アルド


 青いにおいが鼻をついた。
 清涼感のあるにおいだ。薬草か何か……自然由来の薬かもしれない。熱い湯気とともに香ってくる。視覚以外の五感が周囲の状況を拾ってくる。薬品のにおい、エアコンの稼働音、バイタルサインのリズム、皮膚を擦る身体拘束具のベルト、呼吸器にあたる吐息の熱さ、薬の味がする。
 知らない人間のにおいがする。かなり近くにいて、その人物から青いにおいが漂っている。わずかな金属音が響く。カップがソーサーの上に置かれる音。
 青いにおいの正体は、ハーブティーだ。
 Just a minuteと告げられる。拙い発音の英語と低い声。男だ。初対面。
 椅子を引く音がして、気配が遠ざかる。すぐに誰かを連れてきた。声色から、連れてきた相手は女だと分かった。彼女からも薬草のにおいがする。初対面。
「私の声が聞こえたら、この手を握って」
女性が言った。
 彼女の英語は流暢だ。右手に触れる手を握る。言葉の表現を変えて、三度同じ質問をされた。三度、手を握る。四度目に、ベッドを起こしてもいい? と聞かれた。
 機械的に上体が起き上がった。ここは病院だろう。
 慎重なやりとりが行われた。イエスなら一回、ノーなら二回、男の手を握った。
 身体に痛みがあるか、気絶する前のことを覚えているか、声が出ないことは本当か、ということを女性が聞いた。意思疎通も兼ねた問診がひととおり終わると、彼女はほっと息を吐いた。
「これから拘束を解きます。医療処置を行う間、眠ってもらえると嬉しいのだけど」
男の手を一度握ると、すぐに視界が暗くなった。

 身体の軽さとともに目が覚めた。ゆっくりと腕を持ち上げて、肩のあたりを触った。足も動いた。頭は冴えていて、心は静かだ。視界を覆っていた包帯が取り外されて、片目が使えるようになった。病衣をまとった胴体から視線を外して、側に立つ二人組を見た。
 かなり大柄⁠⁠な若い男性と、小太りの高齢の女性。
 男性は茶色い短髪に青い瞳、緑色のトレーナーにジーンズ姿で、スニーカーを履いている。
 女性はパーマのかかったセミロングの白髪にヘーゼルの瞳、花柄のワンピースの上に白衣をまとい、黒いサンダルを履いている。
 二人とも⁠⁠北欧人種だ。共通しているのは、穏やかな眼差し。草食動物に似た目で、こちらの洞察が一通り終わるのを待っている。
「自己紹介をしてもいいかしら」
 女性が穏やかな声で言った。
 返事をしようとして、言葉が詰まった。
 仕方なく、頷きを返した。
「私はエルザ。科学者よ。遺伝子学の研究をしているの。彼は助手のイズン。優しい子よ。研究に必要な材料を手配してくれたり、身の回りの世話をしてくれる。私たちは、普段、ドイツにいるの。五日前に来日して、貴方の目覚めをずっと待っていた」
流暢な英語で説明するエルザの後ろで、イズンもうんうんと頷く。
 エルザ。その名前は聞き覚えがある。ドイツの遺伝子学者。フィオリーナの友人だ。凛が採取した血液を送った相手⁠⁠、先天遺伝子の生物兵器をシドに送った相手でもある。
 自己紹介を終えると、ヘーゼルアイが近くにあったパイプ椅子を見た。すかさずイズンがベッドの前まで引いてくる。
 足が悪くて。座らせてちょうだいね、と腰を下ろす老女を青年が補助する。長く連れ⁠⁠沿っているのか、息が揃っている。
「ハーブティー、飲まない? イズンのいれるお茶はとても美味しいのよ」
 穏やかに微笑みかけるエルザに、なんとなく頷く。
 イズンがてきぱきとした動作で、お茶をいれる準備をする。改めて室内を見回す。とても広い⁠⁠部屋だ。おそらく病院の個室。シンクがついていて、壁に花の絵が飾ってある。
 電子コンロを使って、イズンはお茶を沸かした。ハーブの良い香りが部屋に充満する。
 お茶を待つ間に、エルザから簡単な近況を聞いた。「意識の断絶」が起きて、なんと一週間が経過していた。気を失ってすぐこの病院へ担ぎ込まれた。エルザたちが到着するとともに精密な身体検査が行われた。胸に溜まった血を抜いて、腕に埋まった弾丸が除去された。外科手術はそれくらいで、戦いで負った怪我は全快していた。
 ここは市民病院だけど、間借りしているだけみたい。医者も事情に通じていたから、彼女の息が届いた人たちだったのね、とエルザは言った。
 腕を持ち上げ、銃弾の埋まっ⁠⁠ていた箇所を見る。手術痕は薄い痕になっているだけだった。後天遺伝子⁠⁠を発動させなくとも、普通の人間に比べて怪我の治りが早い。
「脳にも異常は見られなかった。変形していないから大丈夫よ」
エルザは同情的につけくわえた。
「全身拘束は、やり過ぎよね」
 イズンが三人分のティーカップを運んできた。
 飲み物を口にする。清涼感を漂わせながら熱く喉を通る。確かに美味しい。
 イズンと目が合う。澄んだ眼差しで、うんうん、と熱心な頷きを返してくる。
「貴方のこと、なんて呼べば良いのかしら?」
お茶を飲みながら、思い出したようにエルザが言った。
「ライニー? アルド? お友達は、別の名前で呼んでいたわね」
 カップをソーサーに置く。口を開くが言葉が出ない。名乗るべき⁠⁠名前に逡巡⁠⁠する。名前をたくさん持っている。偽名も使い分けている。その中から、何を選べばいい。
 ベッドの周りに目を走らせながら、ライニーは少し嫌だな、という思いが脳裏をよぎる。「少し」というか「微妙に」嫌だ。
「アルドサン」
イズンが言った。日本語で。
「アルドサン、ヨロシク」
母語とは違う発音をするのが、彼には楽しいようだった。
 アルドは頷いた。

 エルザはノートパソコンを持ってきてくれた。
 ベッドの上にとりつけたテーブルの上で、テキストアプリを開く。
 着替えがしたいのですが、と空白のページに英文を打った。着替えがあるかは分からないが。
 ネックレスみたく首元にぶら下がっている眼鏡をかけて、エルザはパソコンに表示された文字を読んだ。
「良いわよ。アルドの私物はクローゼットの中。イズンを残していくわね」
 椅子の肘掛を掴んで、震える腕で立ち上がるエルザにイズンが寄り添う。彼女が部屋を出ると、アルドは慎重に身体の動きを確認しながらベッドから降りた。目眩やふらつきに備えて、イズンが腕を取ってくれる。心配ない、と合図をしてクローゼットへ向かう。
 クローゼットの扉を開くと、笹川邸に⁠⁠残し⁠⁠ていった私服の半分⁠⁠ほどがハンガーにかかっている。スーツはない。
 病衣を脱ぐ。⁠キャビネットに取り付けられた鏡で、自分の身体を確認する。傷だらけだ。胴体を中心に撃たれたり刺されたりした痕がある。どれも塞がっているとはいえ、色素が沈着していたりケロイド状になったりしている。縫合した痕も二、三個ほど。タトゥーを入れる隙もない。
「ボクモアリマス」
イズンが右腕についた長い手術痕を見せる。
「バトル」とつぶやき、悲しそうな顔をする。
「バトル、カナシイ」
 ――君は助手じゃないのか? エルザのボディーガード?
 PCで打った文字を見て、イズンは口ごもる。答えあぐねているのか、英文の読解が難しいのか、英会話が難しいのか。青い目で画面を凝視し、考え込んでいる。
 オックスフォードシャツとジーンズ、紺色のセーターと靴下をベッドの上に放る。クローゼットの引き戸に、左耳から外れたシルバーリングが見つかった。身につけるものはそれくらい。
 ドイツ語で、続く文字を打つ。
 ――答えたくないなら⁠⁠、別に良いけど。
「ぼくは科学者の卵」とドイツ語で、イズンは言った。
 着替えながらアルドは頷く。
「ぼくは、二十八歳。お医者さんからは、十四歳くらいって言われてる。ぼくは頭が良くなりたい。だから、エルザのところで修行してる」
 なるほど、とアルドは頷く。
 うんうん、とイズンも頷く。
 ふと思い出したように、「ニッポンのお茶、おいしいね」とイズンは言った。
「グリーンティー。とてもおいしい。アルドさんは好き?」
 どうだろう。ジーンズを履いて、シャツのボタンを閉じながら考える。そんなに飲まないな。
「アルドさんはコーヒーの方が好き?」
 そうだな、とアルドは思う。
 コーヒーの方が好きかもな。砂糖もミルクも入って⁠⁠いないやつ。
「アルドさんはブラックコーヒーが好き」
 また不思議な⁠⁠人が来た⁠⁠な……。靴下を履きながら思う。自分が呼んでいるのか。集まりやすい場所にいるのか。集まりやすい時期なのか。偶然と片付けるには無理がある。
 深く考えるのはやめよう。
 しょうがない、と良い意味で諦められるようになった。
 ⁠⁠普通の人間とは違う。彼らは存在するのだ。自分が存在するように。
 髪を整えて身支度を終えると、まあまあ普段の自分に戻った。
 怪我人にも病人にも見えない……左目にかかった、眼帯以外は。
 そっと目元に触れてみる。痛みはない。眼帯を少しだけめくってみる。
 左目はガーゼに覆われ、テーピングされている。
 テープを剥がしかけたところで、イズンに止められた。
 エルザが来るまでお預けらしい。
 イズンがエルザを呼んできた。私服に着替えたアルドを見て、あらまぁ、と老女は穏やかに驚⁠⁠いた。
「ルディガーと瓜二つ。本当にそっくり。違うのは眼鏡くらいかしら」
そこまで言われると、眼鏡をかけてあげたくなる。今、かけているのは眼帯だが。
 左目を指差すと、エルザは思い出したように頷いた。そう、その話。
 シワのよった細い腕を伸ばして、眼帯を外してくれる。テーピングされたガーゼも外す。
 突くような痛みを感じ、左目を細める。蛍光灯の光のせいだ。白飛びしていた左の視界が、徐々に色彩を取り戻す。両目でエルザを見る。機能的におかしなところはない。
 クローゼットに引き返し、扉についた鏡で顔を映し出す。
 左目の虹彩は紫色に変わっていた。
 右目と同じ明るさの、バイオレット。
 心配そうにこちらを見るエルザと鏡越しに目が合う。
 振り返って、肩をすくめる。
⁠⁠ 例え発声できたとしても、なんとも言えない。
「後天遺伝子の侵食は止まった。それは後遺症……いえ、証だと思うの」
 実感の湧かないまま、頷いた。
 紫色。
 感想はそれだけだった。
 眼帯を受け取って、左目につけ直す。
「ラベンダー。とても美しいハーブ」とブルーアイの男性が言った。
「あまり気に病まないでね」とヘーゼルアイの女性が言った。