肺が軋む音を聞いた

肺が軋む音を聞いた

 彼が目覚めたとき既に日は昇っているだろう。焼けつくような東日の差す部屋、寝がえりを一つ。それから後頭部のうなじより少し上のあたりをかきむしり、大きく欠伸をするだろう。
 無意識のうちに掴んでいた携帯電話のスヌーズが再び鳴り響き、心臓が一拍子早く脈打つ。驚きのあまり取り落とすはずだ。そして、機械的な騒音による微量なストレスが肺と肺の間にやんわりと降りかかる。
 数時間同じ状態に固定され開きにくくなっている目をこすりながら、彼は床の上で震える携帯電話に手を伸ばすだろう。
 ディスプレイの上部にはデフォルメされたネズミのような形の、頭の両側にベルのついた目覚まし時計のイラスト。その下に表示された四桁の数字を見たまま、彼はふたたび肺と肺の間にのしかかる重圧を感じる。
 そしてそれは、先のストレスの二十三倍ほどの重さを持っているだろう。
 鋭い痛みがこめかみを突き抜け、直後、左目の裏側に異常な痛みを感じる。それは夕方まで、奇妙な圧迫感を伴ってずっと続く。しかし、彼は長年の経験からそれが恒常的な鈍痛であることを知っている。
 携帯を拾い上げた一分後、啓示を受けたように彼は気づくだろう。そして普段の自分の、ぼんやりした思考回路からは考えつかないほど突発的な記憶回復に驚くだろう。
 今日は非番だ。俺は、仕事場へ、行かなくていい。
 彼はベッドに腰掛け、まるで僥倖を授かったように予定された空白の時間を喜ぶだろう。彼は考えるだろう。職場の上司や同僚の背筋、わずかな面倒くささと愛しさとを伴った恋人の顔。それから、日常の些事から解放される、大好きな場所――職場の三階にある喫煙室、青空と高層ビルに挟まれた屋上、建物の日陰にある駐車場の死角。そして最後に、煙草。ころころ変わる銘柄の中でも、とりわけ愛着のあるセブンスターのシリーズ。
 ソフトパッケージを思い浮かべた途端、彼の右腕の血管がひくひくと動くだろう。それから間もなく、彼は手を伸ばすだろう、ベッドの脇のキャビネットの上、拳銃型ライターと煙草一本。煙とともに、先のストレスの二十三倍ほどの重さのストレスは消えうせる。消えうせる。消えうせる……。
 親愛なる怠惰な一日の幕開けにふさわしい灰のにおいを嗅ぎながら、彼は苦しいような嬉しいような、感傷的でほろ苦い感情を胸のうちに抱くだろう。それは少し涙の味のする思いだ。

 だがそれは、まだ始まってもいない夜明け後のこと。

 彼は、今、夢の中で肺が軋む音を聞いた。