もくもくと

もくもくと

 図書室独特の、本の匂い。その、無理やり作られた静けさに耐え切れなくなった生徒達の、囁く声。
 校庭では相変わらずテニス部が練習をしている。果てしなく続くラリーを数えながら、橙子は英語構文の解釈に集中する。
 期末テストまであと十日。一週間前になると普段は部活動をしている生徒たちもこぞって図書室に篭るので、閑散としたここも一時すし詰め状態になる。自分だけの時間を維持して勉強できるのも今のうちだ。テスト期間が近づくにつれて橙子はいつも不思議に思うのだが、何故、スポーツ関係の部活動に所属している生徒は定期テストでトップクラスの成績を保持できるのだろうか。彼らは毎日部活に明け暮れているので、通常授業の予習や復習ですら疎かになりがちなはず。
 帰宅部で時間に余裕がある橙子は、反対に、平均点を維持することで手一杯だ。それは、なんでだろう……。
 橙子の学校の数あるスポーツ部の中でも特に勉強のできる生徒の多いのが、テニス部である。その中でも秀でているのが、テニス部エースの原田君だ。
「もくもくと書いてますねぇ、篠田サン」
唸るような低い声が聞こえてきて、反射的に橙子は身をすくめた。見れば、早乙女君が向かいの席に座って『火の鳥』を読んでいる。珍しいことに、今日のクラスの異端児は喫煙より読書がしたいらしい。
「もくもくもくもく、テスト勉強っすか」
「早乙女君は、今日は屋上に行かなくていいの?」
 図書室に早乙女君のキャラクターがどうも噛み合わないように思え、橙子は聞いた。早乙女君は文庫本サイズの漫画から目を離す。男にしては大きくて黒目がちの目が不機嫌そうに釣りあがった。早乙女君は唇を一舐めすると声を潜めて言った。
「原田の野郎がよ、生活指導の柴センにチクりやがってよ、屋上に鍵が掛けられてた」
「嘘、原田君が? 早乙女君が吸ってたってバレ……てはいないんだ。ここにいるってことは」
 橙子は青色のペンに持ち替えて、英語構文の勉強から単語練習に切り替えた。ensureという単語が、何回書いても意味が覚えられないので、仕方なく橙子はensureを諦め、次に取り掛かる。その間早乙女君は『火の鳥』を熱心に読んでいたが、何かに葛藤するようにイライラと貧乏ゆすりをし始めた。次第に貧乏ゆすりの振動が机にも伝達し始め、橙子の気を紛らわす。
「ねぇ、ちょっと、迷惑なんですけど。勉強できないじゃん」
「俺だって、屋上に入れないの迷惑なんですけど。煙草吸えないじゃん」
韻を踏むように早乙女君が言う。そんなの私には関係ないじゃん、と思いつつも、それを言ってしまったら閑散とした図書室に閑古鳥まで鳴きそうに思えたので、橙子は大げさにため息を吐く。耳にイヤホンをセットするとアーティストの歌声とともに昼下がりの惰眠の中へと身を委ねた。心に煙がくすぶっている。やり場の無い憂鬱な倦怠感を誰かにぶち壊して欲しかった。それにはテニス部のスマッシュ音が適役のように思えたが、生憎、流行歌に支配された橙子の耳には、洗練された心地よい機械音と甲高い女の声しか聞こえてこない…………。