煙を吐くとき目を逸らす癖

煙を吐くとき目を逸らす癖

 煙草を吸いながら、ちゃんと人の目を見れなくなったのはいつの頃からだろう。自分の部屋でひっそり吸っていたのを親に見つけられた時か。喫煙者が社会の悪者のように見なされているここ数年か。ああ、思い出せない。煙草を吸いながら、まともに瑠璃子の顔をみられなくなってしまったのは、いつの頃だろう。
 元が仕事から帰ると一足先に瑠璃子が来ていた。
「おかえり、ハジメちゃん。お夕飯作っておいたから、一緒に食べよう。」
元のことを熟知している瑠璃子が夕飯を作ると、元の大好物ばかりになる。
 すき焼きに青梗菜にシュウマイに五目ご飯。まるで誕生日みたいな夕飯の献立に元のテンションが上がった。瑠璃子の料理はどれも美味く、青梗菜なんて母親のものに引けを取らない。
一通り料理を平らげて皿も洗うと、元はいつものように「一本吸っていい?」と瑠璃子に断りを入れて、マルボローのブラックメンソールを口にした。瑠璃子も隣でのんびりとしている。
 ふと、瑠璃子の目線が自分に向けられていることに気づいた。……否、もう数分前から気づいていたのだが、どうにも元には瑠璃子の顔を見ることができなかった。煙草をくわえたまま、非・喫煙者に有害な煙を吐きながら、まともに相手の顔なんて見られない。それが好きな人だったらなおさらだ。自分の吐いた煙で、ほんの少しだけど瑠璃子の寿命が縮まっているかも知れないんだ。
 そう思うと同時に、瑠璃子の目を見れない理由に気づいて元は驚いた。だったら止めればいいのにと思う。煙草なんて、百害あって一利なしだ。だけど、何年も培ってきた習慣はやすやすと変えられるものじゃない。煙草があれば吸ってしまうし、煙草がなければ買ってしまう。瑠璃子に見詰められれば目をそらしてしまう。今だって……。
「ハジメちゃん」
瑠璃子の声で元は我に返る。「うん?」と平静を装って答えた元に、瑠璃子がにっこりと微笑みかけた。
「わたしね、赤ちゃんができた」

バリバリバリ、と雷が落下したようだった。
目の前が真っ白になる。

 その間に、これからそうなるであろう瑠璃子との生活、子供の誕生(瑠璃子似の可愛い女の子だ。元はその子どもを「紅子」と呼んでいる)、子供の成長、夫婦の老後……が未来版・走馬灯のように頭の中を駆け巡った。
 赤ちゃんができた、というたった一言に含まれる余りの情報量の多さに元の頭はくらくらした。眼前の瑠璃子は笑っている。白い煙の中からにこにこと笑っている。涙が出そうだ。それは嬉しいからか? 動揺や恐怖からだったら、自分はなんて非道な人間だろう。分からない……分からない……。
元は姿勢を正した。くわえていた煙草を灰皿に押し付け、正座する。
「ハジメちゃん」
「は、はい。はい。はい。聞いていますよ。はい」
「嘘よ」
「はい。はい……は、い?」
「だから、嘘よ。赤ちゃん」
「は……、え……?」
瑠璃子は曖昧な笑みを漏らした。
「ごめんね。びっくりした?」
 元は暫く瑠璃子の顔を見つめたまま何も言えなかった。瑠璃子は元がここまで驚くものとは思ってもみなかったらしく、両手を合わせてごめんごめんと真剣に謝りはじめている。なんとなく、赤ちゃんがいるって言ってみたかったんだ。そんな気分のときって、ない? いや、別に欲しいとか、そういうわけじゃないけど、いやいや、将来的にはそういう選択肢もありかなとは思うけど。 だけど、ねぇ。そんな、先の事、ねぇ? ……ハジメちゃん? 聞いてる? ねぇ、ハジメちゃんってば!
 そうか、子供か。と元は思った。自分に子どもができるなんて考えたことがなかった。
 子供ができれば、益々煙の当たる対象物ができるわけだ。子どもという生物も、呼吸をする。副流煙を吸う。後ろめたさに、俺は益々家族と目を合わせなくなるだろう。煙草を吸わないときでも瑠璃子や子供と目を合わせられなくなったらどうしよう。そうなる前に、煙草、止めなきゃ。未来の子供のために。今から少しずつ……1ミリずつで良いから軽くしていかないと。数ヵ月後になるか数年後になるか、分からないけれど、とにかく禁煙しなければ。禁煙さえ出来れば、子どもがいても大丈夫だ。何も後ろめたいことはない。
「瑠璃子」
「うん?」
「禁煙してから、子供作ろう。それなら大丈夫だから」
雷の衝撃と先刻の元と同じような未来版・走馬灯が瑠璃子の頭の中で駆け巡っていることなど露知らず、元は揚々とした気持ちでマルボローの空き箱をゴミ箱へ向かって投げ入れる。
 見事、スリーポイント・シュートが決まった。