煙草に無精髭

煙草に無精髭

カミソリが切れた。いや、正しくは電動カミソリの電池が切れたんだ。
高杉正造は微かに作動音のするそれを見つめる。安全性を熟考した丸いノコギリが三個ついている刃。今や、なんの意味もなさない。

カミソリの柄の部分に入っている乾電池は単二が1つだった。
正造は妻の雅子に単二電池のストックがあるかどうか尋ねたが、思ったとおり家にはない。そもそも何らかの理由がない限り、単二電池を買い置きしておく家も多くはないはずである。
「今日、電池買ってこよ」
今日は剃らなくてもいいだろう。というか剃れないし。顎も目立っていないし。
それほど気にも留めず、正造はいつものように出勤した。
そして、それほど気に留めていない出来事は大概忘れてしまうのが人間の性であって、その次の日も次の日も正造は単二電池を買うのを忘れた。毎朝、髭を剃るときは単二電池のことを思い出すのだが、家の外へ出るともう忘れているのである。
さすがに三日も髭を剃らないと、目立ってきた。
「お父さん。なんか不潔よ」
朝、雅子にそれを指摘され、
「お父さん、気持ち悪い」
夕方、香苗に煙たがられ、
「父ちゃん、ホームレスっぽいじゃん」
夜、悟に笑われた。

家族全員、個々に髭のことを言われると、さすがに正造も気が気ではなくなる。こういう時に単二電池を買って来いと、子供を近所のコンビニやら電気屋やらに向かわせられたのも、昔の話だ。
大学生になった香苗も、高校受験に忙しい悟も、親父の戯言に付き合う暇などないという顔で各々自分の部屋に引きこもってしまった。
雅子は雅子で、リビングに座りながら、韓国ドラマに夢中である。
「誰か、おれを労われよ……一体誰がお前ら養ってると思ってんだ」
そんな遠吠えを吼えつつ、正造はサンダルを突っかけ、近所のコンビニへ向かう。
午後十時を過ぎてもコンビニ内にはちらほら人がいた。大抵は正造と同じように自宅からコンビニに来た者が多く、上下を適当に組み合わせたとしか思えない部屋着姿のまま、各々商品を手に取ったりしている。
正造は一直線に日用雑貨的な棚へ行くとアルカリの単二電池を取ってレジへ向かう。ついでにレジの後ろに並べられている三十種類ほどの煙草の中からハイライトを注文した。
千円札を払い、三百円ほどのおつりを受け取りコンビニを後にする。帰り際、正造は家より百メートルほど手前の歩道橋の上で一服した。家で煙草を吸うと、雅子に嫌な顔をされるのだ。
「いつでも、おれを慰めてくれるのはお前だけだな」
蛍光灯に照らされたハイライトの表面を撫でながら、正造は呟いた。やけに蛍光灯が青白く、その下で無精髭に虚ろな表情のまま煙草をふかす自分は、何を隠そう刑事である。肩身の狭い思いをしている、刑事なのだ。
五十近くなって、格好がどうのこうのと言いたくないが、今の自分は大変格好悪い。煙も、目にしみる。
「情けないぜ、ちくしょう……」
時代の変化を感ぜずにはいられない。こうやって、子は親のコントロールが効かなくなり、徐々に世代交代をして往かなければならないのに、未だに親父の威厳を手放したくない自分が情けない。
正造はハイライトの煙を思い切り吸い込んで、口と鼻の両方から、一気に煙を吐き出した。
結局、変化していく人間関係や立場の中で、唯一変わらないのは、この煙草の味だけだった。
お前は、変わらないでくれよ――正造は宙に漂う煙を見つめながら、ぼんやりと願った。

髭すら放っておくと伸びてしまうこの世の中、一つくらい変わらないものがあってもいい。