ああ、あれから何ヶ月経ったんだろう。
 わたしは今、遠いアジアの国にいる。
 雨宿りをするように家から家へと渡り歩いて、生きている。
 たまに、あのときのことを思い出す。
 天使のような女性がくれた束の間の安らぎを。
 あの、終わりの始まりの日のことを。


 泥のように重たい眠りから目覚めると、私はソファの上に横たわっていた。近くには八人の女の子達が同じようにソファの上に寝そべっている。どの子も同じ青い色のセーターを着て、黒のジーンズを履いている。髪の毛もみんなショートカットだ。私はびっくりして、どうして皆同じ恰好をしているのかと小声で訊いてみた。すると一人の女の子がぱっちりと目を開けて、微笑んだ。
「あら、あなただって同じでしょ。あたしたち、アルバイトに雇われたんじゃないの」
「アルバイト?」
「そうよ。青いセーターに黒いジーンズを履いて、飛行機でアメリカへ行くの」
「あたしはフランス!」「あたし、オーストラリア」「あたしは中国よ」……女の子達が口々に行き先を告げる。
アメリカの女の子が代表して、言った。
「詳しいことは分からないけれど、あたしたち、大人と一緒に飛行機に乗ればいいみたい。こんな楽しいアルバイト、初めて!」
そう言って、アメリカ行きの女の子は隣の女の子と顔を見合わせてくすくす笑った。一人だけ、わけが分からずにいるのは私だけのようだった。仕方なく私は寝がえりを打って、異国の音楽のように聞こえてくる大人たちの討論に耳をすませた。
 私の傍では八人ほどの大人たちが、真剣な顔で討論していた。その中には、私を研究所から連れ出した髪の長い女の人の姿もある。
 彼らの会話はまったくと言って良いほど聞き取れなかった。なぜならば、一人一人が発言権を得るたびに口にする言語が変化していたからだ。ドイツ語とごく少量の日本語が理解できるだけの語学力の乏しい私でも、彼らが何十という国の言語を使い分けていることくらい分かった。何分かごとにドイツ語が巡ると嬉しかった。それから「アオイ」という自分の名前が出てくるときも。
「その考え方は時期尚早だと思う。もう少しアオイを土地に慣れさせてから……」
「彼女の身を守ることを第一優先に考えなければ……」
「勝利の鍵は彼女が持っているに違いないのだから……」
「フェリーニの意見に賛同する者は?」
ドイツ語で多数決を求める場面があった。八人の論者は真っ二つに賛成派と反対派に分かれた。
 私は直感で賛成派に手を挙げた。全員が起き出した私に目を向けた。フェリーニと呼ばれた人は、私のすぐ傍に立つ大柄の白人男性だった。
 彼は私に向けてニッとした笑うと
「アオイも俺に賛成だってよ!」
嬉しそうに声を上げた。
「そういうわけだ、フィオリーナ。日本で落ち合う時は、宜しく」
フィオリーナと呼ばれたのは、あの天使のような女の人だった。
 彼女は反対派に加わっていたらしく(それを知って私は少し胸が痛んだ)、「仕方がないですね」と言って宙で頬杖をついた。それからがっくりしている私に向かって、「大したことではないの。食後の飲み物に珈琲か紅茶かを選択する程度の瑣末なことよ」と告げた。慰めてくれているようだった。
 なにがなんだかよく分からないまま、わたしはフェリーニに手を引かれて人混みの中を歩き出した。ベンチを中心に、他の女の子たちも大人に手を引かれて四方八方へ広がった。同じ格好をした私たちは、高い位置から見下ろせば、さながらカレイドスコープのように見えただろう。
 私の行き先は、日本だった。


 ……あの女の子たちは、彼らが考えだしたカモフラージュ作戦だったのかも知れない。研究所の、追手から逃れるための。
 すべてが終った後で、私は一つの仮説を立てた。
 あのとき、様々な言語で交わしていた議論は私の引率者を決めるためのものだった。ボディーガードのスペシャリストたちが、敵の目をかく乱するために、似たような女の子たちを連れて世界各国へ向かう。そしてほとぼりが冷めたのちに合流し、次の作戦へと移る。
 この仮説が真実ならば、フェリーニが死んだのは少なからず私のせいということになる。あのとき、フェリーニの意見に手を挙げていなかったら、彼は私の引率者にならずに済んだ。日本へ来て、待ち伏せしていた悪い奴らに空港のトイレで撃たれることもなかった。
 逃げ際に、フェリーニの坊主頭から赤い血のしぶきが飛ぶのを見た。私を外へ逃すため、自ら犠牲者となったのだ。敵の姿が見えなくなってからも、私のパニックは続いた。国を発って半日以上、様々なお喋りや冗談を交わし合った人が、一秒後には目を見開いて死んでいる。銃の恐ろしさは私を芯から震え上がらせた。
 敵の襲撃から二日経ったとき、空腹で我にかえった。気がついたとき、私は大都会の雑踏で、ぼろぼろの洋服で立ちすくみ、震えて泣いていた。そして、それを客観的に見ている私もいた。とても奇妙な感じがした。
 頭上には砂粒のように小さな月が出ていたが、辺りはネオンライトのけばけばしい発光に満ちていた。
 誰かが私の肩を叩いた。私と同じ種類の顔の、けれども私よりずっと背の高い男の人が無表情ぎりぎりの笑顔で何事か喋っていた。言語はまったく分からなくとも、言いたいことのニュアンスは伝わるものだ。
 頷きながら私は、フェリーニの分までこの見知らぬ世界を生き抜いて行かなければならないと感じていた。何をしてでも。



 日本へ来て十カ月目の朝、私は命からがらその家から逃げ出した。
 理由は一緒に暮らしていた男の暴力だった。これまでも似たような経験をいくつかしていたが、今回ほど深い痛手を負ったことはない。瞼が腫れて、鼻から血が出ていた。蹴られた右肩が軋むように痛んだ。
 男の腕に噛みつき、相手がひるんだ所を見計らって家を飛び出した。咄嗟の出来事に旅の途中で手に入れた金品をまるごと彼の家に置いて出て行ってしまった。電車に乗れなければ、他の町に移れない。男の今までの仕打ちを考えると、家に引き返して荷物を取りに行くことも出来ない。
 たまたま見つけた廃棄工場の太い土管の中に隠れながら、私は途方に暮れた。。まともに食事をしていないせいで、夏だというのに寒くて仕方がなかった。下着のように薄いロングドレスは泥と血にまみれて無残なものだった。
 この世界をサバイヴすると決めてから、私は努めて自分の感情を見ないようにしてきたが、このときばかり泣かずにはいられなかった。
 フィオリーナ――十ヶ月前に生き別れた女神様――は、この世界を素晴らしいと言っていた。天国よりも美しいものがたくさんあると。けれど、そんなものどこにもない。この目で見た、この世界はひどいところだ。毎日が痛くて辛いことばかりだ。こんな思いをするくらいなら研究所にいた方がマシだった。変わり映えのない日々の代わりに私には絶対的な安全が保障されていた。
 こんな世界など見たくない。暴力ばかりの、こんな世界など……。
 小さな土管の奥底で世界の終りを祈っていると、誰かの腕がにゅっと入ってきた。男の腕だった。例の男だと思い、浅黒い皮膚に噛みついた。昨日から何も食べていないせいか、上手く力が入らない。さらさらした唾液だけが突き立てられた歯の隙間から男の腕を伝った。
 痩せこけた私の身体はいとも簡単に地上へ引っ張り上げられた。
 小さい子にする「高い高い」のように空へ持ち上げられると、見えた。私より少し年上の、幼さを残した青年の顔。彼は切れ長の目を大きく見開いて、私の顔をまじまじと見た。微かに開いた唇から小さく声が漏れた。
「本当にいた……幽霊のような、女の子が」
 私を土管のヘリに座らせると、彼は興奮したように何事かまくし立てた。それがあまりにも早い日本語だったので、私には上手く聞き取ることができなかった。ぼんやりした頭で、この人は自分に危害を加える人間か否か、考えていた。
 ただ、早口の日本語の言葉の中に一つだけ、気になるフレーズがあった。
 妙に唇の先に残る言葉。それを呟いてみる。
「マサムネ」
そうだ、と彼は言った。 「正宗。俺の名前、龍頭正宗」 きらきらした目で、にっ、と笑って、
「よろしくな、幽霊ちゃん!」
私の頭を撫でた。