「死に損なったな」
 頭上で微かに訛ったイギリス英語が聞こえた。弾力の強いアーミーブーツを響かせてフォックスが階段を降りてきた。血のように真っ赤なカラーシャツに、切り裂くばかりのダメージが施されたジーンズ。自己主張の激しいファッションは相変わらずで、燃えるような赤毛もさらに拍車をかける。
 サングラスをずらすと、吊り上がった緑色の目が、挑むようにフィアスを睨んだ。握っていた凛の手を背後に回して、フィアスは一歩前に歩み出る。
「久しいな、フォックス」
「フィアス、お前に会うのは何年振りだ? ひょっとして、イタリアで会って以来になるのか?」
ジーンズのポケットに指を突っ込んだままフォックスは言った。長身の二人だが、彼の方が五センチほど背が高い。拳銃よりはるかに重量のかかる短機関銃を得物にしているためか、腕や足にがっしりと筋肉がついている。フィアスを俊敏なオオカミとすると、こちらは堂々たるライオンだ。
 さすがに病院内にH&KMP5を持参するような無茶はしていないが、ブランドもののシャツの下に隠されたハンドガンや近接武器の影をフィアスは見逃がさない。その数や、平生の自分の装備に比べ軽く三倍はありそうだ。あちこちで怨恨を引き受けているらしいイタリアの殺し屋は、過剰なまでに自己防衛を怠らない。
 煌びやかな衣装と同じで、彼にとって身にまとう武器は、一種のアクセサリーのようなものなのだろう。自分を強く見せかけるための。
 三年前と同じく、これからもこの男に対して好感を持つことはないだろう、とフィアスは思う。
「あんたと組んで分かったことがある。俺は二度とあんたと手を組まない」
「挨拶もそこそこに、厳しい奴だな。あのときのこと、まだ怒っているのか?」
「それもあるが、今回の件に関してもかなり苛ついている」
フィアスは背後に立つ凛と真一を一瞥する。二人とも不安な顔でやりとりを見守っている。対するフォックスは余裕綽々の笑みを浮かべたままだ。こちらが丸腰だということを見透かされている。
 フィアスは言語を日本語に切り替え、背後の二人に向けて静かに言った。
「何が起きても手出しをするな」
 フォックスは演技がかった仕草で肩をすくめると溜息をついた。薄い眉が悲しげに歪む。
「哀しいぜ。俺は二人のガードどころか、お前の命も救ってやったってのに、感謝もされねぇ」
「ふざけるな」
怒りを込めたフィアスの一言にフォックスの顔色がさっと変わる。ナイフの刃先のように尖った目で、目下をじっとねめつけた。
「……何だと?」
「思い上がるなよ、フォックス。お前のせいで、こっちはどれだけ危険な橋を渡らされたと思っているんだ」
「俺は正義を貫いただけだ。そして、俺のやり方で、最善策を講じた」
「最善策? 戦場へ無防備な人間を連れてくることがか? ふざけるな。二人に流れ弾が当たっていたらどうするつもりだったんだ。お前一人が死にに行くのは勝手だが、俺がガードする人間を巻き添えにするのはやめろ」
 瞬間、鋭い痛みが頬骨に響いた。首が意識せぬ方向に傾き、皮膚が熱を帯びる。舌を噛んだらしく、口に溜まった唾液に鉄の味を感じた。フォックスの拳は素早く、重い。
「悪いな。病み上がりの人間に手荒な真似はしたくなかったが、今のは我慢できなかった」
穏やかな口調とは裏腹に、フォックスの緑の瞳は怒りに燃えていた。
血の混ざった熱い唾液を呑み込むと、フィアスは歯をむき出しにして唸った。
「あんたの正義は凶器だ。正義を貫きたいのなら、もう何も振りかざすな!」
「女の口説き方も知らなかったやつが、なかなか言うようになったじゃないか」
フォックスはニヤリと口元を歪めるが、目は依然として鋭い光を放ったままだ。大きな右手は血管が浮き出るほど力を込めて、フィアスのシャツを握りしめている。
「お前は根本的なことを読み誤っている」
怪しげな光を双眼に宿して、フォックスはにやりと笑う。
何が正義か・・・・・は問題じゃない。誰が正義か・・・・・が問題なんだ」
 ふと、強い視線を感じて、フォックスはちらりとフィアスの背後に目を向ける。そこには真一の制御を押し切り、龍頭凛が今にも殴りかからんばかりに腕を振り上げていた。瞳を滾らせ、モデルのような顔をした男の、エメラルドグリーンの目を睨みつける。
 威勢の良いお嬢さんだぜ。フォックスは凛に噛みつく真似をする。
「ああいう女を見ていると、つい悲鳴をあげさせたくなる」
 言うや否や、フォックスは鼻先に密やかな殺気を嗅ぎつける。それは襲いかかる寸前の、音を消した猛獣の忍び足。
 目と鼻の先で、ジャケットのポケットに手を突っこんだままフィアスは少しも身じろがなかったが、瞳だけは別だった。
 白目に近い瞳孔の外周から、皆既日食のように少しずつ浸食を始める。海と空の境目の灰青色に、絶えず形の変化する赤い楕円が影のように忍び込む。虹彩と混じり合い、あの世の果てに見るような煙にも似た暗紅色あんこうしょくに代わる。
 赤い液体が何なのか、フォックスには判断がつかなかった。血液にしては明度が高く、さらさらしている。精密なプログラミングに則って噴射された科学薬品のようにも見えた。
 こいつ、本当に人間か? 声に出さないフォックスのつぶやきを聞きとってフィアスも自覚したのだろう。微かに眉をひそめると目を伏せ、漂う殺気を遮断した。
 次の瞬間には、切れ長の目は憂いを帯びた元の色彩に戻っていた。
「まるでオオカミ男だな」
フィアスはバツの悪そうな顔で目をそらす。反面、フォックスは訳知り顔でニヤリとする。
「シーサイドタワーで一戦交えたとき、お前は赤い目をしていた。ネオとかいうあのガキと同じ色。やっと、彼女・・がお前にばかり便宜を図る理由が分かったぜ……。だが、そのくらいで勝ったと思うな」
 救世主は俺だ。
 フォックスは胸倉を掴んでいた手を乱暴に振りほどく。
 フィアスは、カラーに寄った皺を直しながら、フォックスが横行を打ち止めにした理由に気づいた。間もなく、聞こえてきたのだ。
 先の見えない廊下から。
 気高いピン・ヒールの音が。