全ての上着のポケットには百円ライター

全ての上着のポケットには百円ライター

 最近、物忘れが酷くなったような気がする。いや、物忘れではなく、忘れ物か。
 年かな、嫌だな、病気かな、嫌だな……そんなことを思っても顔には出さず(というか出せず)、高杉正造は思案顔で腕を組む。目の前にはジェンガのように積み重なった数十個の百円ライター。スケルトンボディの中でたっぷりとしたオイルが波打っている。今しがたコンビニで調達してきたように新品同様だ。

「見てよこのライターの量。二ヶ月で五十個よ、五十個。どうしてちゃんと持ち歩かないわけ?」
妻の雅子は怒り心頭に発すると、他人への配慮を忘れがちである。今朝、雅子の大声で焼き鳥食べ放題の夢から無理やり叩き起こされた正造は、寝ボケ眼のまま辺りをきょろきょろ見回して大皿に盛られた焼き鳥を探した。もちろん、あるはずがない。自分でも分かっている。万分の一の奇跡に賭けただけだ。
「お父さん! どこ見てるの?」
「す、すまん……」
「すまんで済んだら警察は要らないのよ! あんたの商売上がったりよ! 一家離散よ!」
一家離散、という物騒な言葉に正造はハッと冷静に帰った。驚きの眼で雅子の指差す先を見ると、焼き鳥の骨にしては太いカラフルな物体がひとまとめに置いてある。全て百円ライターだ。これほどの量を一体どこで手に入れたのだろう? 町内会の景品か?
 思ったことを正直に口に出すと、雅子は一瞬だけキョトンとしたが、すぐにまた鬼のような形相で、
「もう知らないっ!」
大喝すると、肩を怒らせて部屋を出て行ってしまったのだった。
 
 「ちりも積もればホニャララ」とはよく言ったものだ。
 家に置き忘れたポケットライターを至る所で購入した結果、いつのまにか五千円もの金額を炎代に費やしていた。どうりで、先月・今月と小遣いが少ないような気がしたわけだ。金輪際、貴重なポケットマネーをみすみすどぶに捨てるようなまねをするものか。ええい、一念発起だ。頭を使って、打開策を見出すのだ。
 頬を叩いて喝を入れると、正造はライター・ジェンガをばらばらに解体し、着回している五着のスーツにポケットライターを詰め込んだ。このように潤沢なストックを用意しておけば、一つや二つ家に置き忘れようとも品切れになることはない。ポケットは数多のライターで毬栗いがぐりのように膨れ上がっているが背に腹は代えられない。これで万事解決だ。正造は満足げに頷いた。

 こうして、彼の心の平和は守られた、一週間後、破れた上着のポケットを雅子の前に差し出すまでは。