受付にあの髪の長い女性はいなかった。彼女はどこへ行ったんだろう。彼女も〈サイコ・ブレイン〉の一味だったのだろうか。だとしたら、凛と同じような〝組織の女〟の役目を請け負っているのかも知れない。いや……違う。フィアスは受付嬢の無駄のない俊敏な動作を思い出した。彼女の身体は組織の男を癒すために機能するような造りじゃなかった。血なまぐさい戦闘に打ち勝つためのものだ。
 ベーゼの自動ドアは行きにきた時と同じようにすんなりと開いた。荒れ果てた広野を思わせる殺風景な庭園が遠くまで続いている。木を伐採してあるためか見晴らしが良い。今のところ誰もいない。360度、どの角度から敵が攻めてきても対処できる。フィアスは神経を集中して敵の気配を探る。室内にいた時は痛いほど感じていた敵の強烈な視線が、今は跡形もなく消滅している。気配を消しているのか? ほんのわずかな空気の揺らぎも発生しないなんて、一体どれほどの手腕だ。
「君」
突如、斜め左後方から声が聞こえて、フィアスは振り返った。視界の隅に小さな人影が横切る。銃を発砲する。影の主はベーゼのそそり立った支柱の一角に隠れて見えない。フィアスも支柱の一つに身を隠して相手の隙を窺う。……気配が消えた。
「君が」
背後から声。いつの間にか回り込まれている。視界を横ぎる影。フィアスは身を翻し、影の消えたドラム缶に弾丸を撃ち込む。
 缶の中央に穴が開いたものの、敵の出てくる様子もなければ、ドラム缶の裏に息を潜めている気配もない。どういうことだ? 瞬間、第六感が身体に訴えかけた。後方を蹴り飛ばせ。フィアスは振り返り様、背後に潜んだ何者かに向かって回し蹴りを喰らわせた。命中したらしい。肩先に、骨が折れるほどでもないが大きな衝撃を与えた……肩? 脇腹を狙ったつもりだった。成人男性の身長としては低すぎる。それに体重も軽い。相手の吹っ飛んだ先にはベーゼの頑丈な壁があったが、小人は上手い具合に体勢を立て直していた。猿にも負けない身軽さだ。
 体勢を立て直し、ぶつかり損ねた壁を蹴って、こちらに飛びかかってくる。フィアスは銃を構えたが、引き金を引くほんの一瞬、指が硬直した。向かってくる相手の瞳が赤かったからだ。血のように真っ赤だった。タイミングを取り逃して発射された弾丸は敵の頬の数センチ横を掠め飛ぶ。外した。気がついたときには、自分の左腕に直径三センチほどの針金が深々と刺さっていた。針からは細いコードが触手のように伸びている……敵の持つ銃口に向かって。
 電気銃だ、と思うより先に、弾けるような激痛が左腕に迸った。激痛はすぐに全身を硬直させ、フィアスはその場に崩れ落ちる。百万ボルトの電圧が神経を痙攣させる。痛みは一瞬でピークを迎え瞬く間に過ぎ去ったが、身体は細かく震えたまま指一つ動かせない。微量の電流を流し続けられている。フィアスは心中で舌打ちした。
「君がBLOODTHIRSTYの狼くんか。中々、凶暴に躾けられてる」
前方から聞こえる声は幼い。女かと思うほど甲高く、ところどころ舌足らずな喋りだ。こいつがネオか? 地面に近いフィアスの視線からは彼の履いている黒いショートブーツしか見えない。
 フィアスの心の内を察したのか、声の主はフィアスの前に腰を下ろすと小さな両手でフィアスの頭を抱きかかえた。
「顔を見せてあげる。君が殺したくてうずうずしている僕の顔。よく見てよ。ほら」
逆光で黒ずんだ相手の顔は細かな造形まで見ることは叶わなかったが、黒い髪の毛に赤い目を持ち、犬歯のような鋭い八重歯を持ち、そして……子ども。その人物は北欧系の顔立ちをした十五、六歳の少年だったのだ。
 澄み切った青空を背景に、あどけない顔がにっこりと天使のように微笑んだ。
 まずい、とフィアスは思った。コイツは、かなりまずい。人間の枠を一つか二つ、踏み外している。
「お、お前が、ネオ……か?」
舌の痺れが弱まったのを機にフィアスは問うた。少年はゆっくりと頷く。それからぎゅっと抱きしめられた。さも、感動の邂逅だというように。
「会いたかったよ、狼くん。僕は君に会える時をずっと待っていたんだよ」
「待って、いた?」
「そう。僕は君をよく知っているんだ。十七年前、君がまだ子供だった頃からね」
十七年前? 意味が分からない。今でこそ十七歳ほどに成長してはいるが、当時のネオはまだ物心も付かない赤ん坊だったはずだ。それなのに、何故、自分のことを知っている? 十七年前。十七年前といえば、俺は……。
「あとでゆっくり聞かせてあげるからね」
首筋にちくりとした痛みがあった。途端、瞼が重くなる。このままでは、眠らされる。くそ、睡眠剤を打ち込まれたか。俺を一体どうする気だ? ……くそ。
……リン。
「それまで、少しおやすみ……ラインハルト」
ネオの声を合図に、フィアスは暗黒の彼方へ意識を手放した。