Don't forget me with love.


「ちょっと、厄介な子がいるんだよ。助けてくれないか?」
市警察であるアラン・ディクライシスからそんな頼みが来たのは、昼過ぎだった。くわえた煙草に火を付けながら、アランは続ける。
「ほらお前、日本語話せるだろ?」
吸っていた煙草の煙を吐き出す。警察署内にある狭い喫煙室はたちまち白い煙でいっぱいになった。自分が吸っているときは、何も感じないものの、他人の吸っている煙草の煙は純粋に息苦しいものがある。煙を手で仰いで霧散むさんさせながら、アルドはしかめ面を作った。
「日本語・・・ってことは、日本人か?」
「そうだ」
海外の人間が留置されているなんて珍しい。一体どういう事件だろう。
「麻薬関係?それとも密輸・・・だったら、税関か」
「いや、万引きだ」
万引きという意外な罪状があがったことに、アルドは驚いた。どうして万引きくらいで1日半も留置されているのだろう。そんな些細ささいな事件に構っていられるほど、ニューヨーク市警は暇じゃないはずだ。
「早く釈放してやれよ。大した罪でもないじゃないか」
アルドの呆れた一言に、アランは眉間にしわを寄せて首を振った。
「いや、問題は万引きなんかじゃない。その娘、一文無しなんだってよ」
「え、娘?」
「そうだ、ティーンエイジャーのジャパニーズ・ガールだ。――万引きだけなら厳重注意で済むんだろうが、あんな小さな女の子が金ナシで大都会の路頭に彷徨さまようとなると、おれたちも放っておけないだろ」
「それはそうだ」
「何で金が無いんだとか親はどこだとか、色々聞いてみたんだが、ガールの方は適当にはぐらかしてばっかりで取り調べも何もありゃあしない。何より、言語の壁は大きい」
アランは煙草の箱をアルドに向ける。アルドはその中から1本もらって、安っぽいアランのライターで火をつける。
警察官であるアランに、机を挟んで対峙していると取調べでも受けているような気にさせられる。さらに煙草なんて貰った際には、「アメとムチ」作戦なんてものが用意されているのではないかと思って、アルドは少し身を引いた。
「それで、俺を呼んだのか・・・」
先ほど 携帯の履歴にアランからの着信があった。かけ直したら、即刻アランの仕事場である警察署に来いと言われたのだ。丁度、大学の講義も午後は入っていなかったので、興味津々で来てみればこんな事だ。
何にでも抜かりないアランのことだから、きっと何か頼まれ事があるなと予想はついていたのだが。
「お前を呼んだ理由は通訳ってのもあるが、ティーン同士なら、あのガールも話しやすいだろうって思ったわけよ」
煙草を灰皿にすり潰しながら、アランはにっこり笑う。どこか傲慢さも感じられる笑みである。試しにアルドは聞いてみた。
「拒否権は?」
驚いたことに、アランは気分を害した様子も無く、笑みは崩れない。ただニヤニヤ笑顔のまま一言。
「未成年者の喫煙現場を逮捕出来る、いい機会がここにあるな」
「・・・いつも目の前で吸ってても、何も言わないくせに」
アルドは銜えていた煙草を、アランと同じ灰皿にすり潰し、両手を挙げた。このホールドアップは二人の間で承諾の意となっているのだ。大概、アランはアルドよりも一枚上手を行くので、このホールドアップは殆どアルドの特許といっていい。今回もアランのたくみな戦術に、アルドは白旗を振った。
「・・・OK、わかった。協力するよ」
「それでこそ、おれの息子。愛してるよ」
気を良くしたアランがハグをしようとしたので、「喰えない親父だ」と吐き捨てて、アルドは早々に留置所へと向かった。


昔、写真か何かで見た。そう、あれは「Dolls in the world(世界の人形たち)」とかいう題の写真集だった。その本に載っていたジャパニーズ・ドール。確か、市松人形とかいう名称ではなかっただろうか。日本の代表的な人形の一つ。切り揃えられた黒髪の艶やかでビスクドールのように肌が白い、不思議めいた雰囲気の人形。畏怖いふの念すら感じてしまうほど、精巧に出来ている。
それが今、目の前にいる。
「はろーぅ、はろーぅ」
その人形の大きな黒い瞳が細くなって、にっこりと微笑んだ。なまりのある英語でこんにちは、を2回言う。当たり前だが人形は喋らない。このアジアを感じさせる風貌の人間こそが、アランの言っていた非行少女なのだ。彼女には混沌として謎めいた雰囲気があった。会話をするよりさきに空気の振動を伝わって届く、この感覚。今まで会ったどの女性とも違う、名状しがたい感覚。
白一色で統一された部屋。ここは留置所ではなく、取調室だ。中央に椅子、机、椅子と3つしか家具が無い。壁にマジックミラーがはめられた窓がなければ、取調室とも思えない。清潔感のある部屋だった。長机を挟んで対峙するように設置された二脚の椅子。その一つに少女は腰掛け、机に頬杖をついていた。猫のように大きな瞳だけが、入り口に突っ立ったまま動けないでいるアルドを見ている。
「Will you sit down?(座らないの?)」
彼女の物静かで落ち着きのある声に促されて、我に返る。躊躇いながらもアルドは席に着いた。向かい合った彼女は興味津々の顔でアルドを見ている。日本人の黒い大きな瞳に映る自分は居心地の悪そうな顔で眉を潜めていた。
「・・・わざわざ、英語使わなくていいよ」
アルドの第一声を聞いて、彼女は目を丸くした。
「貴方、日本語喋れるのね」
「日常の、受け答えくらいだけど」
日本語を操る異邦人いほうじんがそんなに珍しいのか、彼女は興奮した様子で手を叩く。切り揃えられた前髪がさらさらと揺れた。
「どこかで習ったの?」
「日本人の知り合いに教えてもらったりはしたけど、元から喋れる」
「元からって?」
「さあ、俺にもよく分からない。ただ、英語より先に話せた」
「・・・ふ~ん?」
生半可な返事をして彼女は首をかしげた。大きな瞳は絶えずぱちぱちと瞬きを繰り返している。話が途切れたところで、アルドは言った。
「ところで、君・・・」
「彩よ」
「アヤ?」
「私の名前。龍頭りゅうとう彩」
「ああ、名前か・・・俺はアルド。アルド・ディクライシス」
「よろしくね」
「よろしく」
握手をした。彩の手は思いの外ひんやりとしていて、アルドは一瞬ドキッとした。それに、日本人の女は皆、こんなに手が小さいのだろうか。強く握れば、折れてしまいそうなほど華奢だ。早々にアルドは彩から手を放す。
「ディクライシスって、さっきの警察の人もそう名乗ってたわ」
やがて彩は滑るような視線で入り口のドアを眺めた。今頃もう一人のディクライシスは、喫煙所で2箱目の煙草に火をつけているところだろう。
「ああ、アランは俺の親父だ」
「似てない親子ね。それに、年が貴方とあんまり違わないんじゃない?」
「養父だよ」
「義理の親?」
「そう」
ふーん、と特に何の感情もこもっていない声で彩は呟くと、暫く机の上に設置されていた3冊ほどの英和・和英辞書をぱらぱらめくった。これで日本語の分からない警官達とやりとりをしていたようである。アルドもびっしりと日本語と英語が入り混じった紙面を暫くの間眺めていた。彩にしろ警察官にしろ、わからない単語が発せられる度、これで一つ一つ調べながら会話をしていたのか。考えただけでも、気が滅入りそうになる。
「ねえ、アルドって何歳?」
やがて彩は辞書類を机の脇へ押しやると、上目遣いにアルドを見据えた。上目遣いに人を見るのが彼女のクセのようだった。感情が分かりにくい東洋の黒眼に見つめられて、アルドは頭を掻いた。
「よく覚えてない。その・・・入り組んだ事情が、色々あって」
「貴方って謎ばかりね」
ズバリと彩に言われてアルドは苦笑した。「まあ、そうだな」
「私はちゃんと覚えてる。あと2週間で17歳」
「ってことは、まだ16なんだろ」
彩がにやりと笑う。「でも、結婚できる年だわ」