科学館のアジトは今日も静まり返っていた。
 手入れされていない庭先の花壇や樹木。施設全体を覆い始めたツタ科の植物。それらが廃墟に見えるこの建物に拍車をかけている。
 本来は市から雇われた清掃員が衛星えいせいを保っているそうだが、フィオリーナの根回しか、テロ事件の影響か、役人も職員も一度も見かけたことはない。
 二人を出迎えたシドは、かなり疲弊している様子だった。連日の睡眠不足が、目の下のクマや覇気のない喋り方に現れている。
 コンピュータールームのデスクには空のコーヒーボトルが十二個散らばっている。マグカップにおいては、手持ちの六個をすべて使い果たし、机の隅に汚れたまま放置されている。
「日中、眠る時間はあるんだ」
大きな両手で顔をごしごしこすり、シドは言った。
「午後三時から六時の間。彼女の動きを解析して、攻撃の止む時間が分かった。たぶん、俺が眠る時、彼女も眠りに就くのだろう」
あいにく夢の中では会えないけどな、とシドは疲れた声で笑った。
「赤目側は、大人しく彼女の目覚めを待っているわけじゃないだろう?」
「ああ。一度だけ三時から六時の間に襲撃している。警察側の捜査で言うと、四回目の事件だな。あれはコンとヨンのみの犯行だ。警察は、今回はり方が違うと言ってなかったか?」
 フィアスは先週末に起こった事件を思い出す。野毛で起こった射殺事件。日の暮れかけた飲み屋街で、いきなり通行人の頭が吹っ飛んだ。周囲はパニックに陥った。シドの言う通り、白昼堂々と目立つ場所での犯行は初めてだと警察も色めき立った。その前の事件は、すべて目立たない場所で行われていた。
 おそらく「狩り」のやり方はこうだ。
 先天遺伝子を持つフィオリーナが赤目を人気ひとけのない場所まで誘導する。あらかじめ三人で取り決めたポイントがあるはずだ。その場所へ誘いこんだら、ほとんど「狩り」は終了したと言っていい。わずかな会話のやりとりはあるかも知れない。意思の疎通が出来なければ、コンとヨンが頭を吹き飛ばして終わり。
 フィオリーナは使用済み弾薬を一つも見逃すことなく持ち去っている。その四回目の事件では、狙撃手コンビは凶弾を持ち去らなかった。警察側は彼女たちの使用銃を特定したようだが、それは主に狩猟用で使われる、日本で人気の高いライフル銃の一つだった。コンが愛用しているロシア製の銃と製造国も操作系もまったく違う。犯人は狩猟免許を持つ者、あるいはクレー射撃選手の可能性。または模倣犯もほうはんの可能性など、警察の捜査は横道にれた。煙の巻き方としては悪くない。
 しかし、犯行を繰り返せば繰り返すほど、警察は彼女たちを追い詰める。被害者の目はどうして赤いのか。その秘密についても、駑馬十駕どばじゅうがの努力でいつかはたどり着くかもしれない。
「観測を変わろう」とフィアスは言った。
「寝室で寝てこい。熊みたいなあんたが、突然ぶっ倒れたら迷惑だ」
「そりゃ、ありがたい話だが、お前の仕事はどうする? 事件現場はもう一箇所あるんだろ?」
「現場観察はもういい。それよりも、深夜の行動に重点を置こう」
 元からそのつもりだよ、と去り際にシドは言った。
 フィアスは周囲に散乱したコーヒーボトルの山を片付け、マグカップを洗った。熊の巣穴のようなコンピュータールームはシドの香水と体臭が混ざり合って鼻についた。まったく、今日は激臭にやられっぱなしだ。消臭も兼ねて吸い込んだ紫煙を吐き出すと、隣で真一が派手にむせた。
 禁煙! き・ん・え・ん! と繰り返しながら、壁に貼られた「No Smoking」の紙を指差す。
 フィアスは天井を見回す。間借りするときに取っ払ったのか(シドも苛ついたときには喫煙をする)、ここには煙探知機がない。
「俺の方が肺がんになりそう。副流煙で」とぼやきながら真一は予備のスチールの椅子を引っ張り出す。フィアスの隣に腰を下ろすと、コーヒー染みのついたデスクに頬杖をついた。
 二人はしばらく横浜市内の俯瞰動画と、ありとあらゆる場所に設置された監視カメラの映像を追っていた。
「さっき、深夜の行動に重点を置くって言ったよな」
やがて、ぽつりと真一が言った。
「あれはマジの話?」
「マジだ」フィアスは灰皿がわりの、水を汲んだペットボトルに灰を落とす。
「不満そうだな」
「不満というか、危ないじゃん。単純に。間違って狙撃されたら一発でゲームオーバーだぜ」
「コンの場合は暗視スコープナイトビジョンで見分けられる。フィオリーナも発達した五感で俺の気配に気づくだろ」
「そんな楽観的な……」
 うーん、と真一は頭を抱える。

 これまでに一度、フィオリーナの行方を追ったことがあった。
 たまたまシドが赤目側の不審な動きを観測したのだ。連絡を受けてフィアスと真一は銃撃現場に駆けつけた。しかし、到着した時には地面に転がる赤目の死体があるだけだった。
 フィアスは笹川組のつてを借りて、「始末屋」に連絡を取った。日が昇るまでにこの死体を片付けて、戦いの証拠を隠滅して欲しい。陰気な顔つきの「始末屋」は無言で頷いた。そして、煉瓦れんがのような札束と引き換えに、跡形もなく死体と大量の血、コンクリートを擦ったライフル弾の銃痕を消し去った。この一件は警察にもマスコミにも嗅ぎつけられていない。
 翌日、拠点を笹川邸からこのアジトに移した方が良いのではないか、とフィアスは提案した。
 笹川邸の無数にある部屋のいくつかを間借りし始めて数日経った頃だった。
 あれから赤目の殺人事件をはじめとする様々な出来事が発生し、笹川邸から暇乞いをするタイミングを失っていた。
 元々、茜を保護してもらう目的で笹川組にやってきたのだし、俺のような別組織の人間が関わっていることが敵対勢力に知れたら面倒事にならないか。いちばん重要なのは、アジトのコンピュータールームからフィオリーナの動きを見止めたらすぐに出動できるだろ、というのがフィアスの言い分だった。
「馬鹿言うな。ここは神奈川県の外れにある、森の中の科学館だぞ」とシドは言った。
「赤目が出没しているのは横浜市内だ。こんな僻地へきちに腰を据えたら、横浜にたどり着く前にフィオリーナは仕事を終えて立ち去っている。お前の言い分も分かるが、当分はヤクザのご厚意に甘えても良いんじゃないか?」
ヤクザのご厚意、という日本語が面白かったのか、語尾はシドの笑い声で滲んだ。
 それに、とシドはつけくわえた。
「それに、龍頭親子が再会したんだよな? 親子の交流に水を差すような真似をするなよ。関係は良好なんだろ?」
「ああ、多分……」
「多分ってなんだよ。フィアスの観察眼は、凛のこととなるとまったく当てにならないな」
真一くんはどうだ? と意見を求められ、真一は曖昧に笑う。実のところ、真一にも凛と正宗の関係はよく分からなかった。真一の曖昧な態度にシドは気づいていないようだ。ラテン系らしい陽気さで家族は何よりも愛すべきものだと思っている。
 フィアスもシドが提示したいくつかの要素を混ぜ合わせ、現段階での最適案は笹川邸にとどまることだと納得したらしい。
「すまないが、しばらく世話になる」と真一に向かって改めた。
「俺たちのことで、笹川組が敵対勢力や競合相手から不利になることがあったら教えてくれ。微力ながら力を貸す」
「お前の場合、微力じゃなくて、戦力過多だろ」と真一は笑った。
「変なところで律儀りちぎだよな。うちのじーちゃんは固いことはなしって言ってたぞ。そもそも笹川組の本部は町田にあって、他の組織と持ちつ持たれつで上手くやってるから大丈夫だよ。お前も肩の力を抜いて、俺の実家でだらだらしようぜ」
「だらだらはしない。仕事をする」
「えー、一日だけで良いから、一緒にゲームする日とか作らない? 今、スマホで流行中のサバイバルゲームがあるんだ。四人プレイで軍隊を作って、戦争を勝ち抜いていくやつ。凛と茜も誘って、みんなでやろうぜ」
フィアスは苦笑した。
「そのゲームなら、現実でやってるだろ」

「さっきまで尾行されていたんだが、気づいたか?」とフィアスは言った。
 監視カメラの映像を見ながら、世間話をするような話しぶりだ。真一は驚いて後方を振り返る。ブルーライトが放射する室内。開け放たれたドアの向こうに無人の廊下が続いている。
 こんなところまで来るわけないだろ、とフィアスは呆れ顔で答える。
「もちろん、アジトに到着する大分前にいた。尾行の仕方が上手かったから刑事部のベテランだな」
「えっ、警察? なんで俺たちを尾行するわけ?」
「怪しいからだろ。素性の分からない人間が、警察官を装って連続殺人事件の現場を嗅ぎまわっているんだ。正体を探られても仕方ない」
 刑事はまだ良いとして、公安警察にマークされると厄介だ、とフィアスはつけくわえる。
 「ハム太郎ども」と荻野刑事が嫌味混じりにボヤいていたことを思い出す。
 対テロ組織の行動は、警察内部の人間ですら知らされていない。荻野刑事は嫌悪を抱いているらしい。隠密行動を行う警備部は、派手な捜査網を敷く刑事部の人間からすると、薄気味悪く映るのかも知れない。
 公安警察は民間人と結託して情報を仕入れてくる。数年単位で証拠を集めながら、虎視淡々と反国家勢力壊滅の隙を狙う。<サイコ・ブレイン>テロ組織との関わりを嗅ぎつけられれば、執念深く追い回してくること必至だ。
 マジかよ……とショックを受ける真一。これまでに何回も尾行されていたぞ。全部撒いたけどな、とフィアスの話を受けて、暗い眉をますます潜める。フィアスは洗ったマグカップを二つ手にすると、インスタントコーヒーを適当に注いでデスクに置いた。部屋にあるゴミ箱にコーヒー粉が入っていたであろうガラス瓶が大量に捨ててあった。致死量、という言葉が思い浮かぶほどの量だ。
 コーヒーをすすりながらフィアスは続けた。
「どこの国の警察も仲間意識が強いんだ。異分子を見つけると排除したがる。自分なりの善悪で仕分けて、見分けがつかなくても排除。閉ざされた組織のさがだな。現段階では、俺たちを敵か味方か見分けようとしている最中らしい。あいにくだが、俺の組織も、お前の笹川組も、警察に尻尾を掴まれるわけにはいかない。そういった理由もあって現場観察を打ち切ることにした」
「なるほどね」と真一もカップに口をつける。
 フィオリーナとリアルタイムの鬼ごっこは危険極まりないが、警察が嫌疑を掛けているのであれば別の方法を取らざるを得ない。
「お前も警察時代は異分子だったわけ?」からっとした笑顔で真一は聞いた。
「変わってるもんな。クレイジーとか、ファニーとか言われなかった?」
「失礼を通り越して、すごいことを聞くな。お前も異分子だろ。笹川組からすると」
「あ、そうかも! でも仲良いよ。俺とヤクザ。慶兄ちゃんなんて、俺が何でも屋を始めた頃は、毎週のように遊びにきてくれたしさ」
「野垂れ死んでないか確認しに来たんだろ」
あれ? そうだったのかなぁ? と真一は宙を見る。
 そういえば、毎週大量のご飯を作ってきてくれたような……と独りごちて、あはははは、とごまかすように笑う。思い当たる節がいくつもあったらしい。
 「さぞかし手の焼ける若様だったんだな」と追い討ちをかけると、真一は聞こえないフリをして、ディスプレイを仰いだ。