白いトタン屋根が平原のように続く貸倉庫群。目的地から二百メートル離れた場所で車を停めた。からっとした日本晴に似合わず、辺りは静黙が支配している。工場地帯ではないので、機械の重工音もしなければ
ううう……とうめき声が聞こえ、隣を見る。助手席では真一がサイドガラスに額をこすらせ、わきあがる吐き気に耐えていた。十五分前に比べると、同一人物かを疑うほど、顔色が悪い。
「大丈夫か?」
「全然大丈夫じゃねぇよ……何だよ、今の運転。最近の絶叫マシンもあそこまでひどくないぜ」
フィアスは顔をしかめた。
「緊急事態なんだ、しょうがないだろ。それよりマイチ、ここで車を乗り捨てて行くと帰りの足がなくなる。埠頭へは俺一人で行くから、お前は車で待機していてほしい。この辺りに敵がいた場合は、フィオリーナから車のディスプレイに連絡が入るようにしておく。臨機応変に対処してくれ」
敵の数や能力も未知数。だが、人口衛星から上空解析する限り、人の動きは捉えられていない。人の気配を感じないのは確かだ。たくさんの人間が隠れ潜んでいるとは考えにくい。真一も平穏な空気を察したのか、素直に承諾する。痛む頭を押さえながら真一は言った。
「たぶんないと思うけど、一応言っとくぜ……死ぬなよな」
「お前の方こそ、車酔いで死んだら馬鹿みたいだぞ」
車のドアを閉める。懐のS&Wとサイドアームの動作を確認して、フィアスは倉庫群へ向かった。
百メートルも進まないうちに二十棟以上の大型倉庫が平行に並んだ倉庫群が見えてくる。どの倉庫も壁が白く、積み木を組み合わせたように単純な表面構造をしていた。やはり人の気配はない。
――移動しました。
左手に握った携帯電話からフィオリーナの声が聞こえてきた。
――南北に三メートル。人の歩く速さで移動しています。それがリュウトウリンかどうかまでは分かりません。
「上空からの画像解析は」
――難しいですね。先程から倉庫の屋根の下に隠れたままですので。でも、貴方のいる場所から対象まで、五十メートルもありません。ここまで来て敵も罠の気配もしないということは、リュウトウさんの「友達に会う」という証言は、事実なのかもしれません。
湾の接する場所まで来た。対象とはあと三十メートルほど。ここからはGPSに頼らなくとも、自分の感覚でまかなえる範囲だ。
「また後で連絡します」
――ええ、幸運を祈ります。
フィアスは電話を切った。対象との距離は二十メートル弱。銃の安全装置を外す。五感を極限まで研ぎ澄ましても、相変わらず敵意や殺気は感じない。その代わりに、前方から若い男女の話声が聞こえる。
自分たちの近況、昔の思い出、慰め。彼らが話すことは、殺伐としたこの景色に不似合いの、他愛ない会話ばかり。物騒な倉庫の一番片隅で、二人は小さくヒソヒソと、まるで秘密を共有し合う、幼い子供のようだ。男の声はひどく掠れた弱弱しいもので、女の方は間違いなく龍頭凛のものだった。
フィアスは銃の安全装置を戻すと、声のする方へ近づいていった。人影は二人。龍頭凛ともう一人は若い男。
「リン」
フィアスが名前を呼ぶと、自分に背を向けるようにして立っていた凛が、雷に打たれたように肩を震わせる。すかさず男の方が彼女の前に立ちふさがった。守るように凛を
男は凛よりもずっと幼いようだった。年のほど、十八か十九。どう見ても未成年だ。大きめのストリートファッションで身体のラインを隠しているが、少年の手首や足首は枯れ枝のように細い。眼は落ちくぼんでいて、げっそりと頬がこけている。いつ死んでもおかしくない。こんな顔の少年を、アメリカで何人も見た。
少年は繊細な顔立ちをしていた。衰弱していなければ、服装一つで闇社会とは無縁な、育ちの良い紳士にも見えただろう。この少年が〈サイコ・ブレイン〉の一員だとは、にわかには信じがたい。
「名前は?」
少年と対峙し、フィアスは聞いた。
「キョウヤ……。周りからは……キョウヤって呼ばれてる」
少年は苦痛を押し隠すように歯を食いしばって言う。
「あんたが……凛をガードしているっていう……〈BLOOD THIRSTY〉?」
フィアスは頷いた。
「そうだ。今は〝フィアス〟と名乗っている」
「強そう、だな……」
「弱かったらガードの依頼は引き受けてない」
「そりゃそうか……」
キョウヤは力なく笑う。喋るのも苦しそうだ。先程から忙しなく両手で腕をさすっている。そういえば、長袖を重ね着したキョウヤの格好は、シャツ一枚でも汗をかいてしまう夏の昼下がりに不自然だ。
「寒そうだな」
「大丈夫、だよ……心配、いらない。それより、〈BLOOD THIRSTY〉……いや、フィアス」
「なんだ」
「あんた……本当に、凛を、護りきる自信、ある? 強いだけじゃ……ダメなんだよ、分かるだろ?」
苛立ち、恐怖、憎しみ、もどかしさ、恨み……キョウヤの目に灯る感情の全て。それもキョウヤが少し目を伏せただけで、全てが絶望の色に染まる。闇に閉ざされた、寂しい人間の目だ。彼はどうみても〈サイコ・ブレイン〉が巨大な組織として継続していくための、無数の歯車のうちの一つでしかなかった。組織を未来へ押しだすためだけの、消耗品にすぎない。
キョウヤは言った。
「凛は、オレの、ただ一人の、友達なんだ。これ以上、彼女を、寂しい目に、遭わせないでやってほしい、な……」
フィアスは少しの間、逡巡したが、
「君の言いたい事は分かった。約束しよう」
それを聞いたキョウヤの目に少しばかり明るい光がさしたようだった。安堵の深い溜息をゆっくり吐いて、少年は道を開けた。その後ろから、顔を曇らせた龍頭凛がおずおずと前へ進み出る。フィアスと目が合うと、凛はゆるりと瞳をそらす。何一つ言葉を交わさないまま、凛の引き渡しが終わると、キョウヤは凛に向かって柔らかくほほ笑んだ。
「心配、いらないよ、凛……君の傍には、いつだって、誰かがいてくれる。不安に思う、必要は、ない……」
凛は地面を見つめたまま、何も言わない。ただ、緩慢な動作でキョウヤに近寄ると、枯れ木のような彼の身体をそっと抱きしめた。凛の体が震える。キョウヤの大きい灰色のフリースに顔をうずめると、「キョウ……キョウ……」涙ににじんだ声で、繰り返し友の名を呼び続けた。