10 冷たい。 真っ暗闇。 ゴボ……ゴボ……。 耳元で水の動く音。 あたし、海に落ちたんだ。 息ができない。 心臓も、もうじき止まって。 お父さんとお母さんのところへ……。 「――ナ。セツナ」 蛍光灯の人工的な輝きが、ぶれた視界にベールをまとわせる。美しい光。目が離せない。 両腕につるつるした革張りのソファの冷たさを感じる。それから重力。意識した瞬間に、身体がずしんと重くなる。 「セツナ」 穴から顔を覗かせたウサギみたいに、ひょこっと視界に飛び込んできたのは、人形のように整った顔立ちの女の子。 この子、知ってる。 あたしの、いちばんの友達の……。 「ネムル!?」 ごちーんっ! 大きな音がして、目の前を火花が散った。いきなり体を起こしたせいで、意図せぬ頭突きを喰らわせてしまった。「がっ!」と漏れた出た声とともに後ろへひっくり返ったネムルは、両手で額を抑えながら痛みをこらえている。 「ご、ごめん……」 「んっ……、くっ……!」 ぷるぷると、震える指が描き出す。「今、何も言えん」のサイン。 わ、わざとじゃないのよ……。 痛みに震えるネムルの背中に、水の影が浮いている。天井と一体になったプールの水面だ。 ということは、ここは「宇宙プラザ」? 辺りを見回す。 通路のあちこちで店員さんたちが、お客さんに洋服をすすめている。穏やかな店内のBGM。買い物客の賑やかな声。つやつやしたリノリウムの床。遠くで女の人のハイヒールの靴音がこだましている。 あたしの周りを、完璧に整った普通の日常が取り巻いていた。 非現実的な出来事が入り込む余地もない。灯台も、嵐も、剣も、刀も、あたしにそっくりな女の子もいない。 そして、傷だらけのあの人の姿も……。 「マサキさんは……どこ?」 「マサキ?」 赤くなったおでこをさすりながら、ネムルは涙にうるんだ目であたしを見上げた。 「マサキ……ああ、探偵のことか。あいつなら家に帰ったよ」 「家って、曼荼羅ガレージ=H」 「そうだよ」 「あたしたち、灯台にいたはずじゃ……」 「灯台って、レムレスの向こうの、あの灯台?」 うん、と頷いて、灯台で起きたことをネムルに説明する。ユークと名乗る少女に導かれてから、海に突き落とされるまでの一切を。 この目で見て、体感したことを説明するのに長い時間は掛からなかった。 「なるほど……」 話を聞き終えたネムルは思慮深げな様子で腕を組んだ。その様子を、固唾を呑んで見守る。天才的な頭脳を持つ、この子は何を考えているんだろう。 ……ところがネムルは、なーんにも考えていなかった。 真面目くさったその顔が、ぷっと吹き出すと同時に破裂した。深刻な顔のあたしを見て、笑うまいとこらえていたものが一気に噴き出したらしい。ソファに縋りついてげらげらと爆笑している。 「もーっ、あんた信じてないでしょ!」 そう言うあたしも、恥ずかしさで頬が熱い。 本当なのに! 本当のことを言っているのに! ……でも、声に出して説明しているうちに臨場感が消え失せて、漫画や小説に影響された作り話を語っているような感覚がしていたのも事実だ。 これじゃ、まるで……。 「セツナの夢は壮大だなぁ。二時間のアクション映画ができそうだ」 「夢?」 あたしが見たのは、夢……? 自分の足を見る。花のコサージュがついたサンダル。特に変わったところはない。スカート、Tシャツ、異常なし。 海に落ちたはずなのに、どこも濡れていないのはなぜ? 「それじゃあ、答え合わせといこうか」 今度はネムルが、あたしが眠っている間に起こったことを説明してくれた。 ネムルによると、マサキさんは突然駆け出したあたしを追って「宇宙プラザ」を探し回ったらしい。それでも見つからないので「曼荼羅ガレージ」に戻ってネムルに捜査協力を願い出た。 ソファに横たわっているあたしを見つけたのは、今から十分前のこと。 「きっと疲れが出たんだな」 「どういうこと?」 「君、朝から晩までジェットコースターに乗りまくっていたそうじゃないか。聞くところによると、六回?」 「ううん。十一回」 「十一回とは随分だな……まあいい。人間、慣れないことをすると急に疲れが出るものだ。前後不覚のままふらふらと彷徨い歩いた果てに寝心地の良いソファーを見つけたのが幸か不幸か……とにかく君は乙女の恥じらいもなく大衆の面前で眠りこけてしまったわけだ」 「お、乙女の恥じらいって……ちょっとうたた寝していただけじゃないの」 「うたた寝の割には手の込んだ夢を見たもんだね」 ネムルはクスクス笑っている。 確かに、ネムルの言うことは筋が通っている。 あたしは疲れて眠ってしまった。その間に夢を見た。あたしそっくりの女の子や、剣に変形する手や、戦闘モードの探偵さんや、時代劇さながらの鍔ぜり合いや、海に突き落とされたことや……それらは当然、現実にはあり得ない。夢を見たと考える方が自然だ。 それでも、心のどこかで納得できない自分がいる。 あれは本当に起こったのだと、あたしの中の何かが訴え続けている。 だって、あたしは…… 「存在してはいけない存在」 「何?」 「その女の子に言われたの。あたしは、存在してはいけない存在」 「……」 ネムルはぴょんとソファに飛び乗った。 赤いスニーカーを履いた足がぶらぶら揺れる。じっと彼女の足を見つめた。 二人喋らずにいると、ネムルの輪郭が少しずつ濃くなっていくようだった。 やがて、ネムルは口を開いた。 「……君が存在してはいけないのなら、ボクも存在できなくなってしまう」 「どういうこと?」 「退学」 きっぱりと言い放つ。 「君がいなくなったら、ボクは学校なんて行かない。なぜなら、君のいない学校は超だるい≠ゥらだ。糞めんどい≠ニ言うべきか。ナギは付き合いが悪いし、モモコは生徒に窃盗の罪を被せる悪徳教師だ。君が存在しない学校に、ボクが存在する意味はない……それは世界も、同じこと」 世界……。 ネムルは胸のペンダントを握りしめ、それからにこっと笑った。 「でも、それらはすべて夢の中の戯言だ。君が気に病むことはない」 小さな身体が、ソファに乗り上げたときと同じようにぴょんと跳ねた。立ち上がったネムルは、身体慣らしにぴょんぴょんと二三度跳ねると、海色の長い髪を揺らしながら振り返った。 「帰ろう、セツナ。探偵が夕飯を作ってくれているぞ」 「マサキさんが?」 「すべてに置いてアヤシイ男だが、料理の腕前だけは信用できる。あいつは虫眼鏡ではなく、包丁を握るべきだな」 途端に、お腹がぐるるるー、と鳴り出す。 そういえば、遊園地に夢中になり過ぎて、お昼ご飯を食べるのをすっかり忘れてた。 ぎゅるるるるるるー。 は、恥ずかしい……。 「探偵が聞いたら喜ぶな。いや、ヘンタイだから興奮するのかな」 「もー、変なこと言わないで!」 くすくす笑いながら、ネムルは駆けていく。後を追うために、ソファから立ち上がろうとして……しびれるような痛みが走った。 ふらふらとソファに座り込む。 足、怪我してる? ……。 ……。 ……思い出した。 ユークに突き飛ばされたときに、足をくじいちゃったんだ。 あれ? ちょっと待って。 それじゃ、あの出来事は夢じゃなかったの? あたしの夢が、夢じゃなく現実だとしたら。 ネムルの言ったことは、嘘……? 「おーい、セツナー?」 遠くからネムルの声が聞こえてくる。 眠たげな、いつもと同じネムルの声。 それでも、気づいてしまった。 ネムルは、嘘をついている。 どうしたら良いか分からなくて、動けなくなりかけたそのとき、 ぐるるるるー。 再び、お腹が鳴った。 ぐるるるるるー。 あたしはちょっとだけ迷って、泣き出しそうになりかけて、それでも痛む足をかばって立ちあがった。 あからさまに存在を主張するお腹を抱えて、 「今、行く!」 その嘘に乗ることに決めた。 平凡な日常に、戻るための嘘に。 割り切って、すべてを忘れて、思い出しても気づかないフリをして。 歩き出す。 大好きな友達の元へ。 夏休みの第一日目の、幸せな夜の中へ。 <第一章 黄昏アクアモービル 完>
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