが濃くて、少女趣味の独特なファッションセンス……中学を卒業して十年以上経つのに、雰囲気がまったく変わっていない。誰だっけ? 個性的な人なのに、名前が全然出てこない。
 くわえ煙草のまま、ぼんやりと女を眺める。すると視線を感じたのか、女の方も薫を見た。
 切長の目は真っ黒だ。すぐにそっぽを向いて、バッグから取り出した煙草に火をつけた。
 あ、井筒玲奈だ、と薫は手を打った。思い出した。美術部員の井筒玲奈。ぱっつんにした黒髪と、ツインテールが特徴的な、俺の元カノではないか。
「河野~! 中学ん時、佐藤さんのハンカチ盗んだの俺だ! 逮捕してくれ、逮捕! そのハンカチでシコっていたんだ、俺は! 窃盗と猥褻罪で逮捕してくれぇっ!」
 泥酔した内田が両手を突き出してくる。周りの男女が爆笑している。あはははは、と薫も笑う。そうだ、井筒玲奈。三ヶ月くらい付き合って別れた井筒さんだ。
 どうして付き合うことになったのか忘れた。どうして別れることになったのかも。キスをしたかどうかさえ曖昧だ。
 内田はまだ自首のポーズを続けている。三席隣に佐藤さんご本人がいることをすっかり忘れているようだ。青ざめた顔でドン引きしている佐藤さんへちらっと視線を注ぎ、再び薫は井筒さんを見る。
 井筒さんは澄ました顔で煙草を吸い続けていた。茶色のフィルター、細い煙草だが女物ではない。青くて薄いパッケージが灰皿の隣に置いてある。ここからではよく見えない。何を吸っているんだろう。無性に気になる。たぶん、自分が吸ったことのない銘柄だ。
 外国製かな。チェックし忘れた、新商品かな。
 すごい気になる……。
「河野~! 俺、佐藤さんのこと今でも夢に見るんだ! この飲み会でワンチャンねぇかな!? ワンチャン!」
内田が机を叩きながら熱望している。佐藤さんは友人と一緒に化粧室に向かった。
 事件にならないと良いな、面倒くさいから。内田の話を笑って聞き流しながら、薫はなおも井筒さんを観察する。
 井筒さんは明らかにこちらの視線に気づいているようだが、顔を背けて無視を決め込んでいる。
 中学時代の淡い恋愛といえども、昔付き合っていた男と顔を合わせるのは、気まずいのかも知れない。そう思った途端、こちらも気まずくなって、尿意を催してきた。わめく内田をにこやかに放置して、薫はトイレに向かう。廊下ですすり泣く佐藤さん、そして怒りに震える二人の女性とすれ違ったが見なかったことにした。


 用を足したあと、室外の喫煙所で一服した。ベンチに腰を下ろし、遠い昔に思いを馳せる。
 といっても、井筒さんとは映画を見に行った記憶しかない。デートらしいデートは一度だけ。ジブリの映画を観た気がする。その後スタバかドトールで甘ったるいコーヒーアイスみたいのものを飲んで別れた。
 井筒さん、あの頃と全然変わっていなかったな。十五歳くらいから、年を重ねていない感じがする。アニメでありがちな、不老不死の女の子みたいな……。
 唯一の変化といえば、喫煙者になっていたことだ。何を吸っていたんだろう、井筒さん。あわよくば一本貰えないかな。タダとは言わない、ショートホープと交換してくれないだろうか。
「カオルくん」と声をかけられ、顔をあげると井筒さんがいた。
 うわ、来た、と薫が思う間もなく、井筒さんは隣に腰を下ろした。
「私のこと覚えてる?」
「うん。井筒玲奈さんだよね」
「覚えてくれていたんだ。嬉しい」
切長の目は、細まるどころか大きく見開かれる。凝視、という感じで薫に視線を合わせてくる。
「私のこと見てたでしょ」
「あ、えっと……」
「気づいてたよ」
首を傾げて薫を見上げる。大きな黒目の中に、室内の明かりを受けて白い楕円ができている。名投手の投げる変化球みたいだ。
 わけもなく、薫は怯える。あははは、とゆるキャラの笑みを浮かべてやり過ごせそうにない。
 唾を飲み込み、なんとか会話を続行する。
「井筒さん、煙草吸ってるんだね」
「うん。びっくりした?」
「意外ではないかな」
「カオルくんが意外に思うことってあるの?」
ポケットから煙草を取り出すと、井筒さんは一本引き抜いて口にくわえた。
「ライター忘れてきちゃった。貸してくれる?」
zippoライターを差し向けると、井筒さんは顔を近づけてくわえた煙草に火を灯した。その際に長い黒髪が薫の手の甲に触れた。甘すぎる香水の匂いが鼻をつく。
 わけもなく、薫は怯える。
 しかし、井筒さんの吸っている銘柄が判明した。
「BLACK JACK」オーシャンブルー。煙草のような形状だが、リトルシガーという葉巻の一種だ。薫は以前、この銘柄の別種を喫煙していた。葉巻らしい甘い味がして、吸い口も軽やかで美味しかった。
 オーシャンブルーも気になるが、この状況で井筒さんの愛煙草をねだる勇気はない。
「カオルくん、刑事になっていたんだね」
「うん。井筒さんは?」
「私はデザイナー。アダルトビデオのパッケージ作ってるの。かなりエロいやつ」
アダルトビデオ。かなりエロい。というところで、井筒さんの目がひときわ鋭く光ったように感じられた。
 前歯が痛かった。ホープの火種は、とうに消えていたにも関わらず。
「同窓会、友達に誘われて、なんとなく来てみたんだけど、つまんないよね」
「え、ええっと……」
「つまんない下ネタばかりでさ」
「う、ううぅ……」
「カオルくんも退屈でしょ」
「そんなこと」
「あるでしょ」
井筒さんが初めて目を細めた。笑った。何かを確信したかのように。
 指先のホープから、長い灰がぼろっと落ちた。シャツに当たって跳ね返り、ジーンズの太ももの上で砕けた。井筒さんが灰を払おうと、薫の太ももへ手を伸ばしたとき、思わず叫びそうになった。
「うわあああああ!」と一足先に内田が叫んでいなければ、居酒屋の店内は薫の絶叫で埋め尽くされていただろう。ガラスの割れる音がしたので、ロンググラスを投げつけられたに違いない。
 続けて、内田をののしる女性たちの怒声が聞こえてきた。佐藤さんの友人たちだ。
「サイテー!」「キモい!」「訴えてやる!」
そして、彼女たちをなだめようとする周囲の声。大混乱のざわめきの中からわずかに佐藤さんの泣き声も聞こえてくる。
 はあ、と深い溜息は近くから聞こえた。呆れ顔の井筒さんからだ。
「つまんない……どこか、別の場所に行きたい」
 薫は床を蹴って立ち上がると「様子を見てくる!」と告げて喫煙所を飛び出した。あたかも刑事の性として事件のにおいを嗅ぎつけた瞬間、反射的に身体が動いてしまっていますと言わんばかりに。実際に揉め事が起こりそうなのは、背後の喫煙所だったが、刑事の感ーーというか、野性の回避能力ーーで見事に切り抜けたのだった。
「どうしましたっ? 事件ですかっ?」
店員まで巻き込んで、ひどい言い争いに発展している個室の障子を、嬉々として薫は開けた。