SCENE:10‐3 8時30分 汐生町 某所
衛星電話を多用するネムルにとって、スマートフォンを操作するのは久しぶりだった。SNSアプリを何種類か開く。
どのSNSでもトレンドワード1位に「リリー・タイガー 泥酔で裸踊り」という見出しが踊っている。ちなみに第2位は「リリー・タイガー 浮気で六股」、第3位は「リリー・タイガー 一年で10キロ増量」である。各記事には、かなりきわどい画像や動画が掲載されている。
「嘘でしょ……私たちのリリーが……(涙)」
「浮気なんて最低ですね。謝罪してほしいです。」
「光の速さで画像保存した! 今夜が楽しみだなあw」
「元の体型に戻るまで何百万かかるんだろう?」
どのコメントも、様々な欲望が剥き出しになったまま、燃えに燃えている。
「ワッツハプン!? どういうことデスカ、ネムル!」
二時間ほど前、慌てたリリーから電話がかかってきた。写真や動画はすべて、リリーのノートパソコンに保管されていたものだったので、これらのネタをリークした犯人が分かったのだろう。
「お仕置きだよ、リリー・タイガー」
「お、お仕置き!?」
「そうだよ。今回の借りを返していなかっただろう。パパラッチに注意したまえ」
忠告している側から、リリーの背後で人々のざわめきが聞こえてくる。
「あっ、リリー・タイガーだ!」
「今回の件について一言!」
「この情報は真実ですか?」
「今カレの反応は?」
「ねぇ、リリー!」
「待って、リリー!」
リリーの荒い息遣い、地面を駆けるピンヒールの音が聞こえる。
そして、唐突に電話が切れた。切れたというより、取り落とした電話の上を多数の靴が踏みつけて壊れたようだった。
これで当分は、彼女も大っぴらに行動出来なくなるはずだ。
アプリを閉じると、ネムルは携帯電話をポケットにしまう。
やがて、待ち合わせ場所が見えてきた。
そこは海沿いの散歩コースだった。アスファルトの上をランナーが駆け抜け、遊歩道の片側に緑の芝が広がり、小型犬を走らせる人や、シートを敷いた人々が海を眺めている。
人で賑わうエリアから少し外れたところに、人影が見える。年端のゆかない少女のようだ。
十七世紀フランスを思わせる豪奢なドレス、縦ロールにした栗色の髪に、赤いシルクハット型のヘッドドレスがまぶしい。腕組みしながら日傘を握り、長い睫毛の生えた大きな瞳で、ネムルのことを見つめている。
おや、とネムルは思った。
少女は左右で瞳の色が違う。左目は黒。右目はピンク。ピンク色の目の中に、
機械義眼だと、ネムルは見抜く。
今回の事件の重要関係者が、直々にお出まししたようだ。
少女は素早く片手を挙げる。すると、数人の人影が飛び出した。無表情の白い男女……戦闘用のフィジカル・ヴィークルだ。
彼らは四方からネムルを取り囲み、一斉に飛びかかる。
が、草むらに隠れていた、別のフィジカル・ヴィークルによって取り押さえられた。その軍勢は、スーツをまとい、ウサギの頭部がついている。
手と手を組み合わせ、力比べを繰り広げるフィジカル・ヴィークルたち。
力と力が
その様子を静観していた少女が、パチンと指を鳴らす。すると
スーツ姿のウサギたちは、ネムルの背後に立ち並ぶ。
「ボクのボディ・ガードだ」ネムルは告げる。
「丸腰で会いにくると思うかい?」
「自力で複製を作るなんて……貴方にサンプルを与えたのは、間違いだったみたい」
少女は余裕の面持ちだ。ぱちぱちぱち、と気の抜けた拍手をする。
「〈MARK-S〉に戻っても、現役を張れると思うわよ」
皮肉な賞賛に、ネムルはわずかに眉をひそめた。
コホン、と咳払いをして、話題を変える。
「君は、南雲博士ではないね」
「ええ。アタシは、フランボワーズ」
「南雲博士……
「南雲蓮?」
フランボワーズは首をひねる。蓮、れん、レン……と繰り返し、その名を思い出そうとしていたが、諦めたように首を振った。
「そんな人は知らないわね。アタシが知っているのは、
南雲豪……ネムルは顎に手を当てる。南雲蓮という
南雲蓮博士の子供なら、ウィルスのことやフィジカル・ヴィークルの作り方を継承しているのも納得が行く。ネムルの父親――楠木ツムグ博士が〈MARK-S〉の科学者であったように、彼もまた肉親からの業を継いでいるのかも知れない。
「南雲豪博士に会えるかね?」
「会いたくないって」とフランボワーズ。
「だから、アタシが出てきたの」
「君は何者かね?」
「アタシは豪の姉。弟と違って、科学の才能はないけれど」
フランボワーズは肩をすくめる。彼女は大変な美少女だ。この少女が一つの動作に力を込めると、西洋絵画の一部分を切り取ったかのように見栄えがする。
お姫様のような服装も相まって、存在自体に華がある。その派手な外見を生かして、外部との交渉は、すべてフランボワーズが引き受けているのだろう。
彼女は手を振りかざし、何かをネムルに投げつけた。ボディー・ガードの一人が、すぐさま飛び出てキャッチする。うやうやしくネムルに捧げる、ウサギの手には一個のUSB媒体。
「設計図よ」とフランボワーズが補足する。
「欲しいと言っていたでしょう。ユークをメンテナンスするときに役に立つと、豪が言ってる。〝信じてくれなくてもいいけど、ウィルスは入っていない〟ですって」
まるで南雲博士が近くにいるかのような口ぶりだ。
ネムルは周囲に目を走らせるが、それらしき人物の姿は見えない。
「南雲豪博士に伝えてくれ」仕方なくネムルは切り出した。
「今回の騒動は海軍スナーク隊のリリー・タイガーが引き起こしたこと。我々としても不本意だった、と」
「伝えるわ」
「感謝する」
「ただ、争いは避けられないわよ」
フランボワーズはにこやかに微笑んだ。
「リリー・タイガーが宝探しを続ければ、〈MARK-S〉も対抗せざるを得ない。毒を持って毒を制す――やがて二つの毒が、海砦レムレスを汚染することになるでしょう」
「……」
ネムルは生唾を飲み込む。
青い海と人工海岸、白塗りの家々が
ようやく復興した故郷が、またしても誰かの都合の良いように扱われてしまうのか。
「〝慈悲深き機械〟のありかを教えてくれない?」
猫撫で声でフランボワーズが持ちかける。
「アタシとアナタで協定を結ぶの。〝慈悲深き機械〟を使って、迷惑な海軍をやっつけてやりましょう。もちろん、〈MARK-S〉にはナイショでね!」
ネムルはフランボワーズを見上げる。緑色の瞳が、叡智に輝き、すっと細くなった。
フランボワーズとしては、揺さぶりをかけて宝の所在を聞き出すつもりでいたが、ネムルにはそのワードが、冷静に立ち返る「気つけ薬」らしかった。
ネムルに見据えられたフランボワーズは、得も言われぬ不気味さを感じ、思わず一歩退く。
〝慈悲深き機械〟……その言葉は禁句だった。
なぜならば、国勢に匹敵する神のマシンは、楠木ネムルが手にしているからだ。
「ボクは、そんなものを知らない」
小さな唇から、仄暗い笑いが漏れる。ネムルの表情に暗い影が差すが、瞳はギラギラと強烈な輝きを放っている。
今や、言葉の意味は逆転している。
知らぬ存ぜぬを突き通せば突き通すほど、真実は日の元に晒される。
しかしそれすら些細なことだと、ネムルは考えているようだった。
「ボクは、何も知らないよ」
フランボワーズと別れ、緊迫状態から解放されたネムルは港町を歩く。
汐生町――小さな土地に繁華街やビジネス街、住宅地、山川、田畑までがコンパクトに収まったこの町に、思い入れがない。高校へ通い出すまでは砦の中で過ごしていたし、〈MARK-S〉と関わるようになってからは、ビジネス街にある彼らの研究施設からほとんど外へ出なかった。
思い入れがないというより、この街との関わり方を知らずに大人になってしまった。
広い世界、とネムルは思う。小さな港町のくせに、自分にとっては大海ほどに広い。
どこへ向かおうかと迷う。
ボディ・ガードのウサギがいれば、敵襲や人さらいに気を張り詰める心配はない。
たった一人で世界を歩く――こんなことは、初めての経験かもしれない。
「ボクは……何がしたいのだろう」
ネムルはつぶやく。今まで考えもしなかった問いだ。
ボクは、何がしたいのだろう?
神にすがるように、目についた電光看板を仰ぐ。
「パーマ・カット」という文字が点滅する、床屋の看板。
「パーマ・カット」「1000円~」「お待ちしております」の三つの文章が延々と繰り返される。この看板は、壊れるまで永久に同じ言葉を繰り返す。そのようにインプットされている。
「パーマ・カット」「1000円~」「お待ちしております」
ネムルはじっと看板を見つめる。
「パーマ・カット」「1000円~」「お待ちしております」
「パーマ・カット」「1000円~」「お待ちしております」
「パーマ・カット」「1000円~」「お待ちしております」
「ボクは、何も知らない」
そうつぶやいたとき、
「パーマ・カット」「1000円~」「お待ちしております」
「パーマ・カット」「1000円~」「お待ちしております」
「パーマ・カット」「1000円~」「何も知らなくていいのです」
「パーマ・カット」「あなたは」「何も知らなくていいのです」
「ネムル」「あなたは」「何も知らなくていいのです」
「ネムル」「あなたは」「何も知らなくていいのです」
「ネムル」「あなたは」「何も知らなくていいのです」
入れ替わったメッセージが、うつろなネムルの眼球に反射する。
ひときわ強く光を発したあと、電飾看板が消えた。