次の日、何でも屋の空気はどことなく重かった。それはフィアスのせいではなく、真一を取り巻くオーラが暗く沈んでいたからだ。真一は自分の事務机に突っ伏したまま何やら書き物をしていた。カリカリカリというシャープペンシルの音が聞こえている。頭の使う作業を心から倦厭けんえんしている真一からは想像のできない行為である。
 真一は机から顔をあげてフィアスの姿を目にとめると、書いていたノートを差し出した。今にも死にそうな顔で息も絶え絶えに言う。
「ば、バトンタッチ!」
そしてそのまま机に顔を埋めて眠ってしまった。差し出されたノートを見ると、そこにはあまり目にした事がない種類の漢字の羅列があった。最初の10Pまでは神経質で比較的小さな字で記入されているが、ページを繰るごとに段々と雑な筆記になっている。20Pまで来た頃には、ほぼ殴り書きのアグレッシヴな文字へと変化していた。フィアスは顔をしかめながら手にしたテキストの表紙を見る。
「コウニ、ゲンダイコクゴ、カンジ……なんだこれは」
真一は身動き一つせず、死んだように眠っている。何を言っても聞こえないようだった。仕方なくフィアスはまた大判のテキストをパラパラと繰る。と、一箇所だけ違和感のあるページを見つけた。そこだけテキストとは違う別の用紙が挟まって、しおりのようになっているのだ。
 取り出した用紙は、どうやら新聞のコピーのようだった。日付けは今から十数年前の3月15日になっている。だが日付よりも、新聞の或る見出しが、いち早くフィアスの目にとまった。
『〝元・暴力団幹部、15人を殺害〟』


 真一が束の間の眠りから目を覚ますと、丁度フィアスがソファーに腰掛けていて、手にした新聞のコピーを机に投げ出したところだった。青い瞳と目が合う。
「ご苦労だったな、ホンゴウ」
フィアスはいつも通り何の感情のこもっていない目で労いの言葉をを述べる。指は昨日調べ上げた龍頭正宗の連続殺人事件についての新聞記事を指している。
「ああ、それか。全部日本語で書いてあるけど、読めたか?」
大体はな、とフィアスは頷く。
「それよりも悲惨だな。こんな凶悪犯罪、海外でもめったにお目にかかれない」
「被害者だけで17人、だもんな。全く、うちのじーちゃんが話をしたがらないのも分かるぜ。絶縁されたにしても、龍頭正宗は、元は笹川組の人間だ。笹川組から出た不祥事として、当時の笹川組は他の組からの風当たりが相当キツかったんじゃないかな」
真一が机から立ち上がって、大きく伸びをした。その足でフィアスの座るソファーから机を挟んで向かい側のソファーにどっかりと腰を下ろす。そして欠伸を噛み殺しながら、新聞の下敷きにされていたテキストを掘り起こし、改めてフィアスに差し出した。先ほどの「高2、現代国語 漢字」である。
「はい。バトンタッチ」
フィアスは暫くテキストの表面と真一の顔を交互に見ていたが、なんの因果関係も浮かんでこないようだった。
「少々、理解に欠けるんだが」
 眉をひそめた表情でテキストに書かれた明朝体の文字を目で追っているフィアスにはお構いなく、真一はさらに筆箱を事務机の上から持ってきた。真一の所有物ではないそれは、水色にラメが散りばめられた布製のペンケースだ。空の写真がプリントされてあったり、CG加工で虹が描かれていたりする、女の子向けの文房具。そんなペンケースのチャックの部分には黒と白の古風な書体で「御用!」と書かれたキーホルダーがついている。付けた持ち主の美的センスを疑うような組み合わせだった。
 その怪しい筆箱を目にした瞬間、確かな因果関係が汲み取れたようだ。持っていたテキストを机の上に投げ出すと、フィアスは両手を軽く挙げる。全てを理解した青い瞳が毅然として真一を睨み、そしてフィアスはきっぱりと言った。
「冗談じゃない、断る」
「俺、まだ何も言ってないぞ」
「あのヤクザ娘のホームワークだろ。またくだらないことで、あの娘に貸しを作ったんだな?」
フィアスの軽蔑しきった目線に当てられ、真一は慌てて首を振る。
「新聞記事調べんの、手伝ってもらっただけだよ! 俺だって交換条件が〝宿題〟だって分かってたら呑まなかったさ。だけど、引き受けちゃったモンはしょうがないだろ?」
「だったらお前がやれ!」
フィアスに一喝され、真一は口を尖らせながらしぶしぶ勉強道具一式を掻き集めると事務机の上に置いた。しかし、宿題を片付けようとする様子はない。何故かジーンズのポケットから携帯電話を取り出すと2,3回ボタンを押した上で耳に当てた。不可解な真一の挙動にフィアスは眉間に皺を寄せるばかりである。
 携帯からは微かに電話のコール音が響いてくる。
「交渉してみよう」
電話先に誰かが出た。受話器からは甲高い少女の声が微かに聞こえてくる。威勢のいい、捲くし立てるような喋り方は宿題の依頼人クライアントである茜のものだった。真一は適当に挨拶を済ました後、ズバリと本題に切り替えた。
「例の宿題なんだけど、国語から教科変更したい……英語に」
「殺すぞ、ホンゴウ!」
フィアスの怒鳴り声に片耳を押さえつつ、真一は巧みな交渉術で茜にその旨の許可を取り付けるとさっさと電話を切ってしまった。顔には一筋の冷や汗と不適な笑みが張り付いている。親指を突き出した〝バッチリ〟のサインをフィアスに向けるとニヤリと笑う。
 フィアスは両奥歯をギリギリと噛みながら真一を睨みつけることしかできなかった。着々と胃と頭の具合が悪化の方向へと動いているのが手に取るように分かる。
 ただでさえ彩のことで神経をすり減らしているというのに、益々重苦しい悩みの種ができてしまったのだ。本郷真一を殺す前に、自分が真一の考えなしの行動に対するストレスに殺されかけているのではないか。フィアスの溜息は、クーラーの動作音にかき消された。


「アヤは、今日は遅いんだな」
気を取り直してフィアスは言った。昨日なら、既に彩はソファーに腰かけて、にこにこしながらフィアスを眺めることに従事している時間だ。今日は10時30分を回ったのに、彩の訪れる気配はない。そうだな、と真一も何でも屋の窓から外を眺めたが、彩の姿は発見できないようだった。
「〈サイコ・ブレイン〉に捕まっていないといいが……」
呟きながらフィアスは龍頭正宗の新聞記事を事務机のテキストの中に挟んで隠した。彼女がここへ来た時に、この記事を見られてしまったら、厄介なことになりそうだったからだ。実の親でありながら自分を組織に売り飛ばした龍頭正宗に、彩が愛情を持っているわけがない。
 フィアスの落ち着き払った態度にいくらか真一は不満そうな様子だった。また祖父譲りの情のもろさが顔を出したらしい。
「もし本当にそうだったら、ここでおちおちしてる場合じゃないと思うんだけど」
つっけんどんな真一の言葉に、フィアスは自分の腕時計を確認してから軽く頷いた。
「11時を回っても来なかったら、探しに行くとしよう……俺が思うに、もうじきやって来る気がするけどな」
 果たして、龍頭彩はそれから10分もしないうちに何でも屋にやってきた。はあはあ、と息を切らしている様子からすると何でも屋へと続く階段を駆け上ってきたらしい。今日もまた涼しそうな白いワンピースを着ている。ノースリーブ、ハイウエストで膝蓋しつがいあたりから脛にかけて薄いレースがあしらわれた、古風な夏服だ。しかし彼女独特の魅力のあるルックスに純白のワンピースはとても良く似合っている。
「ごめんね、遅れちゃった!」
肩から吊るした白い鞄を揺らしながら、彼女は大きな目をぱちぱちさせて謝った。上目遣いにフィアスを見上げる様子は、真一でもドキドキしてしまうほど可愛らしい。
「いや、俺も今着いたばかりだ」
柄でもない社交辞令的な挨拶を交わしてフィアスは微かに笑む。彩のこめかみに張り付いた髪を優しげな手つきで除けてやる。拳銃を構えている時からは想像もつかない優雅な振る舞い。
 真一は目を白黒させながらそんなフィアスを眺めていたが、フィアスは真一のことなど眼中にも入っていないようだ。彩の耳に唇を近づけて、ひそやかな声で囁いた。
「ここに来てもらって悪いが、外へいかないか? どこか、二人きりになれるところに」
フィアスは深い青色を湛えた瞳で彩を見据える。真摯な眼差しを向けられて、彩も―元から拒否する気はないのだろうが―微かに首を上下に動かしたばかりだった。
 そうと決まるとフィアスの行動は素早く、すぐに彩の背を支えて方向転換させ、入り口のドアを開けた。流れるようなエスコートに真一はまたもや目を見張る。そこでフィアスと目が合った。
「じゃあな、ホンゴウ」
「おい。そんなに急いでどこ行くんだよ?」
眉をひそめた真一の顔を見て、フィアスは少しだけ目を細めた優越的な笑みを浮かべると、立てた人差し指を唇にあてた。英語の発音できっぱりと告げた。
「Top Secret」