あとを追うもの

 ――ついてきている。
 気がついたのは、五回目にガソリンスタンドへ行ったとき。くっきりとした黒い足跡はスタンドを出て、山へ続いていた。その先には自分の家と車でしか越えられない急な山道があるだけ。灯油缶を積んだソリを引きながら、男はあとを追う。
 ――間違いない。こいつは、俺の家に向かっているんだ。
 曲がり道に差し掛かったところで足跡はぷつりと途切れていた。何の前触れもなく、まるで天から伸びた手に、救い上げられてしまったかのように。
 なす術もなく、男は空を見上げた。
 初めて足跡が現れた・・・・・・のは、今冬最大とまで言わしめた大雪が止んだ次の日だった。ずぶずぶと、放っておけば身体ごと呑みこまれてしまいそうな積雪をかき分け、自宅から一キロ先にあるガソリンスタンドにたどり着くと、既に長い足跡が出口に向かって伸びていた。こんな山奥にお客だなんて珍しい。灯油缶を給油機に差し込んだまま、男は興味深げに足跡を観察する。つい数分前につけられたと見えて、形がしっかりしている。男と同じくらいの大きさの、大人の足だ。星型の滑り止めが入った靴底の模様が、開封したばかりのスタンプのようにくっきりと残っている。
 奇妙だったのは、足跡が出口に差し掛かったところで途切れてしまっていたこと。駐車していた車に乗り込んだのだろうか。それにしてはスタンドの周りに車輪のあとは見受けられない。そもそも車道は雪掻きすらされていないので車の入り込む余地はない。ならば空にでも飛び立ったか……まさか!
 その時は大して気に止めなかったものの、スタンドへ行くたび同じ足跡に遭遇すると、さすがに気味悪くなってきた。
 足跡の軌跡は変化した。最初は出口の前で途切れていたものが、次見たときは出口の外へ出たところ、そのまた次は右方向に曲がったところ……着々と前進しているのだ。それも、自分の家に向かって。
 友人のものかもしれない、と男は考える。遠い昔に失ったかつての友人。ゴーストとなった彼が、恨みを込めて自分のあとを追って来たのだ、と。
 十年前の、ガソリンスタンドから……。


「金が欲しいか?」
 そう言って話を持ちかけられたのも、雪の降る冷たい夜だった。
 「強盗」という物騒な物言いに驚いて、思わず大声で訊き返すと友人は慌てたように辺りを見回した。酒場の誰もが各々の話に夢中だと知り、安堵したように息をつく。大声出すなよ、人に聞かれるとまずいんだ……そのように釘を刺して、友人はひそひそと計画を語った。
 彼の勤めるガソリンスタンドは、客の少ない冬の夜は一人できりもりすることになっていた。集金は日に二回行われ、昼の稼ぎは夕方に、夜の稼ぎは明け方に、それぞれ店のオーナーへ納金する。
 ただし水曜日だけは、オーナーの都合により昼夜の稼ぎをまとめて木曜の朝に手渡すことになっていた。つまり、水曜の夜間は一日分の売上金が金庫の中に詰まっていて、店員である自分の立場を利用すれば、何十万もの金を根こそぎ手に入れることができるのだ、と友人は言うのだった。
「金がなくなったことが知れたら、店番をしていたお前が真っ先に疑われるじゃないか」
男の言葉に、巻き煙草を吹かしながら、友人はあっけらかんと笑った。
「なあに、用事が済んだらガソリンをまいて店ごと燃やしちまえばいいのさ。強盗を火事で揉み消すんだ。消防隊が駆けつけるころには、俺たちは姿をくらましている。そのまま、どこへでも好きなところへ逃げちまえばいい」
 打ち合わせ通り、水曜の夜更けに男がやってくると、友人は既に金庫から金を出して待っていた。用意した布袋に金を詰め込みながら、後悔していないかと男は聞いた。実のところ、彼自身、少しばかり後悔し始めていたのだ、犯罪に加担してしまったことに。
「後悔なんてしないね」
友人は、はっきりと断言する。
「人生は一度きり、振り返れば後悔だらけさ。計画を中止したところで一獲千金のチャンスを逃したと悔やむこともできるだろう。ならば、自分が選んだ道を振り返らずに進むべきだ。さもないと、後悔があとからついてくる人生になっちまう」
友人が店内で煙草を吸っている間に、男が一人でガソリンをまいた。薄く雪の張ったコンクリートの上に黒い足跡がぺたぺたとつく。まるで追跡者だ、と男は思った。
 ガソリンをまき終え、準備万端の合図を送ろうと店の窓を振り返るが、薄い紫煙が渦巻いて中の様子が見えない。仕方なくプラスチックの容器を投げ捨て、店内へ向かおうとした、そのときだ。
 遠くから低いサイレンのうなりが聞こえてきた。薄く流れる雪の中から、怪物の目玉のように、赤いパトランプがぼんやり光った。反射的にガソリンスタンドから飛び出すと、男は遠く離れた草の茂みめがけて走った。どうして計画がバレたんだ? 客の誰かが、あのときの酒場での会話を盗み聞きしていたのか?
 サイレンはどんどん大きくなる。友人も気づいたようで、背後で店のドアの開く音が聞こえた。直後、爆風に煽られて男は顔面から冷たい雪の中に突っ込んだ。慌てて後ろを振り返れば、ガソリンスタンドは紅蓮に逆巻き、周りの雪までもが炎の色を投影して一緒に燃えているようだった。巻き煙草のせいだ、と男が気づくころには辺り一面火の海と化していた。
 翌日の新聞に、ガソリンスタンドの事件は「火災事故」として掲載された。
 友人の顔写真の下に「事故に遭ったアルバイト店員。全身に三度の大やけどを負い、現在も病院で治療中」と文字が印刷されていた。自分のまいたガソリンが友人を燃やしたのだ。恐ろしくなって男はすぐに町を出た。以後、友人とは一度も連絡を取っていない……。

 足跡は家の前までやってきていた。星型の模様のついた両足を揃え、玄関で止まっている。白い雪の上に点々と、人生のように続く長い軌跡。男は問うた。
 ――友よ、お前は死んだのか。
 足跡は答えない。
 ――俺を恨んでいるのか。
 足跡は答えない。
 ――俺にどうしろというのだ。
 足跡は答えない。
 後悔ならば数え切れないほどした。何度、謝りの手紙を送ろうと思ったことか。電話をかけようとしたことか。しかし、友の死を恐れるあまり、行動に移すことができなかった。あんな誘いに乗らなければ、途中で計画を中止していれば、ガソリンなんてまかなければ……。
 しかし、それも今日で終わり。友人は死んだのだ。雪の上に、足跡だけを残して。
 男は椅子から立ち上がると、本棚から分厚いノートを取り出した。ノートには男と関わりのあるすべての人間の住所が記録されていた。友人の家の番号は最初のページに記してある。受話器を手に取り、回線が途切れていないことを祈りながら、番号を回す。遺族の誰かに、事件の真相を告白しよう。ガソリンをまいたのは自分だ。友を焼き殺したのは自分なのだと、懺悔するのだ。
 受話器を耳にあてながら、家主が出るのを固唾を飲んで待った。呼び出し音に合わせて、どこからかトントントン、と音がする。トントントン、トントントン。家のドアをノックしている。
 いつの間にか雪が降り始めていた。窓ガラスにへばりつく雪の結晶が、無数の人の顔に見える。祈るような気持ちで男は呼び出し音が止むのを待った。
 十回目のコールでついに電話に出た。太い男の声だ。聞き覚えがある。いやに懐かしい。まさかと思い名前を尋ねると、死んだはずの友人が嬉しそうに笑った。
 
 ――久しぶりだなあ! お前、今まで何処で何をしていたんだよ。一度も連絡を寄こさないで、てっきり爆発に巻き込まれて死んだものと思っていた。俺もあのときは 死を覚悟したが、九死に一生を得て、今ではこのとおりピンピンしている。あれから心を入れ替えて、真面目に働くことにしたんだ。おかげで家族もできて、幸せにやっているよ。なあ、久しぶりに会おうじゃないか。町を出てからの、お前の話を聞かせてくれよ……。

 叩きつけるようなノックの音に友人の声がかき消される。男は受話器を元に戻した。ミシミシと、天井が軋む。止め処ない雪が屋根に積もって、家を押しつぶそうとしているのだ。窓は完全に覆いつくされ、重なり合った白い雪が、ガラスを黒く圧迫する。
 玄関のドアに近づくと、男は唾を呑みこんでノブを回す。瞬間、爆風のように激しい雪風が男のやせ細った身体を後方へと押し倒した。頭を強く打ちつけ、男は暗い闇の中に沈みこむ。

 高くうずもれた雪の上に、実体のない黒い足跡が点々とついていく。
 部屋を一回りしてから、男の足元でぴたりと止まり、足跡は永久に動かなくなった。
  

 

あとを追うもの