初めまして、狼くん。あんたの嗅覚に察知されたくないのでね、遠方から失礼するよ。私は〝ネクロマンサー〟。現世の名はヨン。そこにいる、イかれた女の観測手だ。
 奇妙な自己紹介をして、ヨンと名乗る片割れは鈴をチリンと鳴らした。コンの武装を解除するためだ。
 隣で、真一がごくりと唾を飲み込む。未だに、非科学的な狙撃手たちの共鳴反応に慣れていないと見える。
 どうして俺はすんなりと順応できてしまったのか……ふと考え、フィアスはすぐに答えにたどり着いた。
 俺は、彼らと同じ世界にいる。フィオリーナも、ネオも、この埠頭で息絶えた、赤い目の人間たちも。
 身をもって、このイかれた事実を受け入れている。
 ヨンは続けた。
「シドから話は聞いているね。私はフィオリーナの古い友達で、赤目の抹消および先天遺伝子の破壊に手を貸している――つまり、彼女の本懐ほんかいげさせようとしているわけだ。まあ、まずはこの街を荒らす、赤目の駆除が先決だけどね」
「それは俺に課された任務だ」とフィアスが言った。
「そのために、生命賭いのちがけでここまで来た」
「だから、その生命を賭けてほしくなくなったんだよ。君の上司は」
まだ分からないのかねぇ、と言うようにヨンは溜息を吐いた。溜息を吐きながら、頭が良いのか悪いのか分からないねぇ、と付け加えた。
「私たちがなぜ赤い目の男をドイツに搬送したか分かっているだろ? 彼女はあんたに課した任務を、その運命を、自らくつがえそうとしているんだ。この期に及んで、ペットが傷つくのを可哀想に思ったのかもしれない。あるいは、身内の不始末は自らの手で拭うべきだと感じたのかもしれない。私の見立てでは八対二ってところかな……多少の差はあれど、どちらも本心だよ。フィオリーナは良い奴だからね」
「そこまで分かっていて、なぜ救おうとしない」苛立ちを抑えた声でフィアスは言った。
 ヨンの話したことはすべて承知の上だ。既知の事実をなぞって、再び感情を突かれるような論点へと戻ってきた。自分が知りたいのは、もっと具体的なことだ。
「救えないのなら、連れ戻せ」
「私は死も救いの一つだと考えているよ」とヨンは答える。
「死は非常に強力な救済措置だと。君にも分かるだろう?」
 フィアスは、押し黙る。何も言い返せない。その通りだ、と認めざるを得ない。
 合理的判断ではない。これは今までの経験から感じることだ。仕事で手に掛けた標的に、そういう人間が何人かいた。最期の瞬間に微笑まれ、感謝されたことだってある。
 窮地に陥った人間を楽に死なせてやること。それは時に、過酷な人生を歩み続けることよりも有効な解決策になり得ると、死に際の人間から学んだ。おそらく、フィオリーナも共通の真理を抱いているだろう。彼女が考える救いは「死」であることに間違いはない。
 しかし……。
「あんたは大事なことを見逃している」とフィアスは言った。
「死んだだけでは救われない。彼女の望みは〝先天遺伝子の破壊〟だ。ネオと同死してこそ意味がある。ネオが説得に応じなかったとき、彼女は非業の死を遂げる。現時点であんたたちがもたらす救いは、殺人幇助さつじんほうじょに限りなく近い」
「おや、弱いところを突かれたね!」とヨンは言った。予想していた理論の隙を突かれて喜んでいる声だ。
 それだけでは物足りず、実際にひひひひひっ、と声をあげて笑った。引っかくような笑いが長く続いた。その声はノイズで乱れ、途中から機械のきしみに似た性質を帯びた。人形じみたコンから聞こえると、なおのこと無機質さが増した。
 フィアスはその笑いが収まるのをじっと待った。フィオリーナはもう少し上品な友達を持つべきだ、と思いながら。
 唐突に笑いが止んだ。壊れた機械のスイッチを切ったようにピタリと。
「先天遺伝子を持つもの同士は殺し合いができない」とヨンは切り出した。
「だからネオには説得に応じてもらう必要がある。ただし、説得に応じる確率はとても低い。それに比べて、〝後天遺伝子は先天遺伝子を駆逐する〟。つまり身内での和解よりは、君が兄妹を葬り去る確率の方が高いと言いたいわけだね」
「誤解しないでもらいたい。俺が殺すのはネオ一人だけだ」
なるほどねぇ、と言いながらヨンは何かを考えているようだった。というよりも、何かを考えているような意図的な間を置いているようにフィアスには感じられた。
 静まり返った埠頭に、埠頭らしい潮騒しおさいの音と、鉄錆の乾いたにおいが漂った。もっとも錆びたにおいの中には、背後に倒れた無数の死体の血なまぐささが混じっているのだろうが、現状では判別できない。五感を開け・・・・・ば嗅ぎ分けられるかも知れないが、そんな悪趣味なことを試みようとは思わない。
 隣で、真一が大きく息を吸い込んだ。横目に見ると、彼は両腕を抱き合わせて苦痛に耐えるポーズを取っていた。目が合うと、唇の動きだけで意思を伝えてくる。
 こいつら、生理的に無理になってきた……げんなり顔の真一の視線の先で、コンはずっと固まっている。真一はそれが気にかかるようだ。反対にフィアスはかなり前から、彼女のことを背景として捉えることができていた。生物かどうかは気配で見分ける。気配を消しているなら探り出し、生かすか殺すかを決める。
 フィオリーナから叩き込まれ、頭の髄にまで染み付いている教えの一つが、不思議な形でコンに適応されている――気配そのものが喪失している彼女は、生物として捉えられない。
 ようやくヨンが口を開いた。
「愚かな自殺志願者め」
フィアスが眉を潜めたのを見て、おっと、言い間違えた。言葉の綾だよ、とヨンは大仰おおぎょうに訂正した。それからもったいぶった咳払いをして、丁寧に言い改めた。
「君はとても真面目なんだね。フィオリーナを助けて、ネオを殺す。その生命と引き換えに、与えられた使命を果たそうとしている。とても高潔こうけつな魂を持っていると思うよ」
「なにが高潔な魂だ」と強い口調でフィアスは言った。
「俺はフィオリーナを死なせはしない。ただし自分の生命を差し出すつもりはない。そんな献身性は持ち合わせていないし、考えただけでも反吐へどが出る。もちろん、ネオに殺される気もない」
「そして、君自身にも?」
「……何が言いたい?」
ひひひっ、と再び笑いが持ち上がった。理論の隙を突いて、喜んでいる声だ。ただし前回に比べて、とても短い笑いだった。
「狼くん、嘘はいけないよ!」とヨンは言った。
「君は勝算を見積もれない。さきほど、生命賭け、と言っていたじゃないか。ネオの戦力と後天遺伝子の副作用。君は死のリスクを二つも抱えているんだよ。たとえネオを殺すことができたとしても、後天遺伝子による獣化じゅうかは止められない。まさか本物の狼に成り下がってまで生き延びたいと思っていないよね?……むしろ、君は誰よりも希望・・にすがっているのではないのかな?」
「やめろよ!」誰かが言った。一瞬、誰がその言葉を発したのかフィアスには分からなかった。すぐ隣で発言されたにも関わらず。
 真一の声は震えていたが、ライフル銃のように遠くまで届く大きな声だった。
 フィアスは息を呑んだ。
 滔々とうとうと述べるヨンの理屈よりも、真一の一言の方が衝撃的だった。
 やめろよ……日の下にさらされようとしている事実を食い止める、切実な一声の方が。
 チリンと音がして、コンは満足そうに目を細めた。
「君のお友達は聡明だよ。黙っているからといって知らないわけじゃない」
フィアスはコンに掴みかかった。その手をコンは弾いたが、もう片方の拳を腹部に受けて身をよじった。表情の変化はなく、女の身体が打撃のエネルギーを受けて「く」の字に曲がっただけだった。間を取ることもなく、防御姿勢も取らない。
 フィアスはコンを組み伏せ、洋服のどこかに取り付けられた通信機を探す。通常ならその場所に取り付けられているはずの、いくつかのポイントを探してもそれらしき機械は見つからない。
「私の話を聞きたいなら、怒りを消せと言ったはずだよ」
馬乗りになった身体の下で、ヨンの声が聞こえた。そこで通信機の取り付けられた場所がわかった。
 鷹のタトゥーが施された皮膚の下だ。
 鈴の音が聞こえ、コンの顔がフィアスを向いた。
 光のない灰色の目。首元から流れる声は、まるでコン自身が話すように聞こえてくる。
「君はフィオリーナを助けたい。そしてたった一つしかない希望を、彼女から取り上げようとしている。その目的は、自分のものにするためさ。高潔さを隠蓑かくれみのにしている分、タチが悪いね!」
 フィアスは両手に力を込めて、コンの首を締め上げる。手のひらの下にタトゥーの粗い皮膚の感触がざらざらと動く。再び鈴の音が聞こえ、ブーツの硬い爪先が背中に食い込んだ。刺すような激しい痛み。両手首にコンの指が巻きつく。
 彼女は体格に似合わない怪力でフィアスの両手を引き離しにかかった。フィアスはすぐに首を絞める手を緩めた。自分のやっていることは無意味だ。この両手が働いているのは、自身の秘密を守るためのエゴ的な行動に過ぎない。しかも、隠しおおせていると思った秘密は、実はずっと前から白日の下にさらされていた。ただ、友達の優しさが、日陰を作ってくれていたに過ぎない。
 今さら彼女の首を絞めたところで、どうにもならないのだ。
 手を離しても、通信機からは何の言葉も聞こえてこない。荒い自身の呼吸と、機械的なコンの呼吸が重なって聞こえるだけだ。
 首が機械的に上を向いた。頭をのけぞらせて、コンは真一を見た。
 逆さまになった女の顔に、人間らしい笑みが張り付く。
「真一くんは、優しいね」
 顔を向けられた真一は、ぎくっと肩を震わせた。顔面蒼白したまま、うんともすんとも言わない。その恐れはヨンに対してか、この光景に対するすべてか。
 考えるより先に、フィアスはコンの胸ぐらを掴んで、再び自分に向き直らせた。
「その通りだ」
怒りに裏打ちされた静かな声で、フィアスは言った。
「そうだ。俺には救いがない。だからこそ死の希望にすがっている……フィオリーナには生きていてほしい。ただし、それは希望を奪うためじゃない。俺は継承けいしょうしたんだ、遺伝子レベルのルディガーの意志を。俺には救いがないが、自由意思もない。狡猾こうかつさも、高潔さも、自己犠牲も、優しさも関係ない。これは、俺のクソみたいな希望である前に、ルディガーの本望なんだ。彼が果たさなかったことは、俺が果たさなくてはならない」
コンのTシャツから手を離すと、フィアスは立ち上がる。
 コンはフィアスを見つめたまま、身動きを取らなかった。年の近いその女性は、相変わらず抜け殻同然に地面に転がっていた。
 意思のない目に光が宿るときは、人工的に植えつけられた人格の中。その人格を用いて動く彼女も、明確な意思を持っているのか、実際のところは分からない。
 コンの細い首筋に手のひらの赤みが薄く残っていた。組み伏せるために殴った脇腹も、打撲痕になるだろう。人間らしくなったときに、身に覚えのない青痣を見て首をひねるかもしれない。
「無関係な君を、傷つけてすまなかった」
フィアスは謝り、手を差し出した。コンはその手を掴んで立ち上がった。鈴の音が鳴る。服のシワを払い、洋服のあちこちについた砂を払うよう指示がある。
 ヨンは何も言わなかったが、通信は続いているようだ。
 フィオリーナに伝えてくれ、とフィアスは言った。
「ルディガーは、貴女を守りたかった」
 自身も歩きながらシャツの乱れを整え、服に着いた埃を払う。背後でコンの靴音が聞こえた。その気配は数秒と経たずなくなった。ヨンの元へ帰ったのだろうか。
 前方に真一が見えた。目が合うと、真一はさっと視線をそらした。
 分厚い雲の間から束の間に降り注いだ光が、陰惨いんさんな埠頭を照らし出した。
 真一の側を横切り、地面に捨て置いた小物類を拾う。携帯電話でシドにコンタクトを取ると、埠頭の死体はそのままで良いとのことだった。後始末はフィオリーナ側で請け負うらしい。
 フィオリーナ側か、とフィアスは呟く。
 まるで商談相手だな。手を貸してくれた礼を言うべきか?
 皮肉を込めた冗談に、シドは笑わなかった。アジトで話そう、と無感情な声でアポイントを取り付けると電話が切れた。
 銃とマガジンを拾い上げる。この埠頭には自分と真一以外誰の気配も感じないから、武装の必要はないだろう。
「帰るぞ、マイチ」
「うん」
力ない返答に続き、真一は溜息を吐いた。
「帰ろう」