一方、横浜。
現在は午後十時を回ったところ。「Sherlock Holms」なる小粋なBARの片隅で、本郷真一は今日の疲れを癒していた。
広々とした店内は、ビターチョコレート色の壁に床、ゆったりとした空間に電子グランドピアノがショパンを奏でている。肌色のライトが頭上から照らすカウンター席に座る。
 十三あるカウンターのうち、右から三番目が真一の特等席だった。カウンターテーブルを挟んで向こう側には、淡い紫の丸眼鏡を掛けた初老そこそこのマスターが白い布巾を手にグラスを磨いている。
 いつもの席に、いつものショパン、馴染みのある顔のマスターに「いつものやつ」を注文するのが真一の日課だった。
「いい加減、カクテルでも注文しろよな、真一。ここ、BARなんだから」
きっちりとしたバーテン衣装に似合わないタメ口で、マスターのルイスが白い陶器を置く。「いつものやつ」――並々と注がれたカプチーノがこんもりとした白い泡を立てていた。
「酒……飲めないもん」
不貞腐れた小さい声で言って、真一がコーヒーに口をつけた。ミルクの強いカプチーノ。それでいて味がしつこくないのは、この店特製の方法でコーヒーを入れるからだそうだ。勿論、詳細は企業秘密である。
「ガキの頃から変わんないな、お前は」
ルイスは笑う。ドイツ人と日本人を両親に持つルイスの瞳は淡いブルーだ。その瞳が僅かに細まった。遠い所を見るような眼差しで真一を見つめる。
「そういえば、真一が何でも屋についてから、何年経ったっけ?」
柄にもなく神妙にコーヒーを啜っていた真一が、片目を開けてルイスを見た。
「何だよ、唐突に」
「いや、真一がこの店に何回顔を出したかな、なんて。今ふと思ったわけよ。何回、ここでカプチーノを飲んだかな~って」
「さあな」
投げやりに答えて真一はまたコーヒーに口をつける。ショパンが人気ひとけのない静かな空間に溶け込むように流れている。真剣に耳を澄ましていると眠くなりそうなくらい清らかな音色。甘くてほろ苦いカプチーノの味は、昔も今も変わってない。
 思えば、ここの空間配置も雰囲気も光の色も、いつだって何ら変わりなくそこにあった。日々刻々と変化していく日本で、ここだけは時間が止まっているんじゃないか……そんな感覚に陥る。
「五年くらいかな」
随分長い間をおいて真一が答えたので、ルイスは「何が?」と聞き返してしまった。
「何でも屋稼業に就いてから、もうじき五年」
「ああ、もうそんなに経つのか。まだ二、三年くらいかと思っていたのに」
「俺も未成年のときにやばい仕事いっぱい回されて、たくさん警察の世話になったことが昨日のことみたいだよ」
遠い昔に思いを馳せるように、真一はぼうっと宙を仰いでいたが、ルイスは苦笑することしか出来ない。随分と荒れたティーン時代だ。五年前にこの辺りで頻繁にパトカーを見かけたのは、コイツのせいか。
「ところで、アメリカから帰ってきてから、爺さんに顔見せに行ったか?」
何の気もなくルイスは聞いたつもりだったが、真一が飲んでいたコーヒーを気管に詰まらせてむせ返った。暫くの間、真一は胸を叩いていたが、やがて、渋い顔で、
「忘れてた!」
「そうだと思った。……ってことは、アメリカから戻って、まだ一回も挨拶に行っていないのか?」
「うん」
「うわあ、こりゃあ指詰めても許してもらえなさそうだなぁ」
ルイスはからかいのつもりで言ったのだが、真一は心の底からあたふたしている。陶器から溢れた熱いカプチーノが真一の手に掛かり、真一は短い悲鳴をあげた。ルイスは思わず笑った。
「笑うんじゃねぇよ、ルイス。やっべぇな、こりゃあ……近いうちに会いに行かないと、指の一本や二本じゃ済まなくなりそうだ」
「爺さんが生きてるうちに、たっぷり祖父孝行してやるこったな」
ルイスがくっくっと笑う。頭上のライトに照らされて、顔を上げたルイスがぱあっと明るくなった。こうしてルイスの顔を見ると、四十代には見えない程若々しかった。三十代前半と言っても通じる。
 ルイスにしろフィアスにしろ、どうして外国の人間は皆、年齢が分からない顔立ちなのだろうか。真一は考え、ふっと思い出す。……そういえば、今頃、あの歩く戦闘マシーンはどうしているだろう。「何でも屋」初仕事は順調だろうか。
真一は、ズボンのポケットから携帯を取り出した。弾みで携帯のサイドボタンを押してしまい、ケータイの小窓が青く光る。
「ちょっと電話してもいいか? いいよな。どうせこの店、いつも人いないんだし」
「失礼なやつだな。一回夜じゃなく、お昼過ぎに来てみろよ。午後のティータイムを過ごす客で賑わってるぜ」
ルイスがぶつぶつ言うのを、ハイハイと聞き流しながら、真一は番号を押した。電話をし始めると、ルイスは磨いたグラスを持って、音もたてずにカウンターの奥へ消えた。ルイスはそういうところをちゃんとわきまえている、良いマスターだ。
二回のコール音の果てに電話が繋がる。初めに聞こえたのは、TVの砂嵐のような雑音だった。
「もしもーし?」
――……だ……ゴウ……か
周囲の雑音がうるさくて、フィアスの声が聞き取りづらい。電波障害でも起きているのか。
「電話、聞こえづらいけど、大丈夫か?」
《なんやねん、コイツ……ぶほっ!》
《あああ兄貴、ヤバイっすよ……!》
《……んなもん分かっとるわ、どアホ!》
ノイズのBGMに、なにやら、男の悲痛な悲鳴とか細い声が紛れ込んでいる。勿論、フィアスではない。聞く所によると二人いるらしい。
ザーザーという、雑音の後にまたフィアスが出た。
――今。取り込み中なんだが。
今度は、はっきりした聞こえの良い声だ。後ろでは、まだ男二人の悲鳴が聞こえてくる。聞いているだけでも痛々しい。この携帯にテレビ電話機能がついてなくて良かったとつくづく思う。
「……手加減しろよ?」
全ての事情が飲み込めた真一がそう呟くと、フィアスは一瞬の間をおいて、
――殺しはしない。
と応えた。それが、無感情のフィアスにしては珍しく、幾分楽しそうな声に聞こえたのは、気のせいだろうと真一は思うことにした。世の中そうやって、都合の悪いことは流していかないと、とても生きていけない。
――また後で連絡する。
「お、おう。了解……」
背後の男の大きな悲鳴が聞こえてきたが、それを切断するようにぶちっと電話が切れた。真一は額から流れ出る冷や汗を気にも留めず、電話を折りたたんでポケットに戻す。携帯のストラップがカラカラと乾いた音をたてる。
カップに口をつけながら、今の電話の内容を全て記憶から抹消して、引き続きカプチーノの味を楽しむことにした。
世の中そうやって、都合の悪いことは流していかないと、とても生きていけないのだ。