真一の考えは変わった。時間の経過でいえば、わずか60分の間に。
「真一おるかー?」
そう言って何でも屋の事務所にズカズカと足を踏み入れてきたのは、荻野茜だった。今日はえらく上機嫌なようだ。いつもなら三角に釣りあがっている目が嬉しそうに細くなり、口が逆放物線を描くようにして閉じている。
 今日の茜は白いノースリーブのチュニックに、蒼のジーンズを合わせたラフな格好で、ショルダーバッグに両手をかけていた。その手がバッグの留め金を解除すると、
「これ!」
茜はショルダーから白い冊子を取り出して、真一に突きつけた。分厚い冊子、事務机の上にも同じ種類のものが乗っている。表紙には「高2 英語 総合」。途端、真一はグワッとアヒルのような声を上げて、テキストを押し返した。テキストを見るだけでも、相当な精神的ダメージを受けるようである。十字架に吸血鬼か、とフィアスはそんなことを思っていたが、真一を見ていた茜の目線が今度は自分にぶつかると笑ってもいられなくなった。標的ターゲットが、真一から自分に移ったのだ。
「どうせこれ、兄ちゃんがしてくれんのやろ? 真一に英語の勉強なんて、想像できひんもん。兄ちゃん、本場の人間やもんな。こんな子供だまし、朝飯前やろ」
にっと笑った茜にテキストを突きつけられて、今度はフィアスが苦悩する番だった。これから〈サイコ・ブレイン〉が本腰を入れて自分を潰しに来るのだ。そんなくだらないことに割く時間はない。そもそも、日本の高校生が消化する英語の勉強を自分がする時間は、人生において一秒だってない。
「悪いが、それは勘違いだ」
「何やねん、勘違いって」
フィアスは真一を指差す。
「自分が請け負った責務は、自分でどうにかしなければならないのが大人のルールだろ。当然、取引の後始末はこの男がすべきだ」
 相手の返事を待たず、フィアスはポケットから新しく買い求めたJUNK&LUCKを取り出し、火を点けた。アメリカから日本に戻ってきてから、煙草の量が間違いなく増えている。それほど鬱憤うっぷんが体内に蓄積され、全く消化されていないということだ。もしかしたら近い将来、煙草だけでは飽き足らず、本当に精神安定剤に手を伸ばしてしまう日が来るかもしれない……。
 目を閉じて存分にJUNK&LUCKを味わった後、白煙の中から茜を伺うと、彼女は、言っている事が違う! と怒りながら真一をテキストで殴っていた。丸まったテキストがハリセンのように切れのいい音を立てている。
 力任せに真一を叩きながら、茜は叫んだ。
「何やねん、暑い中人を呼んでおいて! せっかく龍頭正宗の情報まで持ってきてやったのに、その仕打ちがこれかっ!ゴメンで済んだら警察はいらんのやぞ、真一」
思わず、口から煙草を落としそうになった。
「ちょっと待て。リュウトウマサムネの情報とはなんだ?」
フィアスはソファーから立ち上がった。煙草を灰皿に潰すと、テキストをこん棒に室内鬼ごっこをしていた茜を抱き止めた。その隙に、鬼の叩かれ役であった真一はそそくさと部屋の隅に退避する。突然の他者の介入に、茜はポカンとした表情でフィアスを見上げた。反対にフィアスの眼光は鋭い。両手で茜の肩先を掴んで揺する。
「おい、本当にマサムネのことを知っているのか?」
訳の分からない顔のまま、茜は頷いた。
「ああ、うん。真一に頼まれて、親父に聞いておいたんよ」
茜は手にしていたこん棒を元のテキストに戻すと、その一番後ろに重ねてあったコピー用紙を見せた。
「3・7事件の全被害者のプロフィール」
即座にフィアスは差し出されたA4紙を目で追う。
 確かにそこには〈ドラゴン〉の起した凶悪犯罪の犠牲者となった17人の名前や性別や住所職業等がずらりと記入されていた。また死亡した15人には死因や死亡時刻も記入されている。警察機関ならではの厳密に調査された内容だった。
 紙の右端にはこの事件の担当者である刑事の名前が書かれている。当時はまだ巡査だった荻野警部の名前はない。いつの間にか、真一が音も立てず忍び寄ってきて、茜の隣でコピー用紙を覗き込んでいた。その内容に感嘆の溜息を漏らす。
「よくこんな個人情報を手に入れられたな。〝極秘〟って書いてあるぞ」
「うちの親父が、警察署の書類倉庫からコピーして来てん。情報源は確かやで」
「親父さんもよくそんな事ができたな。見つかったらヤバイんじゃないのか?」
真一の質問に、茜はフッとニヒルに微笑して答えた。
「それが見つかってお偉いさんからお叱りを受けるより、警察手帳に隠してあるへそくりをオカンに告げ口されることの方が恐ろしいんや、親父は」
ふっふっふっと笑う茜は時代劇に出てくる悪名高いお代官のようだ。年端もゆかぬ少女が簡単に警察署内の極秘書類を手に入れられるという現状に、真一は曖昧に笑うしかない。茜の将来は「警官」か「ヤクザ」か、という天秤がゴトリと「ヤクザ」の方向に傾くのを感じた。
「日本の行く末が心配だな」
それにしては大して心配してもいない声でフィアスも言った。そしてまだ茜の手の内にある書類を取ろうとしたが、それよりも先に茜は書類を引っ込めてしまった。怪訝な顔をしているフィアスを余所に見て、茜はまたあくどい笑みでふっふっふっと笑う。
「タダ見はアカンで兄ちゃん」
茜は極秘書類をひらひらと片手で泳がせて、「GIVE&TAKE」とやけに発音のいい英語で言った――言い慣れているのだろうか。
「ここからは商売取引や。うちもこの書類、手に入れるのに滅法苦労したんやで。その苦労分を兄ちゃんに買うてもらわんと、割りに合わへん」
茜は極秘書類と英語のテキストを一つにまとめると、あどけなさを含んだ笑みと一緒にフィアスに差し出した。蛍光灯に照らされ、「高2、英語 総合」の文字が漆黒に輝く。
 あられもない展開に、フィアスは閉口するしかなかった。全ての原因である本郷真一を、殺意を込めて睨むと、真一は即座に目線を天井の方向に反らした。しかし、口の片端だけは脳からの信号に従えず、愉快そうに歪んでいる。心中では「してやったり!」とガッツポーズを取っているに違いない。
「……引き受けよう」
長い沈黙の後、フィアスは極秘書類と一緒にテキストを受け取った。機嫌を良くした茜と握手をする。商談成立という意味を含み、この話は終わりにしよう、という意味をも含んだ握手を。

「さて――、」
一仕事終えて安堵の息を吐き、またしても茜は真一に向かい合った。小さな右手を差し出す。真一はそれが何を意味しているのか理解できない。茜は暫くそうして右手を差し向けていたが、やがて怒りが湧き上がると同時に手がわなわなと震え始めてきた。ものの10秒もしないうちに怒りは沸点に達する。
「家賃!」
怒鳴った茜に、真一はビクッと肩を震わせた。茜の瞳はたちまち鋭い光を放ち、肉食獣の雰囲気を漂わせる。「高校生」から「取り立て屋」に転じた茜は真一の胸倉を掴むと上下に揺さぶった。
「アンタはまた払わん気か!」
「ちょ、ちょっと待て! 金はこの前払っただろ!」
真一の言い分に、茜は真一の胸倉を放したが、怒れる瞳はまだ真一を睨んだまま放さなかった。人差し指を一本突き立てると、真一をビシッと指差して、
「あれは今までの返済分、今月分はナッシングや!」
「いやだなぁ茜ちゃん、そんな冗談言っちゃって」
柔らかな口調で真一は抵抗するが、「嘘やない!」と茜に一蹴された。
「この前言うたよな。今度払えんようやったら、即行立ち退きやって。さあ、ちゃっちゃと荷物まとめて出ていき」
待ったなしの〝死の宣告〟に、真一は数秒間言葉を失った。
「マジかよ。俺をホームレスやネット難民にするっていうのか?」
やや弱々しげな真一の声にも動じず、茜は強くうなずいた。
 しかし、あっ、と小さく呟いてから、
「荷物をまとめる必要ない。持ち物全部、かたとして置いていき。アンタは何も持たず出ていけ」
さらに傷口をえぐるようなことを言い放ったので真一はたまらない。ショックでフリーズした状態からすぐさま態勢を建て直し、5分ほどあれこれと巧みな話術で茜に「立ち退き免除」の交渉を持ちかけたが全て茜に一蹴され、沼の底へと沈んでいった。
 熱心すぎる真一の説得に茜はやや引き気味だ。様々な提案を捲くし立てる真一の必死さからは、確認しなくとも貯金残高の予想がつく。それでも、不自然なくらいに消費者金融の話を持ち出さないところは、真一独特のポリシーに反するものでもあるのだろうか。
 二人のやりとりを、フィアスは真一専用の事務椅子に座って遠巻きに眺めていた。こうして客観的に渦中の二人を見ていると、内交渉というよりはもはや余興のように思える。言ってしまえば、漫才だ。
『Money is a good servant, but a bad master.(金は召使には良いが、主人にするには悪い)』
 そんなことを題材にした余興は、真一が無一文で何でも屋から放り出されると共にお開きになった。

 事務所を追い出された真一は、これで笹川の家に身を置くことを余儀なくされた。〈サイコ・ブレイン〉に真一が狙われているということは、笹川毅一も既知の事実である。真一が事務所から立ち退いたことを伝えれば、快く笹川邸に真一を同居させることを了解してくれるだろう。
 新たに人手に渡るはずだった事務所の空室は、茜のお情けにより一時的に使用禁止にされただけだった。家賃の3か月分にあたる15万を納入次第、また住んでもいいらしい。家賃の取立てに厳しい茜だが、善意で真一に住処を提供していることは明らかだ。
 しかし、〈サイコ・ブレイン〉を倒すまで、当分は事務所には近づかず、笹川の世話になる方が得策だ。
 フィアスがそのことを伝えると、真一はげんなりした様子で嘆いた。
「なあ、俺がじーちゃん家に行く以外に、何か手段はないのかよー?」
「手段も何も、自立するまでずっと笹川のところに住んでいたんだろ? 何でも屋を営む前の生活に戻ったと考えれば良いじゃないか」
「俺がガキだった頃は、組の跡継ぎ問題なんかで揉めてなかったんだよ!」
「〈サイコ・ブレイン〉に殺されるよりはヤクザのリーダーになった方がマシだろ。背に腹は変えられないだろうが」
「でもよぉ……」
「しつこいぞ」
痺れを切らしたフィアスが睨むと、不承不承、真一は了解した。
真一の愛車も担保として茜の手に渡ったので、笹川に迎えに来てもらうよう連絡した。すると20分も経たずに黒塗りのベンツが3台もやってきた。どれも時価1000万は下らない高級車である。
だから嫌だったんだ、と嘆く真一の隣で、確かに仰々しい集団だとフィアスも思った。過去にアメリカの大富豪の警護を請け負ったことのあるフィアスだったが、その時と似た荘厳な空気がベンツから降りてきた7、8人のヤクザから感じられる。どのヤクザも相当な手練のようだ。鋭利な目つきでくまなく辺りを見回している。
まだその場に残っていた荻野茜は、唸るように歯をむいてその集団を睨んでいる。刑事を天職に考えている茜にしてみれば、ヤクザは相容れない存在なのだ。
「無意味な威嚇はやめた方がいい」
フィアスがたしなめると、茜は口を閉じておとなしくなった。
獰猛なヤクザの中に、笹川から勅命を受けたのであろう、一之瀬慶一郎の姿があった。
「お前たちは、下がっていろ」
部下のヤクザたちを車に戻すと、一之瀬は真一に45度に腰をおった礼をする。
「お迎えに上がりました、若」
「慶兄ちゃん一人で、車もベンツじゃなくて軽トラで良かったのに」
真一が口を尖らせる。一之瀬は軽く頷いて、次からは心得ておきますと答えた。
「真一、ほんまに任侠の人やんなぁ……」
茜が呟いた言葉を真一は丁寧に否定する。
「ちげーよ。任侠なのはうちのじーちゃんで、俺は何でも屋だ」