アジトに着くと、シドの出迎えはなかった。
 扉を開けて中に入る。彼は中央のスツールに座っていた。組み合わせた両手に額を置いて、思案か悲嘆に暮れていた。
 空の目から一部始終を見ていたシドに、詳しい説明は必要ない。フィアスはコンピュータールームに行き、GPSの三点が消えているのを確認した。フィオリーナと組織を繋ぐ接点は消失し、ただ横浜の上空写真だけが残された。フィオリーナと狙撃手たち。チームを組んだ彼女たちは、街を襲う赤目を潰しながら、ネオの拠点を探す。
 そして心中するために説得をする。
 まったく、大した英雄ぶりだ。
 一階に戻ると、フィアスは意気消沈している大男に向かって言った。
「らしくない静けさだな」
 瞬間、浅黒い拳がアルミ質のテーブルを殴りつけた。
 科学館のフロアに轟音がこだまする。
 隕石が落下した痕のようにべっこりと凹んだテーブルに手をついてシドは立ち上がった。
「お役御免だ」
 赤茶色の目が、睨むようにフィアスを見据える。
「武者のいない影武者などに価値はない」
「自殺でもするのか?」
「お前と一緒にするな。俺は灼熱しゃくねつの大地で生まれたラテン系だぞ。そんなジメジメした思考回路は、生まれる前に蒸発してるさ」
大男はコンピュータールームからノートパソコンを持ってきて、ディスプレイを開いた。衛星からの俯瞰映像が表示されている。
「追跡を断ち切られたのなら、目で探すだけだ。これから俺はディスプレイに貼り付いて、フィオリーナを探す。赤目の動きもチェックする。奴らの現れるところに彼女たちも現れるだろうからな」
 地上の目もハックしておかなければ、とシドはごちる。衛星からの捜索に加えて、街中のいたるところにある防犯カメラや監視カメラも見張るようだ。
 途方もないしらみつぶしだが、現状フィオリーナを見つける方法はそれしかない。
 進展があれば連絡する。いたちごっこになるかも知れないが、どうにか追いついてくれ。シドがキーボードを叩きながら言った。
 巨大な背中は、なんとしてでも上司を探し出すという執念に燃えていた。
 シドは彼女の意思を尊重しようと思わないのだろうか。その行動は素早く、躊躇ちゅうちょがない。内心でどう思っていたかは知らないが、彼はどんなときもフィオリーナに付き従ってきた。命懸けであろうとささやかであろうと、彼女の命令を黙々とこなしてきた。今回もリーダーの鉄の意志に従うかと思いきや、真っ向から対立している。彼の動きを意外に感じた。
 思ったことを口にすると、「それが本当に価値のあることならばな」とシドは答えた。
「八対二。フィオリーナの行動は止むを得ない苦肉の策だ。せないことだが、彼女はその身を犠牲にしてお前を守りたいらしい。ところがお前は、彼女の庇護ひごを破って任務を遂行したがっている。これほど無駄なエネルギーの使い道があるだろうか。同じ炎が燃えるなら、大木よりその枝葉を、まきにくべた方が経済的だ」
なるほど、とフィアスは頷いた。
「合理的な考えだな」
「合理的なんてクソ食らえだ」とシド。
「そんな皮算用で動くわけがないだろう。俺はもっと大きな、神意しんいに適ったことをやっている。彼女は犯罪社会の太陽。常闇とこやみを照らす唯一無二ゆいいつむにの光だ。一人の人間のために消滅して良い存在ではない。そんなものは宇宙の法則に反している。彼女が許しても、この世界が許さない」
 神意、太陽、世界。聞き慣れない言葉を耳にしたように、フィアスはシドの言葉を繰り返す。
 極めつけは、宇宙の法則。
「ずいぶんご立派な建前だ。恐れ入るよ」
「建前ではない。比喩だ。俺はこの世のすべての事象を、神秘的になぞらえるのが好きなんだよ」
くっくっくっ、とシドが笑う。神すら逃げ出す悪魔の笑いだ。フィアスは両耳を塞ぐ。
 対面でこの男の不気味な笑いを聞くのは久しい。そして、こんなときでも上機嫌な笑いが出るとは、彼の故郷はさぞかし陽気な楽園なのだろう。
 エンターキーを押した浅黒い指が、天井を指差した。
「太陽は俺たちの頭上にある。今までも、そしてこれからも」


 フィアスが助手席に乗り込むとエンジンが掛かった。静かな唸りを発してBMWが発車する。
 帰りの運転は真一が請け負った。運転するから鍵くれよ。埠頭からの道すがら、停車した車を見ながら真一は言った。運転をすることで気を紛らわせたいようだった。
 真一は黙って運転を続けた。ぎこちないマニュアル操作で車が不自然につっかえると、小さな溜息を吐いてエンジンをかけ直した。
 これまでに何度かトランスミッションを運転してもらったが、今回はひときわ下手くそだ。ギアを入れ替えるべきポイントをことごとく外している。スピードを出そうとするたび、エンジンのから吹かしの音が怒ったように響く。
「サードギア」
フィアスは外の景色を眺めながら言った。
「トップギア」
 満足したように愛車が静かになった。テロ攻撃の影響で、前方を走る車は一台も見えない。四速のスピードが定速になると、車内に沈黙が座した。
 真一はサンバイザーに引っ掛けておいたサングラスをつけていた。以前も人の私物を勝手に借りて、お気に入りに認定していた。ただし、今日の天候は曇り。視界が暗くなれば、下手な運転に拍車がかかる。おそらく装着しているのは別の理由からだ。
「俺のことはいいとして」とフィアスは言った。
「リンの前ではどうするつもりだ?」
 真一は渋々といった態度でサングラスを外して、ダッシュボードの上に置いた。口や目の筋肉を動かして色々な表情を作るも、しばらくすると悲しみと不満が入り混じった元の顔に戻った。
 フロントミラーで自分の顔を確認し、眉を潜める。
「俺、嘘つくこと向いてないよ」
 コンと対面した際にも、同じことを真一は言っていた。
 俺、嘘つくこと向いてないよ。喋るとぼろが出そうだよ、と。
 しかし、黙っているからといって知らないわけじゃない。
 ヨンの言う通りだ。
 フィアスは煙草を取り出すと火をつける。煙が充満する前に、窓を開けて外へ逃す。
 完全に中毒症状が出ている煙草へ手を伸ばすのは気まぐれが多いが、別の理由で吸う時もある。ストレスが溜まった時や縁かつぎ、次の行動へ移すときの一区切りなどだ。
 紫煙が混ざると空気が変わる。あわせて物事に区切りがつくような気がする。区切りをつけて現行を切り上げ、次の行動へ移すための諦めの混ざった決心がつく。
 今回は、区切りをつけるための喫煙だ。
 フィルターまで届いた火種を車内灰皿に押しつけ、フィアスは言った。
「お前には、感謝すべきなのだろうか」
 さっきの話? と尋ねられて頷く。
「俺の自殺願望を、見て見ぬふりしてくれた」
「見て見ぬふりというか……」
うーん、真一は頭を掻く。ゆっくりと頭の中の考えをなぞるように答える。
「どう考えてもきついじゃん、お前の人生って。それで色々な理由をつけて戦いに突っ込んで行くんだから、ああ生命いのちを捨てたがっているんだなって思っただけだよ。たぶん、誰が見ても自虐的に映っていたと思うよ」
 なるほど、とフィアスは頷いた。
 細かいことにこだわらない真一でさえ気づくくらいだ、そう思える行動を様々な局面で自分は取っていたのだろう。感情を切り離すことができるから、弱音を吐かなかっただけ。しかし、その代償は、戦闘行動に現れていた。
 現れていたというか、訴えていたのかも知れない。
「だから俺は言ったんじゃん」とふてくされた声で真一は言った。
「小百合さんの家で、お前の気持ちが知りたいって。あのとき、きついならきついって正直に言えば良かったんだよ」
 後天遺伝子の反動で、マイチやリンを殺してしまうかもしれないことに恐怖を覚える……そう告白した時藤家での出来事を思い出す。
 あのとき、本郷真一を友と見込んで抱えていた心情を吐露した。あの家で話したことも真実だ。
 フィアスがそのように言い返すと、真一は強く頷いた。
「分かってる。分かっているけれど、もっと分かりやすく言ってくれよな。〝俺は死を恐れていない〟なんてカッコつけるんじゃなくて」
「その恐怖を味わうくらいなら、死んでしまいたいと?」
 そう、と真一は頷いた。素直じゃないから、あんな状況で暴露されることになったんだろ、と。
「……まあ、俺や凛に心配を掛けたくなかったんだろうけどさ」
「どうだろうな。分からない。俺はずっと一人で生きてきたから。ただ自分のプライドを守りたかっただけかも知れない」
「そのプライドの中に、俺も凛も入っていたんじゃない?」
 さあな、とフィアスは返事をする。曖昧な答えだが本当の気持ちだ。
 実際のところ、よく分からない。
 盾と剣が混在する心の内は、自分でも把握しきれていない。
 そもそもその盾で誰を守っていたのか。その剣で誰と戦っていたのか。自問しても答えが出ない。
 距離をとった感情は、いつの間にかぐちゃぐちゃに絡まってしまい、自力でほどけなくなっている。
 いつものように考え込んでいると、真一の呆れた視線にぶつかった。よそ見運転はしていないから、呆れた空気が取り巻いているというべきか。
 根暗だの神経質だのとこれまでに散々軽口を叩かれてきた。またぐちぐち悩み始めたよ、と思われているのかも知れない。
 どうして真一がこういう問題を抱えないのか不思議だ。彼はからっとした態度で分け隔てなく人に接する。嘘をつけないし、心の問題がすべて表情に表れる。感情をさらけ出しても様々な人間と持ちつ持たれつの関係を築けているのだから謎めいている。
 洞察どうさつの視線にあてられて、真一は「そんな目で見んなよ」と言った。恥ずかしくてムズムズするよ、と。
 そこでフィアスは気づいた。
 この眼差しは洞察ではなく憧憬どうけいだ。


「〝俺たち三人が、どうやったらこの問題を乗り越えられるか考えよう〟」
しばらくして唐突に真一は言った。
 ちらりと横目にフィアスを一瞥する。
「前に言ったこと、覚えてる?」
「二回も言われれば、忘れたくても忘れられない」
「今ので三回目。見て見ぬふりをしていたわけじゃないよ。俺はずーっと考えているんだ。お前が自殺の方法を考えている以上にね」
「答えは出たのか?」
「まだ。だけど……良いタイミングで出てくると思う」
 相変わらず、楽天的で向こう見ずな言い方だ。フィアスは苦笑を禁じ得ない。
 出会った当初は考え方の傾向があまりにも違いすぎて、苛立ちや呆れを感じたものだったが、今では珍妙な生物を見るような興味深さを感じている。本人はとてもシリアスなのに、傍目から見ると朗らかな滑稽こっけいさが漂う。
 真一は、真剣に話を聞いてくれていないと感じたようだ。
 また保護者面かよ! 俺、締め切りに強いんだって。追い詰められてから本領発揮ほんりょうはっきするタイプ。夏休みの宿題だって、いつもギリギリで写させてもらっていたし! とムキになって弁解したあと、熱くなりすぎた自分を自省じせいしたのか、しばし黙した。
 つまりさ、と数秒の沈黙の果てに真一は言った。
「俺の答えを、希望の一つにくわえてくれる?」
「出てもいない答えをか?」
「うん。希望はたくさんあった方がいいだろ」
ふっ、と溜息とも笑いともつかない吐息をフィアスは吐き出した。
 煙草の箱から新しい一本を取り出し、火を付ける。
 外の景色に見慣れた建物がちらほらと見え始めた。横浜市内に戻ってきたのだ。いつもなら賑やかな街中も、車や人影は見当たらない。
 赤目がいつ無差別テロを起こすか分からないから、誰も屋外には出ていない。
 抑えきれない衝動が人を殺し続ける。
 その衝動は自身が死を迎えるまで止むことはない。
「ぜひ聞いてみたいものだな」とフィアスはつぶやいた。