上階は障害物だらけでロングガンを扱えない。情報を正宗に伝え、ハンドガンに持ち替えさせた。
 正宗はここに来るまでに、ライフル弾をほぼ使い切っていた。タイミングが良いのか悪いのか、あっさりと弾切れの小銃を放った。
 踊り場の鉢植えにカービン銃を隠し、フィアスもハンドガンを取り出した。PCで見た店内マップを思い出す。七階は玩具売り場と書店が半々のスペースを取った雑貨のフロアだ。入り口で二手に分かれてクリアリング。ネオを見つけたら挟み撃ち。見つからなければ、吹き抜けの中央部で落ち合うことにする。
 八階が建物の最上階だ。ネオがいるのは、このフロアか一つ上。あと一歩で追い詰める。
 バリケードを抜け、倒壊した家具をまたぎこす。フィアスは書店側を、正宗は玩具売り場を請け負った。電灯が切れたフロアは薄暗い。穴が開いた家具の隙間。さきほど隠れた死角へと目を向ける。少女の姿はない。Save you. 今一度、その死角に身を潜める。彼女はどこへ行ったのだろう。
 心臓の震え。逆立つ産毛。迸る怒り。
 停止したエスカレーターをゆっくり降りて、先天遺伝子が現れた。ネオだ⁠⁠、と彼から発する体臭を嗅ぎつけてフィアスは判断する。
 ネオもまた、ドミノ倒しになった本棚の裏へ身を潜めた。エスカレーターを降りてから死角に身を潜めるまでの時間は突風のように素早かった。正宗は気づいただろうか。
 フィアスも本棚の裏側へ素早く移動する。タイミングを測って、敵との距離を⁠⁠じりじりと詰める。安定した呼吸の間隔、静かな鼓動、感情と理性を伴った判断力のある動き。ネオは余裕綽々だ。彼の身体は、自分の身体と真逆の反応を示している。
 先天遺伝子は後天遺伝子を駆逐しない。
 本能に振り回されず、並外れた戦闘力を使いこなす。
 ふりだな、とフィアスは考える。前方へ意識を集中させながら、繰り返す。ふり、不り、不利……。
 ネオは先制しない。こちらの出方を待っているのか。正宗に襲撃を伝えるか。
 瞬間、赤い視線が外れた。ネオは書店から飛び出すと、勢いをつけて手すりを蹴り上げ、中央の吹き抜けを飛び越えた。動物的な跳躍。そのまま、玩具売り場へ姿を消す。
「マサムネ!」フィアスは叫び、銃を構えて走り出す。ネオのような曲芸はできない。吹き抜けの外周を回って玩具売り場にたどり着く。
「マサムネ! にげろ!」
 店の奥で数発の銃声。小型拳銃の軽い破裂音。重厚な45口径の爆音。正宗の怒声。
 鼻を突く血のにおいは、先天遺伝子のものではない。防壁みたく乱立したラックを抜けた先に少年の背が見えた。銃を構え、何発かお見舞いする。少年も銃を放つ。二つの弾丸が、火花とともに空中で砕け散る。金属と金属がぶつかりあう鋭い音。鉄が焦げるにおい。フィアスは右腕で額をかばう。ネオの反撃は予想通り。強い衝撃が額をかばう右肘の骨を撃ち砕く。
 右腕が受けた痛みと同時に、左手の銃が火を吹く。ネオの小型拳銃を、バレルごと吹き飛ばした。
 丸腰になった今がチャンスだ。連射の追撃⁠⁠。しかし、右なりに避け⁠⁠られる。反撃をかわしながらナイフを引き抜⁠⁠くネオ。⁠⁠攻撃態勢へ変わる、わずかな隙をつい⁠⁠た銃撃を⁠⁠、子供は左腕で受けた。
 盾にした左腕は、食い込んだ弾丸ごと皮膚がくるみ、瞬時に回復した。肉を切らせて骨を断つ。攻撃行動に移るための犠牲は想定内だ。床を蹴って、一気に⁠⁠間合いを詰めてくる。
 ネオの額に⁠⁠発砲する。その弾丸はナイフ⁠⁠に弾かれた。散弾のように飛び散る金属片。超人的な神業に気を取られない。連続射撃の一つがネオのこめかみをかすめた。
 先天遺伝子の血飛沫が、後天遺伝子の攻撃力を倍加させる。
 巧妙に作られたレプリカが、本物と差異ない強さに変わる。
 人間性と引き換えに。
 ネオは退いた。書店へ逃げ込み、倒壊した本棚の影へと身を潜めた。
 一時休戦だ。フィアスは盾にした右腕に触れる。思いの外、出血が少ない。弾丸が貫通せずに出血を止めている。アドレナリンで無痛状態のまま、被弾した右腕を新たな表皮が覆う。骨に刺さった弾丸を取り出せない。動きはするが違和感がある。そんなことはどうでもいい。
 周囲を見回すと、レジカウンターから突き出た足が見えた。微かな呻きが聞こえる。
 正宗は右手で顔を押さえた。その手から太い血が垂れている。これまでにないほど口汚い罵りは、唇に伝った血を吐き出す瞬間だけ治まった。
「怪が、見せろ」
 右手を外す。彼は右頬を撃たれていた。頰骨に当たって弾道が逸れはしたものの深い傷だ。
 顔以外に、外傷は見当たらない。あれだけの死闘を天性の勘で切り抜けるとは。
「しぶといな、ドラゴン」
フィアスは安堵の息を吐く。
「ガキに殺られる俺じゃねぇ」
正宗も苦々しげに笑う。
「どうだ? 俺はまだ男前か?」
「わるくない」
 手元に転がった1911を掴む。
「かりるぞ、これ。一じ退きゃくしろ」
「あ?」
「いちじたいきゃく」
 研ぎ澄まされた五感が伝える、ネオが潜んでいる場所を。
 フィアスは道を引き返しながら、左手の愛銃で本棚の一角を撃つ。
 その衝撃で、収納された本がばらばらと落ちる。
「ネオ!」
 正宗から借り受けた銃でも威嚇発砲。本が飛び散る。
「ここで、おわりだ」
 フィアスはネオのいる位置に向かって交互に銃を撃つ。本が弾け、綴じられたページが散乱する。高らかに舞う紙片を切り裂き、赤い目の少年が現れた。本を蹴散らして、大きく飛躍する。すばしこい彼に向けて、銃弾を放つも当たらない。ジグザグに地面を滑って間合いを詰めてくる。
「ライニー!」
下方、振り上げたナイフを避ける。右手の1911がネオの飛び退った床に穴を開ける。
「ライニー!」
にっこり微笑だまま、横滑りに切り込む刃。一歩退いた間をネオが詰める。
 右手の銃撃を避けて跳躍。左手の銃撃をかわして跳躍。この鳥を撃ち落とすのに弾丸は遅すぎる。振り下ろされたナイフが肩先を掠める。一歩退けば一歩詰められる。刃先を見切って交わす。銃弾は残像を撃ち抜くだけ。発砲の隙にネオは次の行動に移っている。ネオが見切っているように、こちらもネオの動きは見切れる。しかし、反撃の隙がない。
 技巧的に振りかざす刃先を避けるだけで精一杯だ。
 ネオの戦い方はフィオリーナと同じ。滑らかな動きを用いた近接術。彼のメインウェポンは銃ではない。ナイフに切り替えてから、水を得た魚のように⁠⁠生き生きとしだした。避けたと思った刃先が胸元を切り裂⁠⁠く。浅い傷だ。間一髪で交わしたものの、浅い裂け目が身体中にできている。動脈を裂く致命傷を受けるのも時間の問題だ。
 背後から何かが飛んできて、ネオもフィアスも身を交わした。不協和音を轟かせ、二人の間に玩具のピアノが落下する。僥倖ぎょうこうの間合いにフィアスはネオを銃撃しながら退却する。ピアノを投げつけたのは正宗。彼らしいトリッキーな合いの手だが助かった。
 ネオの注意が⁠⁠再び正宗に⁠⁠向いた。
 第三者の横槍に子供らしく苛ついたと見えて、玩具売り場に走っていった。
 フィアスは書店のレジカウンターに潜り込む。
 正宗のやつ、一時退却といったのに。
 相変わらず聞き分けが悪い。今度こそ殺されるかもしれない。
 毒づきたくなる気持ちを抑え、周囲に視線を走らせる。⁠⁠彼が時間を稼いでいる間に、見つけなければ。
 ここにあるはず⁠⁠の、目当てのもの⁠⁠を。
 レジスターの下に、備品が入ったキャビネットを見つけた。上から順々に引き出しを開けて、中身を漁る。一番下の棚に見つかった。フィアスはそれを取り上げる。
 ええっと、この丸いものは……名前が思い出せない。まあいい。粘着性のあるそれをぐるぐると両手に巻きつけて、銃と手を固定させる。ネオの戦法はフィオリーナと同じ。それならば、対処法がある。
 フィアスは書店を抜けると、ネオの消えた玩具売り場へ引き返した。血のにおいはしない。正宗は逃げ回っている。まだ生きている。
「ネオ!」大声で宿敵の名前を叫ぶ。
「ひょう的は、おれだろ!」
動きが止まった。
「ちょっと待っててよ!」
店舗の奥から、焦りを帯びた声がする。
「今、良いところなんだよ!」
不満げな声は、熱中していたゲームを取り上げられた子供と同じ。ふてくされている。殺し合いを抜きにすれば、玩具売り場にお似合いの声だ。
 フィアスは両手の銃を握りしめる。
「フィオリーナを、さがしにいく。おれと、あそぶ気が、ないのなら」
「それはダメ!」
玩具売り場からネオが飛び出した。それはダメだよ、ライニー! 言い終わる前に、小さな身体に向けて弾丸を放つ。当たるとは思わない。接近戦からが本番だ。彼の振るう刃先を避けて、銃弾を見舞い……固めた拳をぶつける。
 当たった。握り拳がネオの肩先に命中した。
 銃撃と拳闘を合わせた、無茶苦茶な戦い方。素早い体術を食い止める唯一の方法。フィオリーナと戦った時と同じように、柔らかな身体が重い拳に打ち負かされた。
 子供は数メートル先まで吹っ飛んだ。落ちたところを狙って、銃弾を打ち込む。数発が確かに当たった。
 フィアスはネオのもとへ駆ける。血の染みたカーペットが続く長い廊下の先で、子供が仰向けに倒れている。額を撃ち抜いた感覚はなかった。身をひねって、ネオは追撃を免れた。床に飛び散った先天遺伝子の血。
 身体の疼きと精神的高揚感。彼の血に後天遺伝子が反応する。理性の半壊、攻撃力の倍加。
 ネオは床を蹴って飛び上がる。⁠⁠空中でナイフを振り下ろ⁠⁠す。難なくかわして、もう一発。銃撃から拳闘へ。拳を交わしたネオに向けて、片手から発砲。彼の腹部に穴が空く。弾かれた衝撃を動力に、ネオは両手で受け身を取る。両腕をバネに後方転回しながら距離が開く。
 フィアスは後を追う。彼の向かった先は、書物の散乱した書店。好機だ。今度こそ仕留める。人間性を⁠⁠弾丸に込めて。
 倒壊した書物の中へネオは逃げ込む。暗い影へ銃弾を見舞う。飛び散る紙片。弾ける書籍。ここまででかなりの弾薬を消費した。残弾数は……頭の中でカウントしていた数が消えた。残り何発だ? 数字を思い出せない。数の概念は残っている。概念……がいねんって、なんだ?
 宙に舞う、数多の紙。白い紙に書かれた文字。それらを切り裂いて、ネオが現れる。同じように発砲……する前に右手に貼りついた1911へナイフを突き立てられた。ほぼ同時に、小さな手に左手首を掴まれた。子供の力とは思えないほどの怪力で、銃身をそらされる。
 S&Wから放たれた弾丸はネオの肩先を掠めて、壁にかけられた時計を割った。手首を握る手がぎりぎりと音を立てる。否、音を立てているのは⁠⁠右手のナイフ? あるいは、自分の奥歯だろうか。
 天使のようなネオの微笑みと、獣の歯がみに近い自分の笑い。拮抗きっこうしたまま、時の流れが止まる。それは数秒? 数分? 数時間? 体内に流れる時間を把握できない。
 唸りに近い声で、⁠⁠フィアスはつぶやく。⁠⁠てめぇを、殺す。絶対、殺す。今すぐ、ぶっ殺⁠⁠してやる。⁠⁠感情から放たれた言葉じゃない。⁠⁠言語も曖昧な、どこかで聞いた誰かの台詞。ただの反射だ。感情や思考にモヤがかかっている。後天遺伝子の強烈な支配が始まっている。
 生まれつき赤い、ネオの目を睨み続けながら、フィアスはぼんやりと思った。
 ……この感覚。知ってる。
 胡乱な恍惚。
 禁煙を破った時に生じる、あの感覚。
 ⁠……に、近い。
「獣に殺される僕じゃない」ネオは笑いながら答えた。
「僕は人間だ。君とは違う」
「ちが、わない」
「猛獣使いと猛獣くらい違う。全然違うよ、ライニー」
「……」
フィアスは笑った。赤い目で。何を言うべきか思いつかなかった。猛獣使いと猛獣くらい違う。ネオの言葉の意味は理解できる。
 しかし、その言葉に返答することができない。意思疎通の基盤である、言語能力が著しく低下している。
 思考がもがいて掴んだ言葉は、強烈に刻まれた記憶の断片。
 あの日あの場所で耳にした台詞が、ふいに口をついた。
「おたがい、にんげんの、ふりは、よそう……ぜ」