年の瀬の夜に その2

年の瀬の夜に その2

手足が凍りつくように寒い。指先が早くも感覚を失い、ポケットの百円ライターを取り落とした。
上手く摩擦を起こせずに、火花ばかりが飛び散る。四度目の摩擦でようやく火がつき、小さな赤色が煙草に灯った。
と、同時に背後に視線を感じた。十二月の平均気温を五度くらい下げてしまいそうなほど冷たい視線に身体が震えた。
ふと、上司の顔が思い出された。
今の俺も惨めだが、家族に隠れてこそこそ煙草を吸っている高杉刑事は、この惨めさを日常的に感じているんだろうな。四十五過ぎのおじさんのくせに可哀想だな、と憐れむ気持ちは寒風に吹き流されて簡単に消えた。
ベランダから立ち上がり、窓を開ける。絶対零度の視線の主は、部屋に戻ってきた薫に見向きもしない。
暖房の当たるいちばん良いポジションを陣取って、ぬくぬくとテレビを鑑賞している。
「この子、よく見かけるけど可愛くないよね」
カラフルなマニキュアの塗られた指が画面を差す。
「この子って、どの子?」
「ほら、モデルの子」
「どこ?」
「今、映ってない。モデルの子」
「へぇ……」
曖昧な返事をしながら、薫はベッドに腰掛ける。それから、ぼんやりと恋人の背中を見つめる。
澤田秋は薄く毛羽立っているピンクのセーターと、スキニージーンズを履いている。それらの上に、薫のベッドから引っぺがしたベトナム製のめちゃくちゃ温かいブランケットを羽織っている。こたつのないこの部屋の、唯一の防寒具だ。一人用なので二人では使えない。
帰ってくれないかなぁ、と淡い願望を抱いてしまう自分を、冷淡な人間なのかなぁ、と感じる咎ももちろん淡い。
それでも薫は焦燥に駆られる。俺ってひどい人間だよなぁ、と素直に感じる。出来ることなら声に出して謝りたい。秋に「ごめんね」って謝りたいけど、謝る理由は話せない。自らケンカの種を撒くほど、薫は愚かな人間ではない。何より秋に対しては、諸外国の外交以上の思いやりと配慮を持って慎重に接している(それでもケンカの種が撒かれるのは、煙草を入れてるポケットに、穴が空いているせいなのだ)。
優しい言い方ないかなぁ、と薫は考える。
テレビではお笑い芸人が、尻を棒でぶっ叩かれている。そのたびに秋が手を叩いてけらけら笑う。
なんかないかなぁ、と薫は知恵を振り絞る。
忖度と配慮と思いやりと愛情と茶目っ気を混ぜ合わせた平和の象徴のような、追い返し方ないかなぁ。
「……お茶漬け出しましょうか?」
「カオル、大晦日も仕事だと思ってたからさ」
「お茶漬けを……」
「一緒に過ごせて良かったね」
「あ、うん。そうだね」
「みかん、食べる?」
「あ、ください」
秋はみかんの皮をむいて、その半分を薫にくれる。きらきら光るマニキュアは、ちゃんとしたお店でしてもらったのか、いつもより尖っていてゴージャスだ。その爪でみかんの薄皮も、取り除いてくれたらしい。
「ごめんね」って謝りたいけど、謝れない。
薫はベッドから立ち上がると、タンスの上に置いてあった拳銃型ライターを手に取る。引き金を引くと、強い炎が先端から吹き出る。これは去年の誕生日に秋がプレゼントしてくれたものだ。なんでこんなときに手にした。百円ライターならポケットにしまってあったのに。条件が揃うのは、決まってこんなときばかりだ。
悶々としながら吸った煙草は味気ない。
早々にベランダから切り上げて、恋人のいる暖かい部屋に戻る。そして隣に腰を下ろすと、秋はちょっとだけ座る位置をずらして、ブランケットに半人分の隙間を作ってくれる。

「ごめんね」
と薫が謝るより先に、
「煙草くさっ!」
と秋がうめいた。