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 雨が降っている。霧雨でもなく、豪雨でもない。ただ「雨」という名にぴったりの、なんの特徴もない酸性の水が曇天からぽつぽつ落下し続けていた。
 傘など差さない。もう何年も、傘を差していない。そんなことをしたら視界の殆どが傘に隠され、敵の気配をいち早く察知することが困難になる。傘をさしたところで雨はしのげても、銃弾は防げない。
 だからフィアスはその日――久しぶりに彼女の声が携帯電話越しに聞こえてきた日――傘を持たずに指定された場所へとでかけた。そこは本郷真一の何でも屋の事務所からさして遠くない、ある裏通りの一角、薄汚れた路地裏だった。フィアスのホテルからその場所へは、車でも優に二十分はかかるだろう。それでもフィアスは自分の車やタクシーを使いたくなかった。なるべく身動きが取れる方が良い。いつ、どこで、何が起こるか分からない。
 ――もう一度会いたいの。これは私事よ。組織とは関係ないわ。
 ――重大な話があるのよ。電話口では上手く伝えられない。直接会いにきて。
 ――あたし、あなたが気に入っちゃった。命を預けてあげてもいいくらい。
 彼女の言葉には何やら裏があった。組織とは関係がないと言われても、信用できない。これは罠かも知れない。策略かも知れない。だから、いざという時の準備はしてきたし、最悪の事態・・・・・が起こっても、フィオリーナにその旨の知らせが届くよう、携帯電話に特別な細工もしておいた。
 雨に濡れた髪の毛から雫が滴り落ちて、フィアスの頬を伝う。ここにたどり着くまでに服も髪も靴も、全部濡れた。しんなりとした前髪が目に刺さるのは鬱陶しいが、半端に水害を被るより、いっそびしょ濡れになった方がかえって清々しい。雨に降られるのも中々悪くない。
 フィアスが指定された路地裏に行くと、一足先に彼女は着いていた。薄暗い路地裏に浮いた真っ赤なドレスが大量の血だまりに見える。顔をのけぞらせ、自ら雨を浴びているといった立ち姿。
 額に落ちた雨水が彼女の頬を伝い、涙しているように見える。華奢な肢体はこの雨の中、今にも消えてしまいそうだ。フィアスは苦々しげに眉目を歪める。
 どうしてだ。どうしてこんなに、似ていなくてはならない。彼女が死んだ日もこんな雨の日だった。
 これではまるで、過去夢を見ているようじゃないか。
 フィアスは二三度軽く頭を振って、気を取り直す。
「リン」
声をかけると、龍頭凛は横顔をフィアスの方に向けた。正面から見た凛の顔。ウォータープルーフで守られたメイクは、この前会ったときよりずっと濃くなっている。フィアスを手招きする右手の爪は、青緑色ではなく赤いマニキュアが塗られていた。赤いドレスと同じ色。血の色、薔薇の色、凛の色だ。
「来てくれたのね、嬉しい」
凛がフィアスに近寄ると、フィアスは数歩下がって間合いを取った。お前に調子を合わせてたまるか、と言いたげに腕を組む。それを見た凛は少しだけ眉根を寄せて、困ったように笑った。
「安心して。〈サイコ・ブレイン〉の刺客なんていないわ」
「そうみたいだな。この近くにはお前以外の人の気配は感じられない」
「だから言ったでしょ。これは逢瀬なのよ。ひめごとよ」
うふふふふと鈴の音のような声で笑いながら凛は唇の前に人差し指を当てた。対するフィアスは腕を組んだ状態のまま、片時も表情を和らげない。凛に喋らせてばかりいては一向に話が進まない。フィアスは単刀直入に切り出した。
「それで、電話で言っていた重大な話と言うのはなんだ。〈サイコ・ブレイン〉の情報なら有難いんだがな」
違うわ、凛は呟いて少し頬を膨らます。 「貴方、〈サイコ・ブレイン〉のことしか頭にないのね。あたしが目の前にいるのに、失礼な人ね」 そこで口を噤み、眉を弱弱しげに歪ませて俯いた。記憶の奥底にしまいこんでいた彩の、時折見せていた陰りのある表情とかぶり、フィアスは思わず凛から眼を逸らす。凛はその隙を見逃さない。
 流れるような動作で距離を縮めると、フィアスが反射的に懐から銃を抜くより先にスーツの腰に手をまわし、そっと胸に顔を埋める。フィアスが後ずさると凛までついてくる。フィアスは路地裏の壁に背中をぶつけた。銃を取り出してここぞとばかりに敵の気配をさぐるが、相変わらず凛と自分以外に人の気配を感じない。仕方なく銃を懐にしまうと、目下三十センチにいるおかっぱ頭の少女の後頭部を軽く撫でた。濡れた黒髪から雫がいくつもしたたり落ちる。フィアスと同様に凛もずぶぬれだ。
「あたしを守ってちょうだい」
凛がフィアスのシャツに顔を押しつけながらもごもごと呟いた。
「あたしを守ってちょうだい、BLOOD THIRSTYさん」
「……守る?」
「もちろん、〈サイコ・ブレイン〉からよ!」
凛はフィアスに押しつけていた顔を離すと、上目にフィアスを睨みつけ、堰を切ったように喋り出した。
「もう厭よ、あんな人殺し連中と同じ釜の飯を食うなんて! あたし、あんたの仲間になるわ。賭けてみることに決めたの、彩みたいにね。まあ、五年前は〈サイコ・ブレイン〉の勝ちだったけれど、今回は別。あたしは簡単にはくたばらない。きっと貴方の力になれる。お願い、あたしを連れて帰って!」
いやだ。冗談じゃない。こっちにも都合というものがある……フィアスは凛の申し出を拒否しようと口を開きかけたが、凛の囁きを聞いて何も喋れなくなってしまった。
凛は再びフィアスの胸に顔をうずめると、彩に似た優しい口調で、こう、呟いたのだ。

「今度こそ、わたしをちゃんと守って、ね、アルド?」