雑音に激痛こそ感じなくなったものの、感覚は依然として鋭い。敵の居所を知るに、丁度良い感度だった。
 廊下の角や無人の部屋に身を隠しながら、フィアスは少しずつ階下に向けて歩みを進める。三階へ下ったときに人の気配が一気に濃くなった。異変に気づいたようだ。科学者の一人が失神から目を覚ましたのか、それとも誰かが気を失っている彼らを発見したのか。早くも警報装置が押され、ビル内に騒がしいベルが響き渡る。耳に届く人間の声が三倍にも四倍にもふくれあがる。
 これで戦闘を回避する術がなくなった。
 残るは、強行突破。
 フィアスは左手にグロックを構え走り出した。視界に入る人間を手当たり次第に撃ち倒していく。銃声を聞きつけて、階上から次々と人間が下りてくる。無事に逃げきれるかどうか、時間との戦いだ。
 二階の廊下に立ちふさがった四人の敵の膝蓋しつがいを瞬時に撃ち抜いた。それなりの手練のようだったが、強化された自分の戦闘力とは比べ物にならない。数発撃っては物影に身を隠し、マガジンを交換する。そしてまた……。
 まるで重力から切り離されたようだった。いや、肉体から精神すらも切り離され、思考が直接動作に繋がる。敵の動きが鈍く見える。アドレナリンが体内を駆け巡り、制御することが難しい。スピードも動作反応も今までとは比べ物にならないほど鋭くなっている。負ける気がしない。
 一階は三階まで吹き抜けになった巨大なエントランスホールになっていた。床がライトを反射し、天井に海面のような網目模様の光を映し出している。上階は脱走者の捜索や負傷者の救護で未だに賑わっていたが、入口は見渡す限り誰の姿もなかった。フィアスは頬に飛んだ返り血をぬぐう。姿は見えないが、誰もいないわけがない。強化剤を投与したまま、おめおめと自分を味方の元へ帰してくれるわけがないからだ。
「ネオ」
 その名前を呼んだ途端、床を滑って靴に何かが当たった。乾いた音を立てたそれは、自分の銃だ。鏡のような銀色のスライドにくっきりと自分の顔が映る。依然として瞳は赤い。
 振り返ると今しがた下って来た階段の手前に黒髪の少年が立っていた。少年の隣に背の高い女性が、ベーゼで出会ったときと同じようにスーツ姿で佇んでいる。
「駄目じゃないか、勝手に逃げだしたりしては」
フィアスはネオに銃を構えたまま、足元に放り出された銃を蹴飛ばす。床を滑って、S&Wはまたネオの元に返還される。ネオはそれを拾うと、隣の女――小麗に渡した。
ライニー・・・・、君の銃だ」
「敵からの支給は受けない」
「やれやれ。君はもう少し僕を信用しても良いと思うんだけどね。君の父親は、僕の友達だったんだよ」
ネオはにっこりとほほ笑んだ。
 そして自分の目――血色に染まった瞳を指さし、おんなじだ、とつぶやく。
「後天遺伝子が覚醒したということは、全てを思い出したんだろう?」
受け渡された銃を構える小麗を手で制してネオは続ける。
「君に備わった後天遺伝の性質について少し話をしたいと思っているのだが、いいかね? 他人事ではすまされない。五臓六腑ごぞうろっぷに沁みわたり、君の血液、細胞、遺伝子にまで支配が及んでしまっている。ここを出るのは、僕の話を聞いてからでも遅くはないだろう」
 遠くで車が停車した。いくつかの足音がそろりそろりと近づいている。フィアスとネオは横目に入口の扉に目をやる。そして、何事もなかったように視線を元に戻した。
「後天遺伝子は、本人の記憶と大きく結びついている」
ネオが口を開いた。
「遺伝子に変換を加えられた、という記憶の電流が力を発動させるエネルギーとなるんだ。つまり君は自分の意思で類稀なる戦闘力を自在に操作できる。これは僕がルディガーに頼んだことでね、普通の人間として人ごみに紛れることができるように、という意図を持たせたものだった。それが、君の場合は裏目に出てしまったようだ」
「裏目……」
フィアスのつぶやいた言葉に、そうだ、とネオは頷いた。
「十七年前、橋から落ちた衝撃で君は記憶をなくした。そのせいで後天遺伝子の能力もすべて記憶の奥底に封じられることとなった。父親の思い出とともに……奇妙な因果だよ。彩を追いかけた先に出会ったのが、十七年前に捕らえそこなったあの少年だったなんてね。ラインハルト・フォルトナー、僕は君の正体を知っていたんだよ。君が思い出すよりも、ずっと前にね」
ネオは両手を広げ、目を大きく見開く。血色の瞳が頭上のライトを浴びて、水を浴びた魚のように光っている。
「素晴らしい遺伝子だ! 人間に備わった闘争本能を極限まで引き出し、獣のように獰猛な戦闘を可能にする。先天遺伝子、とまではいかないが、その戦闘力は常人に比べると暦然の差だ……僕は君が欲しかった。君の持つ、濃密な血液を、細胞を、遺伝子を! 龍頭凛をエサに、ここまで君をおびき寄せたのは、そのため……君の遺伝子を元に、後天遺伝の実験を現代に蘇らせるためさ!」
フィアスが引き金を引くとネオの足もとの大理石に焦げ跡がついた。小麗がネオの前に立ちふさがる。
「武藤仁様……いいえ、フィアス様。ネオに手荒な真似はお止めください」
「どいてくれ。余計な殺しはしたくない」
「ライニー、君に僕を殺せないよ」
小麗の後ろから顔を出してネオが言う。
「いくら強くなろうとも、所詮、君は後天遺伝子。僕の遺伝子を功妙に真似た、レプリカだもん。本物には勝てっこないんだよ」
「女、そこをどけ!」
「可哀想に、どうあがいても君は僕に勝てないんだ!」


「どこだよ、ここ……」
 ボルボから降りると真一は辺りをきょろきょろ見回した。すると真っ先に視界に映るものがあった。ニューヨークの摩天楼のように大きなビル。一面がメタリックのガラスでできており、太陽光を黒く反射している。目に痛い。
 横浜に長年暮らしてきたが、こんな建物はついぞ見たことがない。ここ最近、建築されたものだろうか。隣にいる凛も目を細めてビルを見上げている。
「あたしたちをこんなところに連れてきて、どうするつもり?」
「フィオリーナの電話を勝手に切っちゃって良かったのか。怒られても知らないぞ、俺は」
「文句を言ってやりましょう」
「凛、フォックスは日本語が通じないって」
「真一くん、拳で分かり合えない事なんて、この世にはないのよ」
「り、凛、仲間同士で手荒なことは……」
「つべこべ言わず、男なら度胸見せなさい!」
「ちょっ……! 文句言うの、俺の役目!?」
 二人の声に応答せず、フォックスは車のトランクからスーツケースを取り出した。ふたを開けると、赤いクッションに埋もれて、銃の部品が続々と姿を現す。手ぎわよく部品を組み立て始めるフォックスを見て、凛と真一は思わず顔を見合わせる。フィオリーナの電話を切った際にフォックスの宣言した言葉の意味が、じわじわと分かりかけてきた。
 瞬く間に、二丁の拳銃、一丁の短機関銃を組み立てると、フォックスは眉間に皺を寄せて、二人に問うた。言葉が伝わらないことが益々彼を不機嫌にさせているようだったが、手にした二つのハンドガンを前につきつけているところからすると「お前ら、銃は使えるのか?」とか、そんなことを聞きたいのだろう。
 真一と凛が頷くと、フォックスはニヤリとあくどい笑みを浮かべてビルを指さした。
「まさか、フィアスはあのビルの中にいるのか?」
真一の問いにフォックスは頷く。レスキューという発音は二人の耳にはっきりと届いた。
 途端、ビルの中から鋭い破裂音が聞こえてきた。三人は反射的にビルの入口を顧みたが、いち早く行動を起こしたのはフォックスだった。両手で銃を抱えてビルの中へ突進していく。フォロー・ミー! 既に二人から五メートルほど離れた所で、フォックスは乱暴に手招く。
 冷静に考えている時間はなかった。真一と凛もわずかに目を合わせただけで、すぐに駆け出す。扉の向こうに大切な人がいるのだと、今度は我々が助け出す番だと、固く決心して。