目に映る世界がぼやけている。たった今、生まれ落ちたばかりのように。徐々に明瞭めいりょうになる視界に、淡い緑の光が輝く。その正体は、研ぎ澄まされたフォックスの眼差しだ。
 昨晩の、めくるめく夢の余韻よいんが、頭の芯を鈍くする。
 自分はどうなってしまったのだろう。これから、どうなってしまうのだろう。小麗には分からなかった。この瞬間に愛の言葉を吐くべきか、呪いの言葉を吐くべきかも判断がつきかねた。
 とにかく、何らかの言葉を発しなければならない。
 小麗は口を開き、異変に気がついた。
 舌が痺れている。水分という水分が枯渇してしまったかのように喉元が焼けついて、一言も言葉を話せない。
 意識と肉体が、意図的に切り離されている。
 ゾッとするような確信を、小麗は得た。
 彼女を見つめていたのは、その瞳に戸惑いの色を見つけるためであったらしい。お目当てのものを目にすると、フォックスはふっ、と優越の混じった息を吐いた。大きな手が小麗の頰を撫でる。その仕草は優しさに満ちているが、銃によって硬化した皮膚は、ぴりぴりと引っ掻くような感触を残す。
 小麗はぼんやりと、その感覚を受け入れる。
 肉体ばかりか精神までもが夢に溶け、心は不思議と凪いでいる。
 ……いや、これは虚無だ。
 空白の感情は、穏やかさと似ていて非なる。
「俺のもんだ」
 赤髪の殺し屋は裸の半身を持ち上げると、彼女の首筋に噛みつくようなキスをした。白い肢体の中で、その部分がいちばん赤く色づくように。
「お前はネオを裏切り、俺を選んだ。俺のものになることを選んだ。もう引き返せない。全身全霊でぜんしんぜんれい俺を愛してくれ、シャオレイ。そして、一秒でも長く生き延びてくれ」
その声は喋るに連れて、苦しげにも嬉しげにも聞こえる密やかな声音に変わった。懇願こんがんしているようにさえ聞こえたのは、小麗の心がそう願っていたからだろうか。
〝甘い嘘を吐きながら、数々の女性をだましてきたのでしょう。〟
〝そして、ネオを愛している私の心までもを騙しおおせて、平然と去っていくのですね。〟
 私の言ったことは半分しか当たっていない、と小麗は確信した。
 彼は数々の女性を騙してきた。しかし、黙って去りはしなかった。それは常に、女性の役どころだった。
 世界には、愛と裏切りが存在する。愛が終われば、内情を知る近親者は裏切り者に転ずる。
 愛の火が消えるとき、生命の火も消える。それが彼の人間関係の終わらせ方なのだ。身体を麻痺まひさせたのは、寝首を掛かれないための、防衛策の一種だろうか。
 何にせよ、伊達男だておとこの恋愛は、疑念と殺戮さつりくの上に築かれている。
 可哀想、と小麗は思った。これが真っ白な心の上に落ちてきた、唯一の感情だった。
 可哀想という愛情を、小麗は抱いた。
 だがそれも、本心から発露したものか判断がつきかねた。
 暴力の上に築かれた依存的な心理状態なのかも知れない。あるいは、単純な肉体の繋がりからくる、生理的な反応なのかも知れない。
 すがるような荒々しさで抱かれながら、人の心なんて分からないことだらけだ、と小麗は思った。


 フォックスはシャツの上にホルスターを装着する。サイドアームとして使用しているベレッタM92の動作を確かめ、懐にしまう。ジャケットの下襟したえりを軽く正すと、背後を振り返る。
 小麗がじっとこちらを見ていることに気づいたのだ。
 彼女の顔は、フォックスが愛した恋人たちが見せた、どの表情とも違っていた。愛情とは違う。怯えの影もない。神のように絶対的な、自分ごときが太刀打ちできないと思える、異質な目つきをしていた。
 ……記憶の底にある、誰かの面影。
 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎった。そして、瞬く間に忘却の闇に消えた。
 居心地の悪さを掻き消し、フォックスは愛おしい女の頬へと口づけする。麻痺薬の効果は抜群で、彼女は身じろぎもしない。
「次に会うとき、薬の効果も切れているだろう」
取り澄ました顔でフォックスは告げる。小麗は物言いたげな顔でフォックスを見つめる。孵化ふかした鳥が自力で殻を破るように、動けない身体に意識のつるを張り巡らせようとしているかのようだ。
 赤髪の殺し屋はじっとその動きを見つめた。この女の好きにさせていては危険だ。もっと深く眠らせなければ……そう思いつつ、手が出ない。
 やがて小さな唇が、微かに開いた。苦しげに眉をひそめ、死にかけた魚のごとくぱくぱくと動かす。
 フォックスが耳を近づけると、ささやくような小さな声で小麗は告げた。
「行かない、で……」
「すべてが終わったら、迎えにくる」
「行か、ないで……」
「俺はどこへも行かないさ」
フォックスはくるりときびすを返し、足早に部屋を後にする。これ以上その瞳を見つめていたら、本当にどこへも行けなくなってしまう気がした。
 女の言うことを、反発もなく受け入れそうになったのは初めてだな、とフォックスは思った。今もなお、後ろ髪を引かれている。
 記憶、という言葉が再び脳裏をよぎり、フォックスは小機関銃をいじる手を止めた。これまでに出会った女たちの顔を思い出した。身を焦がすほど愛し、そしてこの手でほうむり去った過去の恋人……その中に、一人だけ殺し損ねた女がいて、小麗の目は、もしかすると、その女の眼差しに似ていたのかも知れない。
 それは記憶にも定着していない、遠い過去の亡霊だ。
 小麗を殺したとき、本当にすべての仕事をやり終えたことになるのかも知れない。
 銃器の入ったアタッシュケースの蓋を閉じ、フォックスは短く息を吐く。気持ちを切り替え、扉を開ける。ベッドの上に横たわるもう一人の女――龍頭凛は、未だに眠りについたままだ。
 決して痛めつけたりしない。
 この女はNo.2の前でこそ真価を発揮する。後天遺伝子を呼び起こす、起爆剤きばくざいになってもらう。
 姫君をベッドへ寝かせるように、丁重に凛を助手席へ横たえらせると、車のエンジンをかけた。