――Verzeihung. ごめん。
 ――俺は君との約束を、守れなかった。「一人にしない」って言ったのに……。
 ――俺はあのとき、ネオを殺すこと、アヤの仇を撃つことしか頭になかった。
 ――誰かを守ることなんてできない。俺はその術を知らない。所詮は誰かを傷つけ、損なうことしかできないんだ。
 ――許してくれなんて、言えないよ。


――貴方ったら、相変わらずせっかちなのね。結論を急ぐのは、貴方の悪い癖。
――まだ全てが終わったわけではないでしょう?


「一体いつまで眠っているつもりなの、アルド?」


 眼を覚ました。近くで心拍計の音がする。そして、人の気配も。薬品の臭いが鼻をつく。それからまぶたを射抜くほどの強い照明。
 目を瞑ったまま、フィアスは考える。ここは、病院か? 即座に疑問を打ち消す。
 病院に近い設備は揃っているが、病院じゃない。おそらく、研究室か何か。ベーゼとはまた違う。外で車の走行音が忙しない。高速道路が近い。さらに遠くではさざ波の音がする。普通の人間では分からないほど微かな音。以前の自分でも聞こえなかった。
 眠っている間に感覚は比べものにならないほど鋭敏になっている。目をつぶっていても、周囲の人間の行動が手に取るように分かる。
 この部屋は大体十平方メートルほどの広さで、自分の他に三人いる。どれも医学知識に優れた人間だ。医者と言うよりは科学者に近い。それは手つきがひどく機械的なこと、彼らから発せられる科学用語から判断がつく。三人ともドイツ語を喋っている。
 ……くそ、ドイツ語か。
 銃を奪われた。服も着ていないようだ。何か武器になるものは……ボールペンくらいしかないな。
 研究員らしき男が近づいてきたところを見計らって、フィアスは目を見開いた。相手のネクタイを掴むと顔に引きよせる。男の胸ポケットに刺さっていたボールペンを奪い取り、首筋にあてた。
「動くな」
ドイツ語で発した言葉は部屋の中にいる全員に伝わった。一人が慌てて内線電話に手を伸ばそうとするのを見てフィアスは語気を強くする。
「動くなと言っただろう。たった一本のペンで殺されたら、この男も浮かばれないんじゃないか?」
フィアスは男の首からつり下げられたネームカードを見た。名前の下に、役職名が書いてある。
「あんたが研究責任者か」
男は怯えた目でフィアスを見る。そして、こっくりと頷いた。左手の圧迫を強くするとペンの切っ先から血が流れる。
「俺の首と腕と足についた、人権侵害な点滴を外してくれないか」
言われるがまま、男は作業を開始する。点滴の注射針が数分で体内から抜け落ちると、フィアスは立ち上がった。一体、なんの薬品を投与されていたのか。考えただけで気分が悪くなってくる。
 フィアスは男の首筋にペンを突きつけたまま、周囲をうかがう。
「銃はどこだ?」
男に尋ねると、首を微かに振る。残りの二人も知らない、というように首を振った。この部屋には銃がない。
「服がないと、さすがに困る」
三人の視線の先、ベッドの近くにいつものスーツが丁寧に折りたたまれて置いてあるのが見えた。これでどうにか最低限の装備は確保できた。
 羽交い絞めに男を抑えつけながらフィアスは入口のドアを見た。ドアはカードキーを滑らせて施錠するタイプのようだ。恐らくこの部屋にいる全員が同じものを持っているのだろう。カードキーの差し込み口に赤いランプが灯っている。ロックのしるし。
 命令を下すと研究責任者の男はすぐにキーを差し出した。他の二人にもキーを出すよう指示をすると、大人しく床に置いた。これで、研究室は密室。どんなに暴れ回っても、誰も部屋から逃げ出すことはできないし、助けを呼ぶ術もない。
 素っ裸で戦ったことはないが、仕方がないな……フィアスは男の脇腹に、重い拳を打ち込んだ。


 予想はしていたが、スーツの懐にS&Wは入っていなかった。それどころか煙草もない。三人に喫煙習慣があるかどうか、聞いておけばよかった。最も、こんな場所で煙草を吸ったら煙感知器が作動するだろうが……。
 上着を羽織りながらフィアスは部屋の片隅を見る――失神した研究員が三名積み上げられている。数時間、目覚めそうにない。煙草はともかく、これでゆっくりと周囲を観察できる。自分に打ちこまれた薬品が何だったのか気になるが、点滴袋には薬品名どころかメモリも書かれていなかった。床に飛び散った薬液は混じり合って様々な臭いを発している。一体、自分は何をされていたのだろう。ただの身体検査でないことは明らかだ。
 研究員の持っていたボードにも不可解な数字が記されてあるばかりで名称のようなものは見当たらなかった。ベッドのわきの薬品棚にもカルテやファイルらしきものはない……その代りに、目を疑うような写真が置いてある。
 ガラスの写真立てに入れられた、それは研究員の集合写真のようだった。
 随分古めかしく、カラー写真といえども色彩は乏しく、映っている人間の輪郭は大部分がぼやけていた。
 それでも、一瞬にして分かる。脳裏にこびりついて離れない、その顔。
「ルディガー・フォルトナー!」
 写っていたのは記憶を失う直前に目にした父親の顔だった。自分そっくりの明るい金髪、暗い灰青色の瞳。間違いなく在りし日のルディガー・フォルトナーその人だ。
 周りの人間がにこやかに笑みを見せている傍ら、ルディガーは憂鬱そうな顔で写真に写っている。きっと写真を撮られたくなかったのだろう。
「俺も写真は嫌いだ……あんたに似たのかもな」
 そんなことを呟いて、フィアスは我に返る。
 自然に受け入れていたが、どうしてこんなところにルディガー・フォルトナーの写真が飾られているんだ。白衣を着た数人の科学者らしき人物に囲まれてルディガーもまた白衣を身にまとっていた。まるで科学者のような恰好。それに、ルディガーの周りに写った連中……フィアスは部屋の片隅で気を失っている研究員の顔を見る。
 先ほどペン先を突きつけた男。ルディガーの隣に、この男の姿もある。
「おい、起きろ……起きてくれ。どうしてここにルディガーの写真があるんだ。説明しろ。ルディガーはあんたの仲間だったのか? あいつはマフィアじゃなかったのか。おい!」
 肩を揺すっても男は一向に起きる気配がない。あまりにも強く眠らせてしまったようだ。いびき一つかいていない。フィアスは十分前に取った自分の行動を後悔した。もう少し早くこの写真に気づいていれば良かった。そうすればルディガーの素性を聞き出すことができたのに……。


 ――だから言ったでしょう? 結論を急ぐのは、貴方の悪い癖だって。


 フィアスは男の傍から立ち上がった。手の中でルディガーは相変わらず物悲しげな表情を崩さない。
 問いかけるように、つぶやく。
「ルディガー……あんたは〈サイコ・ブレイン〉だったのか?」
ルディガーは答えない。
「教えてくれ、ルディガー。あんたは何者で、俺たちはどういう経緯を辿って橋の上から突き落とされることになったんだ?」
 何かが引っ掛かっている。頭が痛い。何かを思い出せそうな気がする。遠い過去のできごとを。

 ――Verzeihung.

 記憶の片隅で誰かが呟いた。
 まるで起爆装置のスイッチが作動したかのようだった。
 手にしていた写真立てが地面に落ちた。大きな音を立てて、ガラスが粉々に飛び散った。フィアスは頭を抱える。
 頭の芯がうずいている。痛い。爆発しそうだ。
 耳から聞こえる音もどんどんうるさくなる。聴覚がどんなに些細な音も聞き洩らさず、情報を次々と脳裏へ叩き込んでくる。点滴から零れ落ちる薬品臭が痛みとなって嗅覚を刺激する。そして、視覚……目に入る蛍光灯の光を調節できない。
 投与された薬が何かしらの効果を発揮し始めたのだ。
 部屋に設置された洗面台にすがりついて、衝動のままにフィアスは吐いた。薬の味と胃液の辛い味が毒のように口の中に広がる。消化されず胃に残っていた錠剤やカプセル錠がシンクの中をとびはねる。点滴の他に薬を飲まされていたらしい。息ができない。頭が痛い。割れそうだ。
 痛みに歯を食いしばりながら、同時に、封印されていた記憶の扉が開かれつつあることにフィアスは気づいた。その向こうに、確かに見える。遺伝子上のルーツである、彼の顔が。
 ルディガー・フォルトナ―、とフィアスは呼びかける。教えてくれ、ルディガー。
 俺たちはあの橋の上で殺される運命だった。あんたは俺を川底へ突き落した。俺は実の父親に殺されたと思った。
 だけど、違ったのか?
 ――Verzeihung.
 ……そうか。あんたは俺を助けようとしていたんだ。は〈サイコ・ブレイン〉から狙われていた。それは貴重な研究データが失われてしまったから。あんたは、ネオに命じられるままに常人の遺伝子を変化させる薬を開発し、そしてすべてのデータを破棄した。
 データを破棄する前、あんたは実験をしたんだよな。最初で最後の後天的遺伝子の人体実験。あんたは繰り返し呟いていた。俺の前で。「Verzeihung」と。
 〝Verzeihung〟……どうしてこの言葉がずっと心に残っていたのか、やっと分かったよ。
「全部思い出したよ……父さん。長い間忘れていたことを、全て」
 洗面台から顔を上げる。鏡に自分の顔が映る。
 父親から受け継いだ灰青色の瞳は、血のように赤く染まっていた。