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 太陽。空。雲。
 砂のにおい。誰かのかけ声。熱い身体と喉を通る冷たい風。
 揺れる背中。遠ざかる背中。日差しを受けて輝く背中。ゴールする高瀬川の、白い背中。
 ひゅっと冷たい風が吹いて、地面の上を走っているのに、高い崖から突き落とされた気分になる。
 叫べるものなら叫びたい。
 知っている人がいるなら教えてくれ。
 どうして、高瀬川に勝てない?
 マネージャーから悲しげな励ましを受け取るのが嫌で、オレは水を飲みに行くことでその場を逃れた。
 背後では「新記録」とか「自己ベスト」とか、胸のざわつくキーワードが飛び交っている。騒ぎ立てるみんなの中で、高瀬川だけが変わらずにこにこと笑っているのだろう。
 ひとたび走れば景色が変わる、あいつは穏やかな嵐みたいだ。
 立ち止まって、空を見上げる。

 青い。
 こんなに青い空は見たことがない。

 負けると景色がきれいに見えるのは、自分を惨めに思うからか。
 それとも涙の代わりに、乾いた心に染みるからか。
 間の悪いことに水飲み場には例の三人組がいた。面倒くさいと思う前に、こいつらどうしていつも三人でいるんだ? と疑問に思う。
 オレとセツナとネムルはクラスも同じだし、「砦組」とひとまとめにされることが多いけれど、しょっちゅう顔を合わせているわけじゃない。自分たちの生活があるし、高校に進学してそれぞれの進む道もばらけた。それでも互いを大切に思っている。傷つけたくないと思っている。困っているときは力になりたいと思っている。
 ところがこいつらは、一緒にいるにもかかわらず意気投合しているわけじゃなさそうだ。絶えず張り詰めた空気を感じる。互いが互いを見張っているような。

 ……謎だ。

「よお、ナギじゃないか。僕たち、ちょうど君の話をしていたところなんだぜ」
「……ああ」
 物珍しさが勝って反応が遅れた。三人はオレが競争に負けて落ち込んでいると思ったらしい。
 どこか同情的に彼らは言った。
「ナギ、元気出せよ。高瀬川くんと僕たちじゃ格が違うんだよ。いい加減に認めたらどうだ?」
「頑張っても骨折り損だよ。相手は街でいちばん偉い市長さんの一人息子。対して俺たちは何の変哲もない一般家庭の子供たち。遺伝子レベルで勝敗は決まっているんだよ」
「そもそも、走ること自体が体力の無駄遣いだよね。自動車もバイクも走る現代に足が速くて何の得があるのさ? 汗くさいし、クールじゃないぜ」
 そうだそうだと言い合う三人を見ていたら、数学の問題を解くよりあっさりと、こいつらがつるむ謎が解けた。
「前を向くのが面倒で、真剣勝負が怖くて、取り残されるのが不安で、だからお前らは一緒にいるんだ」
 三人は怪訝そうにオレを見る。
「……どういうことだ?」
「それはこっちのセリフだよ。傷を舐め合って楽しいか? 誰かを見下して幸せか? オレにはよく分からない価値観だな」
「な、なんだとっ?」
 茶化すでもなく、嫌味や皮肉で返事をするのでもない。その声には本物の怒りが込められていた。
 やっぱり、図星か。自覚があるなら何とかしろよと思うが、心の中で苦しみながら、見せかけの平穏に巻かれたいやつらもいるんだろう。
 オレには関係ない。それなら、余計な口出しをするんじゃなかった。
 三人はいきりたった様子でオレを睨みつけている。一波乱起きそうな雰囲気だ。困った。多勢に無勢なのも困るが、それ以上に部活中に面倒を起こしたくない。
 ただの喧嘩が「暴力事件」に発展したら、今後の大会に出場できなくなる可能性がある。最悪の場合、部活単位で謹慎処分が下るかも知れない。
 三人に失う物は何もない。だからこそ、潰すなら徹底的に潰すだろう。
「お、落ち着け! バカな真似はやめろ!」
 気分は逆上した犯人をなだめる刑事だ。
「そんなことをしても何の解決にもならない。益々自分を腐らせるだけだぞ」
「先にふっかけてきたのはそっちだろ!」
「そもそもの発端はお前らじゃないか。三人で、部活サボって、陰口叩いて、悪ぶるにしてもスケールが小さいんだよなあ」
「うっ……、うるさいうるさいっ! 俺たちのスケールが小さいっていうんなら、今日こそ正々堂々と、リアルに、メジャーに、本格的に、いじめてやる!」
 あー、ダメだ。落ち着かせるつもりが逆に怒りをあおってしまった。
 やむを得ない。殴られそうになったら、逃げよう。
 相手の攻撃に備えて身構える。
 三人が一斉に飛びかかった、そのとき、

「待て!」

 高瀬川が立ちはだかった。
 胸を張って、背筋を伸ばして、まるでヒーローだ。その姿はりりしかったが、拳を受け止めるわけでも敵をやっつけるわけでもなく、ただ割り込んできただけという感じだ。

 ……こいつ、バカなのか?

 首根っこを掴んで引っ張る。
「うわぁっ!」
 高瀬川が身体をそらした空中を三つの拳が掠めてゆく。
「高瀬川くん、危ないよ! もう少しで殴るところだったよ!」
 三人もびくびくしている。
「話は聞かせてもらった!」とこれまたヒーロー感のあるセリフを言い放つ高瀬川。
「君たちはケンカをするために陸上部に入ったわけじゃないだろう? 足の速さなんて関係ないよ! かけっこは楽しんだ者勝ちだもの!」
 真剣な顔で走る楽しさを力説する。明るい色の炎が、めらめらと高瀬川の周りを取り巻いている。このまま夕陽に向かって駆け出しそうな勢いだ。

 初めのうち三人はにこにこしながらその熱弁を聞いていた。ところがその笑顔が徐々にひび割れてきた。高瀬川が「トップアスリートにならなくてもいい!」「グラウンドは友だち!」「ここで諦めたらレース終了だよ!」などと口走るたびに、額に浮かぶ青筋は数を増していく。
 突然、一人がにこにこしたまま殴りかかってきた。
 首根っこを掴んで引っ張る。
「うわぁっ!」
 のけぞって、拳を避ける高瀬川。

 ……確かにお前の言いたいことは分かるよ。かけっこは楽しいよな。楽しんだもん勝ちだよな。

 でも、さあ……。

「「金メダリストのっ、お前がっ、言うなっ!」」
 高瀬川以外の全員がハモるという、一生に一度の奇跡が起こる。
 三人はオレたちから距離を取ると、ぶつぶつと相談し始めた。
「なんかムカつくよなー。高瀬川」
「エースだかなんだか知らないけどよぉー」
「ここらでいっぺん、シメとくかー?」
「高瀬川いじめに賛成の人」
「はい」
「はい」
「はい」
「満場一致で、標的変更」
 何やら不穏な議題が可決したらしい。高瀬川は話の筋が掴めないのか、不思議そうな顔で首をひねっている。去っていく三人の背中を見つめながら、
「あの人たち、分かってくれたかな……」
 ひとりごちたもんだからたまげた。

 こいつは、正真正銘のバカだ。

 成績なんて関係なくて、走ることが大好きで、その楽しさを他の人にも教えたい。ただ、それだけなんだ。
 高瀬川は良いやつだ。そんなの、ずっと前から知ってる(バカなことは今知ったけど)。
 弱肉強食のスポーツの世界で、お人好しのこいつが頂点に立っていられる理由、それは天性の才能があるからだ。才能が育つ環境と、努力を止めない根性と、健康な身体、それに「走ること」が好きという気持ちでさえ、オレよりたくさん持っているなんて……。

 神様、不公平だよ。
 オレはあんたから何ももらってない。

「……バカだな」
「え?」
「バカだって言ってんだよ。部活やってる全員が、走ることが大好きだって本気で思ってんのか? 世の中は好き≠ネ気持ちだけで成り立っているわけじゃない。有名になりたくて走っているやつもいるし、その名誉を利用しようと企む汚いやつもいるんだよ。そいつらの気持ちをお前は知らない。オレもお前の気持ちなんて知るか」
 高瀬川に背を向けて、グラウンドまで走る。
 オレは振り返らなかった。


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