お暇そうですねぇ

お暇そうですねぇ

と、生活安全課の保谷利美は何気なく声をかけただけだった。明らかにどこからどう見ても手持ち無沙汰だと思える男が虚ろな目をして煙草をふかしていたからである。それも署内にある喫煙ルームではなく、署の駐車場近くの建物の車庫のへこみの一角にもたれかかって。
 声をかけたのは利美の単なる気まぐれであったにしろ、この男は度々署内で見かけていた。自分とは部署が異なるのだが、何度か署内の喫煙ルームで出くわしたことがある。確か、刑事課の人間だ。
 利美とさほど年齢の変わらない男は、一瞬怪訝な顔をしたが、向こうも利美に見覚えがあったらしく「ああ、どうも」と言って軽く頭を下げた。
「どうも、保谷です。保安の」
「はあ……保安の保谷さん。はあ、保安の……ああええっと、河野です。刑事課の」
口ごもるような喋り方で、刑事課の河野は名を名乗る。その際、声と一緒に吸っていた煙草の煙が口から吐き出た。河野、と言う名前を聞き、利美はああ、と思った。
 刑事課の河野、といえば他部署にすら知れ渡っているほどのヘビースモーカーである。いつでもどこでも煙草を吸う。しかもその銘柄が毎回違う。まるでワインのソムリエのように何種類もの煙草を嗜んでいるらしいという噂は、他人事に疎い利美でも耳にしたことがある。貴方の無類の煙草好きは他部署の人間にも知れ渡っていますよ、ということを本人が承知しているにしろいないにしろ、ちょっと口に出して言ってみたい利美だったが、仮にも初対面である人間に対して、そんなことを言うのは憚られた。
 それでも、利美はさりげなく河野の左手の煙草に目をやる。
 黒いパッケージのセブンスター。確か今年の二月に発売された「セブンスターブラックインパクト」と言う名の、パッケージからして重そうな煙草だ。河野には敵わないが、一応のスモーカーである利美も少し前から気になっていた煙草だ。しかしまだ試してはいない。
さすが「煙草のソムリエ」は新商品も欠かさずチェックしているようだ。
「ああ、そうそう」
利美がそんなことを思っていた矢先、思い出したように河野は言った。
「僕、暇じゃないです」
思わず利美は自分の耳を疑うほどに、もごもごした喋り方だった先ほどとは得てして、河野はきっぱりと断言する。利美は怪訝な顔を作る。
「あ。いや、保谷さん、さっき“お暇そうですね”と仰られたので。その、お言葉を返すようですが、全く暇じゃないです。外勤中です」
「いや、でも煙草……」
後に続く言葉が見つからず、台詞がフェードアウトする。なぜか利美はほんの少しだけ理不尽な憤りを感じた。それは恐らく、突如として河野が毅然と否定の意を唱えたことに加え、言っていることが支離滅裂に近い、非常識な内容に思えたからだ。
 勤務中ではなく明らかに一服しているではないか。それをお暇そうですねと言わずして何と言うのだ。それとも刑事課の人間は外勤と称して外で一服するのだろうか。これ、何かの隠語か? などと馬鹿らしい一思案を巡らし、利美は我に帰る。目の前の河野は何事もなかったかのように「外勤」を続けていた。
 刑事課の河野は重度のヘビースモーカー、という旧情報に「非常識で変な男」と言う新たな情報を加え、「これでよく刑事をやってられるな」という自分なりの批評をつけて利美は軽く愛想笑いを返す。適当に別れの挨拶を交わしてその場を後にした。それから十歩ほど先を行ったところで、「もうあいつに話しかけるのは止めておこう。いや、でも今度すれ違ったら挨拶くらいはしないとな」という河野との今後の関わり方を定め、署の入り口を潜り抜ける頃には先ほどのやりとりの大部分を忘れてしまっていた。
 利美はそのお昼休み、喫煙所に行ったところで午前中の河野と会話したことをふと思い出すのだが、喫煙所の煙草自販機に「セブンスターブラックインパクト」は売られていなかった。そこで今日の河野とのやりとりは利美の頭の中から完全に消えてしまったわけだが、二十日経った後、また利美は河野に出くわすことになる。
 何を隠そう、この保谷利美こそが河野薫と煙草論争でモメた他部署の人間であるのだ。