「アヤ……」
囁くような声でフィアスは言った。「アヤ」――龍頭彩の名前を。
 まるで口に出すことで、自分が認識している目先の人物が追憶の中に存在する彼の女の姿と一致しているのを、確かめているようだった。
 この喧騒の中、到底その声は前方10m前にいる女には聞こえないはずなのに――彼女が反応した。名前を呼ばれた猫みたいに、俯いていた顔を上げるときょろきょろと辺りを見回す。そして、真一と目が合った。真一の姿を目に捉えた彼女は一直線にこちらに突き進んでくる。肩にかけた白いショルダーバックを揺らし、早足で。
 フィアスのフリーズ状態は、女が動き始めると同時に解除された。目はまだこちらに近づいてくる女の姿を捉えて離さないが、頭はちゃんと回っているようだ。
「ホンゴウ、退け」
僅かに開いた唇から掠れた声でフィアスは言った。真一は近づいてくる女とフィアス、交互に三往復ほど目線を走らせる。今や女の目線は真一から隣にいるフィアスへと移っていた。両方とも真剣な顔で見詰め合っている。
「お前はどうする?」
「俺は――……」
フィアスの逡巡は中々結論を導かない。その間も目線は常に女に向けられ、余すところがなかった。
 そうこうしているうちに、ワンピースの裾をひらめかせて女が目の前にやってきてしまった。無論、真一にもう逃げだすすきはない。
 黒目がちの大きな瞳が特徴的な女、生粋の日本人。茜の「美人」という言葉に申し分なく、彼女は魅力的な顔立ちをしていた。フィオリーナのような正統派美形とは少し違う、顔のある部分が拡張されることにより生まれる、「愛らしい」顔立ちをした女だった。動物に例えるとちょっと猫っぽい顔つきだ。彼女が微笑む。まるで、小さな子供みたいに無垢の笑みで。
「嘘だろ……何故アヤが」
狼狽ろうばいしたフィアスの語尾は、
「アルド!」
という彼女の第一声によりかき消された。堪えきれないといった様子で、彼女はフィアスの腕に抱きついた。ちょうど、久しぶりに再会した恋人にやるように。
「アルド・ディクライシス……アル。本当の本当に貴方よね? 夢じゃないよね? ああ、やっと会えたわ。……この5年間ずっと、会いたくて、会いたくて、仕方なかったんだからあぁぁぁぁ……」
そう言いながら、人目もはばからず彼女は幼女のように泣き出した。
 ほころんだ目尻から大粒の涙が頬を伝って滴り落ちる。泣きじゃくる彼女に真一はうろたえ、片腕を彼女に抱きつかれているフィアスはまるで他人事のように泣いている彼女を見下ろしていた。顔は無表情だが、いつものように頭の中であれこれ思案を巡らせているような様子はなく、空虚な心が表情を持て余しているように、真一には見えた。


「あの……そんで、君は誰?」
やっと真一が聞けるようになったのは、女の泣き声が最盛期を超えて嗚咽に変わってきた頃だ。女は泣きはらした目を拭うと呼吸を整え、真一に向き直った。微かに笑ってみせる。
「彩です。龍頭彩」
アヤ。女がその名前を口にしたとき、わずかにフィアスの片頬がピクリと引きつるように動いた。真一もフィアスの柄にもない動揺、そして狼狽した訳がやっと理解できた。そして、今度は自分がフィアスのように混乱する番だった。
「嘘だろ……だって、龍頭彩は5年前に、死」
そこまで言って、慌てて真一は口を閉じる。仮にも龍頭彩と名乗る女性が前にいるのだ。なんとなく、死んだという言葉を使うのは失礼のような気がした。
 瞬時に頭の中では数ヶ月前のNYでフィオリーナが語った話が回想される。5年前のフィアス――アルド・ディクライシスの恋人であった龍頭彩は何者かによって殺害されたのだ。左胸を撃ち抜かれて、ほぼ即死に近い状態だったとも聞いている。だけど、目の前にいる彼女は……。
「私、あの時死んでなかったの」
鼻をぐずらせながら彩――と断定してよいのかどうかは真一にも分からなかったが――が言う。
「5年前、私を撃ったのは〈サイコ・ブレイン〉で間違いない。だけど、あれは巧妙に仕組まれた罠だったのよ」
〈サイコ・ブレイン〉? 巧妙に仕組まれた罠? 真一は首を捻る。じゃあ、フィオリーナから聞かされた話は、一体なんだ?
「ふざけるな」
その一言に真一も彩もびくっと肩を震わせた。
ドスの利かせた恐ろしい声で言ったのは、フィアスだった。乱暴に彩の手を振りほどくと、懐に手を掛けた。いつでも銃を撃つ事ができるという威嚇の態勢。ナイフのように尖った眼光が、容赦なく彩を睨む。
「あれが〈サイコ・ブレイン〉の仕組んだ罠で、彩が生きているだと? 誰だか知らないが、よくそんな感動的な話を思いつくもんだな。聞いていて涙が出そうだ」
「本当よアルド、私を信じて」
「昔に死んだ女が、こうして俺の前にいることをか? 冗談じゃない」
「そんな……、やっと会えたっていうのに、あんまりだわ……」
か細い声でそう言うと彩はまた両手に顔を埋めて泣き出してしまった。
 険悪なムードになってきたのは間違いなかった。そしてそれが周囲の人間の野次馬的な興味を煽り立てていることも。スーツを着た精悍な顔の男に、目から涙を流し続けている美しい女の姿は、大衆の目を惹きつけるのに十分な役所だ。いつの間にか、遠巻きに人が集まり始めていた。
 真一は自分だけが蚊帳の外にいるものとして、辺りを見回してみたが、どうやら自分もその喧嘩の中の一員として含まれていることに気づいて慌てた。たくさんの好奇と軽蔑の目が向けられていることをフィアスに知らせようと合図を送るが、第三者は口出しするなとばかりに無視されてしまう。
いつの間にやら、真一の事務所の1FにあるBAR「Sherlock Holmes」のマスター、ルイスが人ごみを掻き分け真一の所まで進んできた。
「おい真一、何やってんだ?」
「いや、何って……」
「いいから来い」
 ルイスは真一の腕を引っ張ると、大衆をかき分け、目立たない部分へと誘導していく。今や輪となった人ごみから外れると、ルイスは言った。
「野次馬から、北欧系の美男と日本人美女カップルの痴話喧嘩に、地元のチンピラも絡んできてすごいことになっているって聞いたんだが……もしかして、お前も一枚噛んでるのか?」
ルイスの言葉に真一はうな垂れた。三人のうち一人だけ明らかにステータスが低いのはショックだ。
 輪の外から中心を伺うと、フィアスはこの上なく不機嫌な顔――但し、目だけは彩を睨みつけている――で今にも懐から「それ」を取り出そうとしていた。漂う殺気が、ほんの数ミリ彩が動いただけで容赦なく発砲することを仄めかしている。しかしこの瞬間、拳銃を取り出そうものなら、一般大衆がパニックに陥ることは誰でもわかる理である。それなのに、フィアスはこの女の正体を見極めようとするあまり、周囲にまで気が回っていない。目の前にいる女しか目に映っていない。真一は苛々と頭をかきむしった。
「――ったく、ここぞって時にアイツは冷静さを失ってどうすんだ!」
 肩を震わせて泣いている女性が龍頭彩かどうかは、興味深い真偽だったが、それよりも今はフィアスの怒りと取り巻きの野次馬をどうにかしなければならない。真一は脳に蓄えられた全知識を捻り出し、この場を沈める案を考えるが、全く思いつかない。
 ハラハラと事の成り行きを見守っていると、フィアスが今まで聞いたことのないくらい優しい口調で何か喋った。異国の――英語の言葉だった。
「Verzeihung. Don't get me wrong. No matter what happens, I'll trust You.」
「すまない。誤解しないでくれ。何があっても、君を信用する。 ――だってさ」
英語での日常会話もままならない真一のために、ルイスが横で和訳する。
そしてルイスは少し首を捻った。
「妙だな。最初のVerzeihungは、ドイツ語だ」
外国語で何を言われたのか、真一同等彩も分からないようだった。しかし、聞きなれない異国の言語は、彩を落ち着かせる効果をもたらした。彩は泣いていた顔を上げてキョトンとしている。
「新手のショック療法ってヤツかな」
ルイスが真一の隣でつぶやいた。
「外国語を使われると、とたんにフリーズしちまう日本人の性だな」
 次にフィアスは、このショーは終わりだとでも言うように、鋭い目線を周囲に走らせた。丁度、自分を取り囲んでいるギャラリーに向けて。
 フィアスの殺気を含んだ睨みは、真一にとっては日常茶飯事のことにしても、一般大衆を怖がらせる効果は十分にあったようだ。フィアスの殺伐とした空気を感じ取った一般人たちは散るようにして逃げていった。とりあえず、血を流すことも大混乱を起こすこともなく一件落着したようだ。
 ルイスは「お前らは人騒がせだなぁ」と苦笑すると、また店に戻っていった。
「アヤ(言いにくそうにフィアスは言った)、とりあえず今は君を信じる。何でも屋の事務所でこれまでのことを詳しく聞きたいんだが……」
フィアスが英語を話した時と同じような優しい口調で言うと、彩は涙を拭って微笑んだ。
「信じてくれてありがとう。もちろんよ。私もこの5年間で、アルに言いたいこと、たくさんあるもの」
「そうか」
フィアスも笑顔をつくろう。そしてさりげなく、目で真一を呼んだ。左手はまだ懐に突っ込んだまま、警戒を解いていなかった。彩に、先に何でも屋の事務所に入っているように言うと、フィアスはやっと懐のS&W M5906から手を抜いた。
「さっき、英語で信じるとかなんとか言ってたけど、あれは本気か?」
真一が尋ねると、フィアスは神妙な顔をして首を振った。
「嘘も方便だ。まだ信用したわけじゃない。だけど、あの女はアヤとあまりにも似すぎている。姿や喋り方、それに仕草も……鏡に映したようにそっくりだ」
「俺は龍頭彩に会ったことはないから、よく分かんねぇけど。とにかく、あの龍頭彩は幽霊かなんかじゃないってことだけは確かだぜ」
真一の妙に確信をもった物言いにフィアスは眉をひそめた。真一は胸を張って得意げに答える。
「だってあの彩の外見、どー見たって20代だぜ。18歳には見えねーもん。もし彼女が5年前に死んだ幽霊だったら、18歳から成長しないはずだろ」
話を聞きながらフィアスはちょうど珍しい生き物でも見るように真一を眺めていたが、段々と瞳が冷ややかな色を帯びてくる。
「最高の名推理だな。何でも屋をやめて探偵にでもなったらいい」
突き放した声でそう言うと、フィアスは早足で何でも屋へと続く階段を上がっていってしまった。
 何でも屋の事務所の扉を開けると、アヤは物珍しそうに辺りを見回していた。ガラス戸にしまわれたプラモ、壁の隅に積み上げられた漫画雑誌は真一の趣味の表れだとしても、白い鳥かごや埃をかぶったパチンコ台、アジアンテイストの壷、京都のロゴが入った提灯やら鮭を銜えた木彫りの熊といったご当地グッズ……仕事とは関係のない意味不明なものまで置いてある事務所は、ややカオスと化していた。
 瞠目どうもくしたアヤの瞳が360度何でも屋を見回した後、真一に向いた。
「なんだか、面白い部屋ね。目が退屈しないわ」
「ああ、そう? そりゃあ……良かった」
曖昧な返事をして真一はぎこちなく笑む。フィアスが彩のことを本物だと認めない限り、警戒心は拭えない。肝心のフィアスは部屋に入ったきり押し黙り、さりげなく彩の言動に目を光らせている。彩はそれに気づいているのか、あまりフィアスの方を見ない。
「ねえ、何でも屋さん。貴方、名前はなんていうの?」
「え、俺? 俺は本郷真一」
「じゃあ、真一くんね」
彩が微笑む。美人ということを抜きにしても、人を惹きつける、魅力のある笑顔だった。真一は思わず警戒心を解いて笑い返してしまった。
「アヤ」
部屋に入ってから、初めてフィアスが言葉を発した。彩ははにかんだような控えめな笑みでフィアスを見る。
「うん?」
「そろそろ、話してくれないか」
「……うん」
彩は床に目線を落として頷いた。気乗りしない様子だったが、話し出すのは早かった。
「アルドには言ってなかったけれど……私、〈サイコ・ブレイン〉の仲間だったの、7年前まで」
「知ってる。それで、海外に――アメリカに逃げてきたというのは、本当か?」
彩は悲しそうな顔で頷いた。
「〈サイコ・ブレイン〉、いやな所よ……7年前、アルドに会わなかったら、私、〈サイコ・ブレイン〉に殺されていたかも。〈サイコ・ブレイン〉は残虐な殺人鬼の集団で、皆常軌を逸している。〈サイコ・ブレイン〉に捕らわれていた私でも、その実態はよく分からない」
 実際に、5年前、彩は〈サイコ・ブレイン〉に殺されたと思われていた・・・・・・のだ……無論、この彩が5年前と同一人物なのだとしたらの話だが。
 何とも奇妙な空間だった。5年前〈サイコ・ブレイン〉によって死んだとされていた女が目の前にいて、〈サイコ・ブレイン〉の脅威を語っている。真一でさえ違和感があるのだから、さぞやフィアスには彩の声、そして話の一つ一つが奇々怪々に届いているに違いない。真一がフィアスの方を見ると案の定、彼は眉間に皺を寄せて彩の話を聞いていた。
「5年前のあの日、確かにアヤは銃弾に倒れた。俺は、医者からアヤの死亡確認を聞いたし、判定書も見た……死因は銃弾による、心破裂だった」
 心臓を銃によって撃ちぬかれ、死亡。奇跡の生還からは程遠い。しかし、彼女はここにいる。
「あの銃弾は、本物じゃなかった……エアーガンに使われるBB弾をちょっと強化したくらいの偽物よ。気絶させられるくらいの威力はあっただろうけど。死亡診断書だって〈サイコ・ブレイン〉なら上手く偽装できるはずだわ。それか、若しくは私をテトロドキシンかなにかで仮死状態にして医師の目を欺いたっていう方法も、〈サイコ・ブレイン〉ならやりかねない」
彩は震える声で呟くと自分で自分を抱きしめた。
「私が目覚めたのは……日本。〈サイコ・ブレイン〉に囲われていた時の部屋だった。それからずっと、今日までこの社会から――世界から隔離されていた」
 一般大衆が過ごす日常とは全く違う、波乱に満ちた境遇。この5年間――否、〈ドラゴン〉が〈サイコ・ブレイン〉にわが子を託した時から、人権も法律も通用しない、〈サイコ・ブレイン〉に制圧された時を過ごしてきたに違いない。  真一はちらりと、フィアスの表情を伺う。彩が持つ忌まわしい過去を目の当たりにして、彼は今何を思っているのだろうか。怒りに身を震わせているのか、それとも悲観に暮れているのか――だが、フィアスは無表情のまま動かない。
 非情だと思えるほど、なんの感情も見せなかった。
「おい、大丈夫か?」
余りにもフィアスが何の感情も持っていないように見えたので、少しばかり怒気を含めた口調で真一が声をかけると、フィアスは意外にも素直に詫びた。
「ああ、すまない。あまりにも壮絶そうぜつな話だったから、言葉を失っていた」
フィアスは少しだけ目を伏せる。
「だけど、アヤ。君はどうやって〈サイコ・ブレイン〉の元から、抜け出してきたんだ? 何故、何でも屋に俺がいると分かった?」
〈サイコ・ブレイン〉に幽閉された3年目から、監視の目が甘くなった。〈サイコ・ブレイン〉も、もう彩は日本から抜け出せまいと高を括っていたらしい。横浜の何でも屋とアメリカを発端とするBLOOD TIRSTYが〈サイコ・ブレイン〉のことを調べているという噂を聞いたのは、1ヶ月ほど前だった。アメリカ、と聞いてピンときた彩は、〈サイコ・ブレイン〉の監視の目をすり抜け、何でも屋を探すことにした。そうして〈サイコ・ブレイン〉から身を隠しつつここへとたどり着いたということだった。
 彩はフィアスの前までおそおそるといった調子で歩いていくと、悲しげな顔でフィアスを見上げた。
「アルドは警察官を辞めたのね」
「ああ」
「もしかして、私のせい?」
「いや……」
フィアスは言葉を詰まらせ、話題を転換する。
「俺のことはどうだっていい。それよりも悲惨だったな、アヤ……長い間、助けてやれなくて、すまなかった」
そう言ったはいいものの、本当にこの女は龍頭彩なのか。猜疑心さいぎしんは拭えない。
「もう、いいの。……ただ、アルドにまた会えて嬉しい」
「俺も、嬉しいよ」
もちろん、心の中の迷いはおくびにも表に出さないフィアスだったが、彩の黒髪を撫でたとき、手に掛かった吐息は熱く、彼女の存在が嘘幻ではないことを証明していた。
 3時間ほど、彩は取り留めのない話をしていた。この5年間の空白を埋めたいためなのか、話の内容はアルド・ディクライシス――フィアスに対するものが多かった。(自分がいなくなってからの5年間はどのように過ごしたのか、という類だ。)
 フィアスも多少は警戒を解いて彩と話をしていたものの、〈サイコ・ブレイン〉の調査段階やBLOOD TIRSTYのこと、そして自分の居所など――〈サイコ・ブレイン〉側にとっては有益になる情報に対しては曖昧に言葉を濁していた。
「もう、行かなくちゃ」
何でも屋の窓から差し込む夕焼けを見て、彩は椅子から立ち上がった。手にショルダーバックを引っ掛けると、おずおずとフィアスを仰ぎ見る。
「アルド、まだ本調子じゃないみたい。無理もないわよね、5年前に死んだ私が、こうして目の前にいるんだもの……良かったら、また明日、ここに会いに来てもいい?」
「俺が否定する理由はないだろ?」
フィアスがそう言うと、彩は嬉しそうに微笑んだ。

本当に、心の底から嬉しそうな顔をする。
5年前も、今も。


「分からない……」
 彩が〈サイコ・ブレイン〉から身を隠すために雇ったという近場のホテルへ帰っていくと、フィアスは脱力したようにソファーの背にもたれかかった。額に乗せた手に挟まった煙草からは細い煙が立ち込めている。
「彩が、本物かどうかってことか?」
真一が尋ねるとフィアスが頷いた。まだ彩を信用していいかどうか、渋っているらしい。眉間に皺を寄せた苦悩の表情で煙草を吸っている。
「だけど、あれ・・があるってことは……本当に、アヤなのかも知れない」
「あれって――〝黒蝶〟か?」
真一の質問にまたフィアスは頷いた。しかし、黒蝶――彩が彩である揺るがない証拠が出てきたことが逆に彼女の欺瞞ぎまんであるような気がして、益々フィアスを苛ませるのだった。

 彩が何でも屋に来て1時間が経過したころ、ふいに彩がフィアスを見据えた。絶えず彩の言動に監視の目を向けていたフィアスは、鋭い眼光のまま彩と目線を交わした。慌てて視線を外したものの、勘の良い彩は悲しそうに俯いた。
フィアスの瞳が、まだ自分を「敵」と見なしていることに、気づいたのだ。
「まだ私を信じてくれていないのね?」
「いや、そんなことは」
「だって、今のアルドの目……まるで凶悪犯を前にする刑事さんみたい」
 生まれつきこういう目だ、なんていう冗談では誤魔化しきれない。感情の読めない真っ黒な目で彩は暫しフィアスを見つめていたが、やがて大きなため息をついた。仕方がないわね、そんな語感を含んだため息だ。
「あんまり、見せたくないんだけど……私が私である証拠、見せてあげるね」
彩は済まなさそうな顔をして真一を見た。言いにくそうに、ゆっくりと発音する。
「あのね、真一くん。悪いんだけど、その……ちょっと後ろ、向いててくれる?」
そこに、女性の恥じらいのニュアンスを感じ取った真一は慌てて彩に背を向けた。
「ありがと」
 彩はフィアスに詰め寄った。そして無言のまま、身を屈めてキャミソールのように胸元のあいたワンピースの左肩の部分のサテン切替をずらした。解けたサテンの肩紐は上腕に腕章のようにかかる。
「黒い蝶を覚えてる?」
そう言って彩の指が指した部分――露になった左胸に、羽を広げたクロアゲハのような蝶の紋章が見えた。なだらかな乳房の斜面から、谷間に差し掛かる辺りまで――丁度心臓の真上に位置する部分に、それは羽の翅脈しみゃく一本一本まで丁寧に彫りこまれていた。白黒の写真に写したように生々しく、威圧的だった。蝶の羽の下方部分はブラジャーに隠されて見えない。
 彩の形の良い小ぶりな胸に似合わない大きな蝶の模様だった。漆黒の羽を広げて、心臓を守っているように見えるし、彩の体に寄生しているようにも取れる。
 7年ほど前、彩と出会って初めてそれを目にした時、フィアスは真っ先に言ったものだった。
〝それはファッションか? それとも何かの贖罪なのか?〟
対して、彩は発音の良い英語でこう言っていた。フィアスは呟くように、当時の彩が言っていたことを口にする。
聖痕スティグマ
「うん」
フィアスの呟きに対して、彩は静かに頷いた。はにかみながら、ゆっくりとした動作でブラジャーの肩紐とワンピースの肩紐をたくし上げると、一仕事終えたように息をつく。心から安堵した表情で。
 そういえば、彩はこの刺青をひどく嫌っていたな、とフィアスは思いだした。丁度江戸時代に流行ったげいのような、自分の胸を見るたびに暗い過去を思い出さずにはいられなくなる効果をもたらすものとして彫られたのだろう。本人の意思とは関係なく挿入されたのだ。
 だから彩の目には、この見とれてしまうほどの見事な出来栄えの刺青も単なる「恥ずべき過去の傷痕」としか写らない。聖痕スティグマというよりは、烙印スティグマだ。
 そして、今なら分かる。そのスティグマを入れたのは、他ならぬ〈サイコ・ブレイン〉だということも。
「この刺青、ずっと嫌だったの。だけど、私が龍頭彩だっていう、何よりの証拠だから、今日だけはこの黒蝶に感謝しなくちゃね」
彩はそう言うと、静かに笑ってみせたのだった。

――――――――――――――――――――――――――――
「俺は、彼女が本物の龍頭彩で決まりだと思うんだけどなぁ……だって、5年前の彩と同じ場所に同じ刺青、しかも、他人の変装だけでは真似できないほどのすっげーやつが入ってたんだから」
「ああ……」
真一の意見に、フィアスは生半可な返事をする。黒蝶――龍頭彩である動かぬ証拠が出てきたにもかかわらず、彼女を龍頭彩だと認めることに、どうしても違和感があった。それをはっきりと言葉で証明できたら、と思うが、生憎その違和感は生理的なもので、視覚、聴覚などの知覚器官では説明できない類のものだった。
それでも、唯一の彼女が彩でない根拠を挙げるとしたら……。
「俺は、アヤが死んでいるのを見つけた、第一発見者なんだ」
フィアスは静かに言った。
「撃たれてからまだ数分しか経っていない状態だった。勿論、辺りには誰もいなかった。俺は誰よりも早く、彩の生死を確認した――脈拍も呼吸も完全に停止しているのを、この手で確かめた」
 決して揺らぐことのない「死」というものの存在を改めて実感した瞬間だった。言葉では言い表せない衝撃が、あとから波のように押し寄せてきた。あまりにも非日常的過ぎて涙も出ないが、後から何年にもわたって深い悲しみが心を蝕んでいく、あの感じ。
 仕事も、生活も、生きてゆくこと自体が手につかなくなることもあった。
「だから、どうしてもアヤが生きているとは、信じ難い」
 しかし脳裏にはさっきの黒蝶――彩の心臓の上で踊っていた忌まわしきスティグマが離れない。7年前に見た刺青と、大して変わりはない。フェイクだと思えないのも確かだ。
「彩が一回死んで、また蘇ったってのは、考えられねぇか?」
〝〈ドラゴン〉は人を蘇らせようとしている〟という、あの言葉に通じるものがあったのだろう、ふと真一はそんなことを言い出した。
冗談だろう、とフィアスは真一の顔を伺ったが、真一は真剣だった。
「ホンゴウ、お前のオカルト推理も2回目となると、笑えないな」
 死者が蘇るなどという馬鹿な事があったら、この世に蔓延はびこる殆どの宗教理論を覆せるだろう。しかし、到底そんなことは有り得るはずもないし、恐らくいくら科学技術が発展しようとこれからも起こりうることはない。生命に関する科学技術では、イギリスでクローン開発に成功したことが1996年に話題になったが、クローンが誕生するのと死者が蘇るのとでは雲泥の差だ。
冷静にそんなことを考えつつも、頭の片隅に真一の推理が根付いてゆくのを、フィアスは止められなかった。