茜に電話で指定された店の引き戸を開けると、熱風と肉の焼けるにおいと店員の注文を叫ぶ声がいっせいに降りかかって来た。フィアスは一旦ドアを閉めて、店の外に掲げられた看板を仰ぐ。
 「関西お好み 斜陽」と書いてある。「斜陽」の意味は分かるが、「関西お好み」という言葉の意味がいまいち分からない。店内はいやに俗っぽい空気が流れているように思えるが。
 再び店の中に足を踏み入れた途端、威勢の良い声で「らっしゃいませっ!」と迎えられた。
「兄ちゃん、こっちこっち!」
 目ざとくフィアスの姿を見止めた荻野茜が、店の一番奥の座敷席から手を振っている。
 火事になりそうなほどの煙をかき分け茜の方へ向かうと、茜の隣には大きな身体をどしんと据えて、荻野刑事があぐらをかいていた。片手にはビールのジョッキを握っている。既に何杯か飲んでいるようで、先日会った時よりも顔が赤い。昼間から精の出ることである。
「よぅ、兄チャン、元気してたか?」
 茜と同じく威勢の良い挨拶で荻野刑事が聞いてきた。
「この前は、大活躍だったじゃねぇか。まあその辺に座ってくれよ、って……あれ? 今日は真一はいないのか?」
「アイツは自分の家に帰ってる」
「自分の家ってぇと、笹川の爺さん家か。ヤクザの稽古でもさせられてるのか?」
そういうと荻野刑事は大きな身体を揺すって笑った。驚いた事に、この刑事は真一の実家の事情も心得ているようだった。まあ、笹川組が横浜髄一の古株組織なのだから無理もない。刑事という商売をやっていれば笹川毅一の愛孫である真一の事も自然と耳に入ってくるだろう。真一が組織の後継ぎにさせられそうになっているというのは、大方茜の情報か。
「あの爺さんはちょっと融通の利かないところがあるからなぁ。爺さんを説得するのは、中々骨の折れる仕事かもな。まあ、真一には頑張れって、言っておいてくれや」
大分出来上がっている荻野刑事が意味もなくガハガハ笑うのを見ながら、「ああ」とフィアスは適当に返事をしておいた。
「ところで」
 フィアスが言いかけたところで、目の前のテーブルに設置された鉄板がジュージューと音を立てはじめた。茜が手にしたアルミ質の器から、大量の生地を流し込んだのだ。生地と混ざり合ったたくさんの具材をバランスよく散らばせながら、手にしたヘラで円形にまとめあげていく。慣れているのだろうか。瞬く間に巨大な料理が一品できあがってしまった。
「兄ちゃん、お好み焼き、食べたことある?」
茜がヘラでお好み焼きを切り分けながら聞いてくる。
「いや……、ないな」
「初めて食べるお好み焼きが、うちのお手製やなんて、兄ちゃん、めっちゃラッキーやで」
「そんなことよりも荻野刑事に聞きたい事が……」
「まあまあ。とりあえず、立てこもり事件解決の打ち上げってことで、堅苦しい話は後でもええやん、なあ? 親父も酒の力を借りんと、十年以上も前の事件のことなんて、思い出せんもんなぁ? ここはうちのおごりやから、大船に乗った気でどーんと任せとき。うちはチューハイ頼むけど、兄ちゃんはビールでええか? ジョッキと言わずピッチャー頼むか」
茜のマシンガントークに、フィアスは眼を閉じて眉間に皺をよせるしかなかった。


 荻野刑事が酔いを通り越して、平生よりも落ち着いた態度に戻ったのは、それから一時間後のことだ。
「それで、兄チャンは一体おれに何が聞きてぇんだ?」
 やっと話が本題に移り変わるような気配を見せたのでフィアスは安堵の息を吐き出した。ここまで漕ぎつけるのに、茜の強引な気回しのせいでビールを何杯も飲み干す破目になったのだ。相変わらずアルコールを煽っている感じはしないが、水分の取り過ぎで胃が重い。
「兄ちゃんは、“3・7事件”について、知りたいんやて」
茜が横から口を挟む。荻野刑事はそれを聞くと、うーんと唸りながら短く刈った髪をぐしゃぐしゃと撫でまわした。
「あの事件かぁ。俺ぁ一応捜査に加わってはいたが、下っ端だったもんで、あまり詳しい話はできねぇよ」
「事件発生から、解決までの流れはご存知ですか?」
フィアスが尋ねると、荻野刑事は「一応な」と釈然としない反応を示したが、やがて話し出した。
「“3・7事件”は、規模こそ大きくて、悪質なモンだったが、日が沈む前に解決しちまったよ。一人目の被害者が発見されたのは、正午のことさ。道端に人が倒れてるってんで、瀬谷の派出所に連絡が入ったんだ。それから加賀、横須賀と市内の交番に相次いで似たような情報が入ったもんだから、すぐさま本庁に連絡が行ってな、一課が動き出すまでに大した時間はかからなかった。ちょうどそのころ、おれぁ念願かなって刑事課に配属になったばっかりで加賀の警察署にいたもんだから、すぐさま捜査に駆り出されたってわけさ。あんな事件は今までに見た事がない。大量殺人事件を現行犯逮捕するっていうんだからよ。神奈川から東京にかけての大捕物おおとりものは、そりゃあ見物だったぜ……」
「犯人はどうやって捕まえたんですか?」
フィアスが聞くと、荻野刑事は宙に視線を走らせながら記憶の糸を手繰った。
「確か、十七時頃だったかな……。上野の閑散とした団地で十七人目の被害者が倒れているところの傍に、いたんだってよ」
「リュウトウマサムネが?」
「おう、よく知ってんな兄チャン。“3・7事件”の大犯罪者、龍頭正宗が血まみれの死体のすぐ傍に突っ立っていたらしい。おれは逮捕の現場に居合わせたわけじゃねぇから良く分からねぇ。ただ、おれの上司だった人によると、近辺の交番に勤務していた巡査が駆けつけてくるまで、逃げることもしねぇで、ずっと待っていたって話だ。おれが知ってんのは、こんだけ」
荻野刑事は手にしていたジョッキに並々と注がれたビールを一気に飲み干すと、熊の唸り声のような息をついた。そして天井を仰ぎながら、「謎の多い事件だったな」と呟いた。
 フィアスが眉をひそめたのに気が付くと、荻野刑事は付け足した。
「そうそう、その事件の後に何十回も取り調べや精神鑑定が行われたらしいが、龍頭正宗はだんまりを決め込んだまま、一言も喋らなかったらしいぜ。警察側も龍頭正宗と被害者の接点とを隅々まで洗ったんだが、結局なんの共通点も見出せないまま……後味の悪ぃ話だぜ」
あーあ、ビールがまずくなっちまったと言いながら、荻野刑事は、今度は日本酒をやってきた店員に注文する。フィアスは腕を組んだまま、しばらく鉄板の上で燻っている焦げたお好み焼きを見つめていたが、やがて思いついたように荻野刑事に問うた。
「最後に一つ、いいですか」
焦げたお好み焼きを取り皿に乗せて、入念に焦げの部分を取り除いていた荻野刑事が不思議そうな顔でフィアスを見上げた。
「なんだ?」
「マサムネの刑は、もう執行されたんですか?」
 十七人も人間を死傷させるほどの大罪を犯した男なら、まず極刑は免れない。日本の裁判は判決までにかなりの時間を要すと聞くが、十数年前の事件となれば、もう決着はついているだろう。
 しかし、図書館で事件について調べ上げた真一が言うことには、“3・7事件”後から現在にわたっての新聞には龍頭正宗の刑が執行されたということも書かれていなければ、龍頭正宗の裁判に関する情報も皆無と言っていいほど見当たらなかったらしいのだ。どの新聞も、まるで同じ。示し合わせたように、龍頭正宗のその後の消息が載っていない。
 フィアスがそのことを告げると、荻野刑事もうーん、と唸った。
「死亡したって噂は、聞いてねぇな……でも、そんな大犯罪者を世間が生かしたままにさせておくわけもねぇ。どうなっちまったんだかな」
 その後、荻野刑事は店員から渡された日本酒が甘すぎるということについて、何やら愚痴を言っていたようだったが、もうフィアスの耳には届いていなかった。
 事件を捜査した刑事ですら聞かされていない、龍頭正宗の行方。生きているのかどうかすら謎のまま。いや、これだけ事件を洗っても龍頭正宗が死亡したという情報は一つも手に入っていない。
 ということは、まさか……。