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 サングラスの暗い視界に、コンコースを横断する人々の姿が映る。ごろごろと、小さな車輪の回転する音。色とりどりのスーツケースが引きずられてゆく。
 六、七歳ほどの女の子が目に着いた。彼女は明るいピンク色に、大きな蝶とテディベアのイラストがついたカバンを引きずっていた。他の旅行客と同じくぱんぱんに膨れ上がっているが、わずかに開いた口から、けむくじゃらの足が飛び出ている。
 その荷物は、日用品と呼ぶには友のように親しみすぎているもののようだ。女の子は父親らしき人に手を引かれ、人混みの中に消えていった。
 心落ち着く風景は、市井の人々がもたらしてくれる。
 この仕事をしていると、特にそう感じる。
 少女の残像を瞬きで消し、シドはコーヒーを飲む。
 本日は快晴。フライト時間を記したパネルに、delayedの文字はない。
 やがて、待合所に一塊の集団がやってきた。わいわいと賑わう言語の一つに韓国語が混じっている。
 お目当ての便が到着した。
 フィオリーナが歩き出す。シドも座っていたベンチから立ち上がって後に続く。
 大男が通路を歩くと、人々の注目を集めやすい。平均身長の低い日本ではなおさらだ。
 自分を見上げる好奇の目にも慣れたシドだが、今だけは例外だった。
 本日の相手は、子供のように小さい女だ。小柄なアジア人に紛れて、こちらの動向を伺っているかも知れない。
 敵ではないにしても、居心地の悪さは拭えない。
 前方のフィオリーナが止まった。
 肩にかけたショールの裾をぎゅっと握る。わずかに背伸びをしてきょろきょろと辺りを見回す仕草は、祖国の恋人を迎えに来た留学生みたいだ。
「本当に、この便で合っているのか?」
愚問と思いながらも、とりあえずシドは聞く。
「気配は感じるのですが……」
「搭乗していない?」
「いえ、そんなはずは……」
その語尾に被せるように、
「フィオ!」
と甲高い声が放たれる。
「フィオ!久しぶり!」
 突如、人混みから若い女が飛び出した。
 興奮を抑えきれず、フィオリーナの首に抱きつく。
 奇襲とも取れるその行動を見ても、シドは動かなかった。
 というのも、フィオリーナがなすがままになっていたからだ。
 この女性から殺気を感じていれば、とっくに反撃の構えを取っているはず。それがないということは、この女性は敵ではない。
「会いたかったよ〜! 昔と全然変わらないね!」
「貴女もね。会えて嬉しいわ」
フィオリーナはゆるやかに抱擁を解く。
 そして、背後のシドを指差した。
「彼のことは知っていたかしら?」
「もちろん。恋人のシドさんでしょう? 来年の三月に入籍するって聞いて、びっくりしちゃった!」
「そうなの。祝福してくれるわよね?」
「もちろんだよ! 当時のルームメイトを集めて、サプライズパーティーを企画中」
「聞かなかったことにしておくわね。わたくしたちが知ったら、サプライズではなくなってしまうから」
「あははは! ごめん、今のは忘れて!」
手を拝み合わせ、頭を下げる。
 その間、シドは女性を観察する。
 黒髪短髪、長身で細身。スポーティな体格だが、耳についた無数のピアスと、首筋に刻まれた濃いタトゥーから、スポーツマンではなさそうだ。
 ファッションを見るに、北欧系メタルバンドの熱烈なおっかけという感じがする。アメリカでは「ゴス」と呼ばれるスタイルだ。
 彼女の瞳が灰色なのは、カラーコンタクトで色を変えているからに違いない。ファッションは独特でも、顔の造形はアジア人のそれだ。
 明朗快活な性格と見えて、フィオリーナと話している間も、ゴス少女は笑顔が絶えない。
 ふと、異質な気配を感じた。明らかに人混みの中から、一般人とは違うオーラをまとった何かが出てくる。
 あまりにも強烈すぎる気配。周囲の人間が全員、色褪せて見えるくらいだ。
 灰色に落色した中を、異形の者は縫うように進む。
 子供のような体型に、大きなローブを纏っている。
 「ネクロマンサー」は、やがて自分たちの元へ来ると、高く掲げた指を鳴らした。
 パチン!
 笑顔のまま、少女が固まる。
 時間が止まったかのように、ぴくりとも動かない。
 少女が周囲を認識できなくなったことを確認して、フィオリーナは笑顔を引っ込めた。
 隣にたたずむ、ローブに向かって問いかける。
「この方は、どなたですか?」
「コン」
顔のある部分から聞こえたのは、老婆の皺がれた声だ。
「私の死体・・だよ」
「以前は、別の方を連れていたはずですが」
「そいつは死んだよ」
「そうでしたか」
「この死体・・は、個性的だろう?」
「少々、目立ち過ぎでは?」
ふぅ、とネクロマンサーが息継ぎをする。
「あいつで最後にしようと思っていたんだ。私は長すぎるくらいこの仕事をしているし、あの死体にかくべつ愛着を持っていたからね。私にとって死とはリビングから寝室へ移動するくらい造作もない行為だ。ちょいと寝室で休みたかったのさ。ところが、前の死体・・を死体として処理した後、ちょうど恩義のある人物から頼まれごとを引き受けた。私は最後の仕事のため、精神病院を訪れた。閉鎖病棟のいちばん奥で、コンを見つけたのは一年前さ。彼女は前線で戦う兵士だった。数ヶ月前に敵地で捕虜となり、虫けら同然のひどい拷問を受けた。助け出された人間の中で、心臓が動いていたのは彼女だけさ。肉体は奇跡的に回復したものの、自我が崩壊し、自分が人間であることも忘れかけているようだったから、新しい人格を植え付けた。なかなか刺激的な誕生秘話だろう?」
淀みなく喋り続けるネクロマンサーの隣で、「コン」と呼ばれた女性が固まっている。
抑揚のない声は、博物館の展示物を紹介する自動音声を聞いているようだ。
本能的な嫌悪を感じて、シドはわずかに眉根を寄せる。
そんな彼を見て、フードの中の魔術師は笑った。
「嫌がるんじゃないよ。コンの記憶の中で、あんたとフィオリーナは婚約中なんだ。念願叶ったりじゃないか」
シドは微かに肩をすくめる。
 ネクロマンサー、喰ないヤツだ。
「私の新しい死体は、自我が安定しない。目を離すとすぐ自殺しようとする。それでも、腕前は確かだよ。私の暗示と相まって、戦闘力が強化されているからね」
そして、声はぴたりと止まった。これ以上、開示する情報はないらしい。
 彼女が「ネクロマンサー」と呼ばれる所以は、強烈な暗示を仕掛けて他者を操る技にある。
 彼ら一族はロシアの北端に、人目を偲んで暮らしているそうだが、詳細は分からない。
 彼女は組織の一員ではなく、協定を結んだ仕事仲間だ。フィオリーナの友人でもある「ネクロマンサー」は、現在の名前を「ヨン」と名乗った。
「コン」と「ヨン」……どちらも韓国語で「ゼロ」を示す数字。
 死線ゼロ地点で手を組んだ彼らは、表裏一体ということか。
 シドは考える。
 自我を失うとは、どういう感覚だろう。獣同然の赤目の搬送を担わせるヨンと喋っていると、本当の自分を見失いそうになる。
否、本当の自分ーー自我など幻想ではないか。自分が自分であると説明する証拠もなければ材料もない。そんなことを考えているうちに、自分も暗示にかけられたような、喪失感に陥る。
「私が死体を操れるのは、性的接触を持った相手だけだよ。あんたが死体になりたがっても、ごめんだね」
シドの心の内を読み取ったかのようなヨンの答えだ。
 シドの隣で、フィオリーナがくすくすと笑う。
 この状況で、無邪気に笑える彼女が恐ろしい……。
 シドは、今度は思い切りよく肩をすくめた。


「それではコン、良い旅路を」
別れ際にフィオリーナが声をかけると、コンもにっこり笑った。
「うん! また会おうね!」
 彼女が日本に立ち寄ったのは、大学時代の旧友に会うためで、本来の目的はドイツ旅行。海外留学を検討している妹のために、一肌脱いでフライトチケットをプレゼントした……という設定になっている。
 いちいち細かいなとシドは思ったが、現実的な整合性を取らないとコンの意識は混乱して、フリーズしてしまうという。
「ほら、ヨンもご挨拶して」
姉らしくコンが示唆すると、妹のヨンはゆるゆるとフードを脱いだ。
そのまま、ぺこりと頭を下げる。
「お姉さん、お兄さん、さようなら」
シャイで引っ込み思案な妹(とコンに思い込ませている)ヨンは、先ほどとは打って変わって弱々しい声を出す。
 老婆のような風体のヨンは、顔を上げると、年端もゆかない少女に変わっていた。
 二十代のコンの妹という設定であるから、多く見積もっても十代の後半くらいだろう。締め付けるような三つ編みに、黒縁のメガネをかけている。顔立ちは地味で、これといった特徴がない。
 数十年の時を生き、数々の死体・・を操って狙撃を行っていた人物だとは思い難い。
 フィオリーナに聞いたところ、「ネクロマンサー」の外見は会うたびに違うらしい。
 それは「ネクロマンサー」の強すぎる自己暗示が、我々の五感をも錯覚させているのだろうということだった。