その日の笹川邸は、早朝からかつてない賑わいを見せていた。屋敷を囲う塀一面に紅白の段幕が下ろされ、正門には巨大な提灯が二つ、風に吹かれて左右に揺れている。屋敷の中には笹川組現組長・笹川毅一の古くからの馴染みや兄弟分などが袴姿で一堂に介し、その数は五十人を上回る。会場である笹川邸の床の間に屈強な男たちが袖を連ねる様子は得も言われぬ迫力があった。数名の客衆は血の繋がりがある実孫に跡目相続をさせるなどという異例の事態に内心眉を曇らせつつも、表面上はそのような素振りを微塵もみせず笹川毅一に祝言を述べている。
 盃や塩瓶の置かれた祭壇の前に座る笹川は、彼らの内情を知ってか知らずか、厳かに頷きを返すものの一切口を開かない。笹川の圧倒的な存在感と厳粛な沈黙がやがて式場を覆い、集められたヤクザたちも倣う様に静黙に身を落ち着けた。

 その、三時間前。
 灼熱の太陽光が町中を完全に覆い尽くした頃、二台の車が笹川邸にたどり着いた。一つは黒光りのするベンツ、もう一つはしなやかな流線を描くBMW、一之瀬慶一郎の愛車とフィアスの愛車である。共に笹川邸の正門で停止すると、ベンツからは一之瀬が、BMWからはフィアスと真一が降り立った。
「イチノセの車に乗った方が、今日の打ち合わせができて好都合だったんじゃないか?」
と尋ねるフィアスに、真一は微かに首を振った。
「俺はベンツが嫌いなんだ」
 手はいつものスカジャンのポケットに入れたまま、今日の真一は心ここにあらずといった状態だ。これから手にする強大な威力を持つ肩書に思うところがあるのか、顔を上に持ち上げて、雲ひとつない群青色の空を仰いでいる。
 一之瀬は神妙な面持ちで、若君である真一に向かって腰を折る。
「若、この度はおめでとうございます……否、この度は重要なご決断をして頂き、ありがとうございます。俺は以前より、貴方が我々の仕事を快く思っていないという事を重々承知していました。それでも、笹川の名を背負うに値した人間は若の他には見当たりません。血縁者による跡目相続は、かつて他に類を聞かぬ故、他者の顰蹙ひんしゅくを買わぬと申しますと、嘘になります。それでも貴方が自らの運命を笹川組に投げうって下さったことを、決して無駄には致しません。俺達は責任を持って、貴方様を援護します」
「顔をあげてくれよ、慶兄ちゃん。俺……こういう雰囲気が苦手なの、知ってるだろ?」
真一が微苦笑を返しながら一之瀬の肩に手を置くと、一之瀬は「すみません」と謝りながら顔を上げた。きまりの悪くなった真一が、ふと後方にいるフィアスを振り返ると、フィアスは自分の愛車に寄りかかったまま腕を組んでいた。青灰色をした瞳は閉じられており、珍しく煙草を吸わず、真一と一之瀬のやりとりが終わるのを待っていた。
「フィアスも出るよな?」
真一が尋ねると、フィアスは眼を開けて真一を見た。形の良い眉がわずかに歪んでいる。
「出るって、何にだ?」
「跡目相続の盃」
「いや、外で警護をする。この式には、部外者が立ち入らない方が良いようだ」
フィアスは一之瀬に視線を向ける。
「そうだろ?」
一之瀬は深々と頭を下げた。
「申し訳ありません」
「それに、ササガワと馴染みの深い極道だけがこの儀式に呼ばれるのであれば、強固なガードも必要ないだろう。ただ念を入れて、信用のおける部下を客人一人につき一人ずつ、見張らせておいた方が良いかもしれない」
「承知しました。部下を五十人ほど御客人の傍に置き、俺は若を護衛します」
「そうしてくれ」
「それでは若……」
一之瀬が真一の肩に手を置き、屋敷の正門を開く。一之瀬に促されるまま真一の足は笹川邸に向けて一歩踏み出したが、瞳は戸惑ったようにフィアスを見ていた。
「これで……いいんだよな?」
フィアスに向けて尋ねたのか、それとも独りごちたのか。判断のつかない小さな声で真一は言うと屋敷の中へ消えた。正門が完全に閉じられるのを見届けると、フィアスは懐から煙草を取り出して火を付ける。
「そんなことは自分で考えろ」
真一の問いかけに答えるように呟くと、フィアスは白濁した煙を吐きだした。

 それから一時間半も経っただろうか。一之瀬に指定された、笹川組が所有する駐車場にBMWを停めたフィアスは、正門から少し離れた塀に寄りかかったままじっと瞳を閉じていた。
 跡目相続の儀式をするための会場づくりは着々と進められているようだった。来た時にはいつもと変わりなかった笹川邸が、今や屋敷内からざわざわと人が忙しなく動き回る気配を感じ、正門には数人の若衆が集まって大きな提灯やら花輪やら紅白の垂れ幕やらを取りつけている。初めは興味深げにそのオリエンタルな装飾を眺めていたが、ある程度目が慣れると日本的な意匠も興味の対象外になった。フィアスは目を開けて腕に巻き付いたロレックスに目をやる。儀式の終わりは夕方六時ごろだと聞かされているので、あと八時間以上ある。長時間、同じ場所に居続ける事は億劫ではなかったが、これから大勢の人間とそれに伴った喧騒がやってくると思うと、少しばかりウンザリした気分になった。
 ちょうど煙草に火をつけようとしていたところ、装飾班の若者に混じって、本日の花形である本郷真一が顔を出した。少しばかり疲れた様子でフィアスの隣に立つと、両手を後頭部の後ろで組み合わせて、同じく塀にもたれる。
「今日の打ち合わせをしてきたんだ。跡目相続の杯の流れややり方を。本当は、何日も前から綿密に打ち合わせをするのが普通みたいなんだけど、俺ならぶっつけ本番でもできるだろうって。打ち合わせが終わったら、用意ができるまで待ってろって、追い出されちゃったよ」
真一は暫く何も言わなかったが、やがて先程と同じように「これでいいんだよな」と呟いた。フィアスは眉間に皺を寄せながら、空を眺めている真一を見た。
「呆れた奴だ。未だに決めかねているのか」
「うーん……」真一は頭を掻いた。
鉢植に入った大きな百合を持った若衆が目の前を通り過ぎてゆく。厳かな笹川邸の正門はあと数分で、その筋の重鎮が何人もその下を潜ってゆくのにふさわしい豪奢な入口に仕上がるだろう。
「お前は、どう思う? 俺は、笹川組の頭になった方がいい?」
「何回も言っているが、俺は――」
「部外者に、じゃなくて、俺は友達に、聞いているんだよ」
フィアスの言葉を遮って真一は言う。
「友達に、相談をしてるんだ」
「俺はお前と友達になった覚えはない」
「俺はアンタを友達だと思ってるよ」
フィアスは眉間に皺をよせたまま煙草を吸い込むと煙を吐き出した。腕時計を見ると跡目相続の儀式が始まるまで一時間を切っている。もう三十分もすれば高級車に乗り付けたその界の重鎮が一人、また一人と会場に集まってくるだろう。縁起の良い色をした美しい花に縁取られ、正門は既に完成していた。飾り付けを行っていた若衆も一人二人と屋敷内に消え、入口にはフィアスと真一を除いて人っ子一人いなくなった。屋敷内は早くも賑わっているが、この場所は未だ閑寂としている。
「俺は友達だと思っていないが――」
フィアスは言った。
「お前のことを友達だと思っている子供が、お前がヤクザになるのをやめてほしいと言っていた。将来、逮捕しなければならなくなるから、やめてほしいと。それだけは伝えておく」
真一は怪訝な顔をしてフィアスを見た。
「茜がそんなこと言ってたのか?」
「ああ」
「それを、なんで今になって俺に伝えるんだ?」
フィアスは咥えていた煙草を地面に落してすりつぶした。煙草からたゆたう細い煙が一瞬で途切れ、後には丸まった吸殻だけが残る。フィアスは面倒くさそうに溜息を吐きだすと、新たな煙草を一本取り出し火を付ける。ジジジ、と先端が焼け焦げる音が、静まり返った空間に小さく鳴った。
「深い意味はない」