SCENE:8‐2 15時00分 汐生町 小学校 坂下
さりゅは辺りを見回して、思わずため息をついた。卒業して三年も経っていないのに、懐かしい感情がこみ上げてくる。
ここは汐生小学校。レムレスを出たさりゅが初めて目の当たりにした外の世界だ。
陸太と海斗の金原兄弟と知り合ったのも汐生小。友情を育むきっかけが良い出来事ではなかったからこそ、ここまで長い付き合いが続いているのかも知れない。
坂下に出来た広場へと足を運ぶ。リリーのホテルで夢に見たものとさほど変わらない光景に、少しだけ足がすくむ。海斗によって大部分が良い思い出へと書き換えられたが、傷つけられた記憶は今もなお心から消えない。
あの夢には続きがある。
「君は早くお家に帰りな」
その言葉に従って、さりゅは一目散に逃げ出した。しばらくの間、
当時、海斗とは一言も口をきいたことがなかった。それなのに彼は助けてくれた。多勢に無勢の中、友達でもないのに身を呈して。
そんな優しい人を、見捨てるわけにいかない。
逃げてきた道を引き返すのは、とてつもない恐怖だった。あの戦況で、彼が勝利を収めているとは考えにくい。いじめっ子たちに返り討ちにあっていてもおかしくはない。そんな場所へ身を投じることがどれほどの自殺行為であるか、幼いさりゅにもよく分かっていた。
苦痛をともなう結果が目に見えているのに、不思議と歩みを止める選択肢はなかった。
結局、喧嘩はおさまっていた。さりゅが戻ってみると、海斗といじめっ子たちが話し合いをしていた……というより、海斗の巧みな弁術に大勢の子供が引き込まれていた。今と変わらない穏やかな笑みを浮かべて、海斗は説いた。
水上小百合を迫害することは、いかに危険な行為であるかを。
「サユリちゃんが学校に来なくなったら、先生たちは深刻な職員会議を開くと思うんだ。レムレスの住人たちの今後の人生について、世間ではマイノリティに共通する問題として注目されている。彼女の身に良くないことが起これば、学校の名誉に関わる。先生たちは不登校の原因を、草の根を分けても探し出すだろう。そして、世間からのバッシングを免れるために、その原因を秘密裏に排除する。ここで言う排除とは、加害者への強制的転校措置だ。彼女を転校させるわけにいかないから、君たちに物理的な距離を取らせる。水上小百合を傷つけることは、自らを破滅の道に向かわせているのと等しい。
……え? 転校しても構わないって?
それならば、もう一つ、水上小百合を傷つけることのデメリットを教えてあげよう。僕は密かに彼女の家族関係を調べたのだけれど、サユリちゃんにはお兄さんがいるんだ。職業的にアウトローな人のようで、裏社会とも関わりがあるらしい。そして、お兄さんは妹をものすごく溺愛している。サユリちゃんがいじめられていることを知ったら、間違いなく
顔面蒼白の子供たちを前に、海斗はにっこりと微笑んだ。
「以上の二点から、彼女に手を出すことは、社会的にも肉体的にも君たちの破滅に繋がるんだよ。僕たちはまだ若いのだから、そんなふうに生き急ぐことはないと思うな」
「あ、あのぅ……」
さりゅは遠慮がちに声をかけたつもりだった。が、子供たちの逃げ足は早かった。恐怖の悲鳴がこだまする中、海斗は、嬉しそうな笑みを浮かべ、振り返った。
「友達になろうよ、サユリちゃん」
忘れもしない。それがわたしと海くんが出会ったきっかけ。
さりゅは考える。
……それなら、りっくんは?
りっくんとは、どうして知り合ったんだっけ?
海斗の紹介だろうか?
確かに、後日、海斗が大切な兄弟をさりゅに紹介してくれた。しかし、それよりももっと前に陸太とは知り合いだったような気がした。
海斗と友達になる前から、陸太の存在を知っていたというべきか。
その
答えの見つからないもどかしさと一緒に、さりゅは自分に問いかける。
りっくんとは、どこで知り合ったんだっけ……?
おい、と声をかけられ、顔を上げた。
いつの間にか、陸太が立っていた。
着崩したブレザーのポケットに手を入れて、呆れ顔でさりゅを見ている。
「さっきから、五回くらい呼んでるぞー」
「あっ……ご、ごめんなさい!」
さりゅは慌てふためきながら謝る。そして、辺りを見回しながら言った。
「三年前なのに、すごく昔のことのような気がするね」
「卒業してから、来なかったしな。知っている先生も、次々に転勤していったしさ」
「そうだね。ただ、今もときどき夢に見るよ」
夢? と陸太が聞き返してきたので、なんでもない、とさりゅは答える。
ふぅん、とつぶやいただけで、陸太は追及してこなかった。
陸太は難しい顔で考え事をしていた。彼には珍しく、計画的に段を取ろうとしているように見える。
口を閉ざした陸太にならって、さりゅも沈黙する。
耳を澄ますと、坂上の小学校から子供たちのはしゃぐ声が聞こえてきた。坂を登っても校庭まではずっと距離があるのだが、笑い声はとても大きいのだろう。
いじめから脱却した後のさりゅがそうだったように、その声は温かい幸福に満ちている。
「あのさ」やがて、陸太は声をかけた。
「ここは、俺にとっても思い出の場所なんだよ」
「この広場が?」
うん、と陸太はうなずいた。
「ずっと前から、大事な話はこの場所でするって決めていたんだ」
言いながら、茶色の目がきらりと光った。喧嘩をしているときの鋭い獣の眼光ではなく、未だ見ぬ世界に思いを巡らす情熱的な輝きだった。
その瞳を見下ろさなければならないほど二人に開いた身長差は大きかったが、さりゅには彼が揺るぎない意志を持った、大人びた存在に感じられた。事あるごとに自分をからかい、ささいなことで激怒したり、天に登るほど喜んだりする騒がしい男の子……もう、そんな風に彼を見ることが出来なくなっていた。
さりゅは身構えるように、握り締めた手を胸の上に置いた。
微かな恐怖が胸を震わせる。萎縮するような恐怖ではなく、未知の感情を持ってしまった友達に対する畏れの感情。
変わらないで、と反射的にさりゅは思った。幸福な関係のままでいたい、と頭で考えるより先に心が感じた。
「今ここで、答えを出してほしいというわけじゃないんだ」
混乱しているさりゅを労るように陸太は言った。
「ただ、俺の気持ちを聞いてほしいだけ」
木々に止まっていた鳥たちが一斉に羽ばたたいた。
さざなみのように青い葉が揺れ、何十羽もの鳥の影が、空中でまだらにうごめく。
小学校の坂下は、両側を森で囲まれた一本道になっていた。森は背の高い木が重なるように茂っていて、奥まで見通すことができない。地図上では、森は山の
その入り口に住み着いた鳥が、狂わんばかりに騒いでいる。
さりゅは空を見上げる。
空飛ぶ鳥から徐々に視線は地上へと移動し、狂乱の原因である少女の姿へと像を結んだ。
少女は森の入り口に立っていた。新緑の森を背に、真っ白な髪の毛が鮮やかに浮かび上がっている。
ゆっくりとこちらへ歩いてくる。紛うことない親友の姿に、反射的に手を挙げかけ、さりゅは硬直した。
少女は三人いた。
目の錯覚かと思い、ごしごしと両目を擦る。再び、凝視する。
やはり、三人いる。
ユークがたくさんいることの衝撃や、森の中から出てきたことの不自然さを脇に追いやり、さりゅは彼女たちをじっと観察した。良いものか悪いものかを見極めようとしたのだ。そして、確かに直感は告げていた。
彼女たちは危険だ。
「さりゅにも見えるか?」陸太が尋ねる。
「オレの頭がおかしくなってるわけじゃないよな」
「あれは、ユークちゃんじゃない」
「そうだよな」
陸太はさりゅの手をとった。それを合図に、少女たちも姿勢を低くする。
二人が走り始めるのとほぼ同時に、彼女たちも一斉に走り出した。