満腹になったら睡魔が来て、三時間ほど昼寝をした。
 夕方、縁側に出ると凛がいた。いつもの凛と違う。孔雀色のワンピースを着て、薄い化粧を施している。目元に輝くアイシャドウも青色だ。全体的に淡い色彩で、動きもおっとりしている。外見や仕草だけでなく、中身さえも他の誰かと入れ替わってしまったように、雰囲気ががらりと変わっている。
 黄昏に照らされて、娘は微笑んだ。
「彩?」
 思わず口をついて出た言葉に、彼女は頷く。
「彩なのか?」
 半信半疑に問いかける。思わず庭先に目を向ける。太鼓橋が差し込む夕日にぼやけて見える。いくら娘でもごめんだぜ。凛の言葉が数秒遅ければ、真面目に返答を返すところだった。
 隣に腰を下ろすと、凛は縁側から飛び出た素足を空中でぶらぶらさせた。
「今日ね、彩の月命日なんだよ」
「月命日?」
「そう。彩が死んだ日にち。命日は少し先」
 そう言って、姉妹の死亡日を教えてくれる。そうか、と頷きながら凛を見る。見れば見るほど、夭逝ようせいしたもう一人の娘に見えてくる。
 六歳の頃に生き別れて、再会することもなく死んだ彩。彼女が凛と同じ年齢まで成長していたら、おそらくこんな女性になっていただろう、という想像の中の彩を見事に凛は再現している。凛は彩と暮らした期間が長い。十六歳までの彩を知っているからか、歩むことのなかった二十代を想像しやすいのかも知れない。
 しかし、なんで彩の格好をしているんだ?
 訝しげな正宗の表情を読み取って、凛はゆっくりと説明した。恐ろしく彩っぽい口調で。
「これはね、わたしなりの弔いなの。この日になると、こっそりやるの。夜中に彩の格好をして、鏡に映してみるんだ。わたしと同じ顔貌かおかたちの彩が、成長するとこんな感じかなって考えてお祈りするの。アルドには見せないよ。びっくりさせたくないから。わたしと彩の、秘密の行事。お父さんだけには特別。龍頭家の恒例行事にしてもいいよ」
「しねーよ。不気味なことすんな」
「あっ、実の娘に不気味って言ったわね! 彩に対しても不気味って言ってるのと同じよ!」
 凛が目を三角にして憤慨する。温厚だった彩にはできない怒り方だ。自分の気性の激しさは凛に遺伝した。小さい頃からそうだった。与えられた食事を食べ、与えられた衣類で満足した彩に対し、凛はいちいち文句を言った。おいしくないとか可愛くないとか。特に着る物に対しては、かなり手を焼かせられた。ファッションに独特なこだわりを持っているところも父親譲りだ。
 駄々っ子の凛をさとせるのは彩だけだった。彩は色々な慰め方や機嫌の取り方を心得ていて、姉妹の癇癪かんしゃくをすぐに鎮めることができた。彼女たちの関係は、姉妹というより母子に近いものだった。
 彩の物分かりの良さは、正宗さえも畏れを抱くほど神秘的で奇妙だった。泣きもせず怒りもしない。大人以上に感情の振れ幅が少ない。年齢相応ではない。正宗は時折尋ねたものだ。
 彩、欲しいものないか? 人形とか洋服とか。凛に内緒で買ってやるよ。
 特にない、と彩は答えた。いつも同じ答えだった。
 ――わたしにはお父さんと凛ちゃんがいる。欲しいもの、ぜんぶ持ってる。
「不気味と言えばさ」
彩と同じ声で凛が言う。同じ声だが違う。喋り方も雰囲気も、小生意気ないつもの凛だ。
「彩がおかしなこと言っていたの、覚えてる?」
「おかしなこと?」
「黒い影が見えるとか、誰もいない部屋から声が聞こえるとか。五歳の時かな。熱心に話していたじゃない。お父さんとあたしに向かって」
「そんなこと言ってたか?」
「言っていたわよ。彩は幽霊が見えるんだ! って、はしゃいだの覚えてるもん」
 凛は目を細めて、夕暮れの空を見上げる。昔を思い返しているらしい。正宗は新たな煙草に火をつける。空も見ず、日本庭園も見ず、足元のアスファルトに視線を落とす。蟻たちが長い行列を作っている。草むらから、家の軒下まで。先ほど吐いた生唾を器用に避けて行列は進む。
 ふと、凛は言った。
「お父さんって霊感あるの?」
「霊感?」
「お父さん、言ったじゃない。〝気にすんな。無視しろ。あいつらと絡むと面倒くせえ。頑張ってシカトしろ〟……お父さんも、彩と同じものが見えていたの?」
「そんなアドバイスしてねぇよ」
「してたよ。あたしと彩で〝お父さんは助けてくれないんだね。ひどいね〟って語り合ったもん。〝作るご飯もおいしくないし、お風呂もトイレも汚いし、着ている服も煙草くさいし、変な女の人と庭先で喧嘩するし、日曜日にどこにも連れて行ってくれないし、ひどいお父さんだよね〟って」
「二人して俺の悪口を語り合ってんじゃねーよ」
「悪口じゃないもーん。本当のことだもーん」
 歌うように答えながら、凛はくすくす笑う。「本当のこと」に恨みも悲しみもないと、可愛い笑いは主張する。笑いながら立ち上がって、すたすたと廊下を歩いていく。霊感がどうのという話は彼女の頭からこっそり抜けて、爽やかな幕切れをくわだてることに使われた。今回も騙しおおせたと思っていることだろう。上手な猫かぶりも父親譲り。正宗は見抜いている。
「それでも知らせたかったのか」
 紫炎を吐き出し、庭先を見る。朱色に輝く太鼓橋。今日は彩の月命日だと。

 強い日本酒を浴びるほど飲んで眠ってしまった。尿意で目覚めると、深夜が間近に迫っていた。用を足して縁側に出た。ライターの火色より赤いテールランプが、わずかに庭先を赤く照らした。静かに発進する車。砂利を滑る音も最小限だ。平生より静かな排気音は、笹川邸を出るとすぐ消えた。優等生と任侠王子が出かけた。テロリストの卵を潰すために。
 裏門から出てきた一之瀬を呼び止める。彼は両手にアサルト・ライフルを抱えていた。横浜はいつから紛争地域になったんだよ。呆れた視線をもろともせず、一之瀬は真面目な顔で答える。
「備えあれば憂いなしだ」
その言い方さえ真面目だ。突撃銃を構えた国語教師から、ことわざを教わった気分になる。
 それは良いとして。
「深夜外出、よく許したな。お前の大事な若様が死んだらどうするんだ?」
「彼が約束してくれた。戦場には近づかせないと」
「フィアスの言葉を信じたのか?」
ああ、と一之瀬は頷く。
「若のの強さを、彼はよく知っている。屋敷に置き去りにすると若は反発する。それなら戦いへ連れ出して、安全なところで待機させる方が良いということで話がついた」
「優等生同士、気が合うな」
 俺が任侠王子と話しやすいのと同じだな。正宗は煙草をくわえながらぼんやりと考える。話し合うなら気の合うやつが良い。しかし、気が合うだけでは物足りない。凹凸の歯車が噛み合うからこそ車輪は前に進む。
 煙草の箱を差し向けると、一之瀬は珍しく応じた。
 二つの火種が深夜の暗闇にぼんやりと浮かぶ。
 紫煙を吐きながら一之瀬は言った。
「年齢の割に、しっかりしたお方だよ」
「そうか? 俺には二人とも、ケツの青いクソガキにしか見えないけどな」
「マサの毒舌は昔のままだな」
 暗闇の中で一之瀬が微苦笑したのが分かる。知り合った頃から、正宗の毒舌に一之瀬は微苦笑で答えてきた。ノリが悪ぃぞ、といくら吹っかけても、一之瀬の真面目さは変わらなかった。正宗の毒舌が昔のままであれば、一之瀬の真面目さも昔のままだ。
 吸い終わった煙草をスタンド式灰皿へ丁寧に押しつぶすと、一之瀬はつぶやいた。
「俺たちが早く大人になりすぎたのかもな」
 屋敷の警護をするという一之瀬を見送り、正宗は最後の一本に火をつける。本日の喫煙はこれでおしまい。煙草の箱は空っぽだ。日付変更線も間近に迫っているし、歯を磨いてさっさと寝ちまおう。風呂は明日で良いだろう。
 視線を感じ、顔を上げる。
 彩がいた。
 薄暗い太鼓橋に立って、手を振っている。
 夕方に話した凛と同じワンピースを着ている。背丈も年齢も、現在の凛と同じくらい。一瞬、凛と見誤った。凛がなんらかの悪戯をしにきたのだろうと。しかし、思い直した。あれはどう見ても生きていない。
 手を振る彩の周りは、ぼんやりした白い光が輝いている。
 だからあの橋、嫌いなんだよ。正宗は溜息を吐く。現役のヤクザのころから好きじゃなかった。太鼓橋の由縁ゆえんを聞いてさらに嫌いになった。兄貴の趣味だから仕方がないと割り切るまでに時間がかかった。
 お父さん、と彩は呼ぶ。
 正宗はそっぽを向いて無視を決め込む。
 ――気にすんな。無視しろ。あいつらと絡むと面倒くせえ。頑張ってシカトしろ。
 ……お前にも教えたじゃないか。
 お父さーん、と彩はさらに呼ぶ。
 面倒くせぇ、と正宗は思う。苛々と貧乏ゆすりをしながら頭を掻く。面倒くせぇ、面倒くせぇ。娘だろうが駄目なもんは駄目なんだ。俺はそういうものとは手を切った。ここで足を引っ張られてたまるか。
 火種を灰皿に押しつぶし、フィルターを捨てる。横目に橋を見ると、まだいる。
 ――わたしにはお父さんと凛ちゃんがいる。
 ――欲しいもの、ぜんぶ持ってる。
 無欲な女の子・彩の言葉を思い出し、正宗は溜息を吐く。
「はいはい」
うんざりしながら、太鼓橋の亡霊に向けて手を振る。
「今日、お前の月命日なんだってな。死んだ日も知らずに悪かったな。でも俺は不気味なもんは好きじゃないから、黙って消えてくれると嬉しいな。ひどいお父さんでごめんな」
 彩はにっこり笑って消えた。
 その笑みは本物か、偽物か。
 生きているときも聖母みたいな彩だったが、凛と同じく恨みや悲しみを胸の内に隠していたりして。だから化けて出てきたのか。
 そう思うと、ざわざわしてきた。頭痛がして、悪寒がした。
 久しぶりの体調不良。
 これだから嫌なんだ。 死んだ奴らと会話するのは。
 絶好調の朝を迎えるため、正宗は新しい煙草を取りに戻った。