さて話に戻ろう。
 俺の目の前にいたのは、まだ十四、五歳の男のガキだった。線の細い印象の、優等生というか、良家のご子息といったような雰囲気。しかし、実際のところそうではないということを、一目見て感じたよ。動物的カンというか、本能で感じたんだ。コイツはやばそうだぞ、ってな。
 なにより、その少年の目が異様だった。
 髪の毛は俺と同じく黒かったが、目の瞳孔が常軌を逸していて……赤かったんだ。ウサギのように、真っ赤だった。カラーコンタクトの類じゃない、生まれたときから目の中に赤い色素が入っていたんだと思う。信じられないけどな。
「気分はどう?」とガキは聞いてきた。声変わりのしていない、女のような声だった。
「君が龍頭正宗だね。ずっと会いたかったんだ」
「会いたかった……俺に?」
 長い間話をしなかったせいで言葉を発する事もままならなかったが、俺はなんとか絞り出した。同時に、様々な疑問が頭をもたげた。このガキの正体はなんなのか? どうして俺の名前を知っているのか? なぜ俺に会いたかったのか? どうして俺を助けたんだ?
 子供はにっこりと微笑んだが、皮膚の裏側は無表情のままだということがありありと感じられる、おぞましい笑みだった。今すぐにでもこの場から逃げ出してしまいたかったが、輸血の他に鎮痛剤や精神安定剤も打たれたらしく、思うように身体が動かない。意識もぼんやりとしたまま、晴れる気配がない。ガキは俺の傍まで来ると、身をかがめてひっそりと囁いた。
「正宗にいいニュースが二つもあるんだ。一つ、友好の証に君の敵対している組織は僕が消してあげたよ。これで横浜は晴れて笹川組の物になった。良かったね」
 初めのうちは冗談かと思った。
 組織を消した? 俺が何日寝込んでいたのかは知らないが、横浜で古株の笹川組と何年間も対等にやりあっていた組を、消しゴム感覚で一思いに抹消できるはずがない。大体、なぜこんな小さな子供がヤクザの世界の事情を知っているのか。
 目を白黒させている俺にかまわず、子供は耳障りな甲高い声で続けた。
「もう一つ、それは君の傷が癒えてからのお楽しみ、ということにしておくよ。それまで大人しく眠っていてね」
子どもが傍にあった点滴のネジを捻ると、途端に瞼が重くなって、何も考えられなくなった。精神安定剤の量を増やされたらしい、ということくらいは感じたが、子どもに対してもたげた疑問も、笹川組のことも、もうどうでも良くなっちまったんだ。


 それから俺は昏々と眠り続けた。時たま意識が浮上する事もあったが、その時に見た光景も断片的にしか思い出せない。手術台の上に寝かされていることもあったし、巨大なカプセルのようなものの中に入れられていることもあった。何か検査されているように感じたが、俺は指一本動かせない状態だったし、上手くものを考えることすら難しかった。体中のあちこちに注射針を打たれ、血を抜かれ、包帯を巻かれ、まるで自分の身体が人形みたいに思えた。子どもの人形遊び。好き勝手に色々なことを施されて……本当にクソみたいな気分だったぜ。
 人形ごっこが何日間続いたか分からないが、ある日俺が目覚めると、頭がすっきりしていて、腹に受けた傷もすっかり治っていた。
 そして目の前にあの少年がいた。
 少年が俺の身体をがんじがらめにしていた点滴の注射針を一つ一つ丁寧に抜き取って、初めて俺は上体を起こすことができた。起きあがって改めて自分の身体を隅々まで調べてみたが、やはり腹の傷は塞がっていて、抜糸の跡もなくきれいなもんだった。余程高度な手術を施されたらしい。俺は少年に手渡された自分の服を着て、何週間か何カ月か分からなかったが、やっと自分の足で立ち上がることができたんだ。
 眼の前に立つチビ助のおかげで九死に一生を得たわけだが、俺はこいつを信用しちゃいなかった。
 それどころか、何か厄介なことに巻き込まれたぞ、と苦笑したよ。あのときはまだ事の重大さを分かっていなかったんでな。つまらねぇ笑みが漏れたわけさ。
「正宗」とチビ助はにこにこしながら俺の名前を呼んだ。
「ついてきなよ」
 俺は仕方なく少年の後に続いて、病室の扉から外へ出た。廊下へ出て初めて気づいたわけだが、俺のいる場所は病院とは違った。病院よりももっと殺風景で、眩しかった。
 ここが病院ではなく、ちまたではベーゼと呼ばれる建物だってことを知ったのは、一連の事件がすっかり終わっちまった後のことだよ。
 訝りながらも、俺は少年の後に続いて廊下を歩いた。途中で逃げ出しても良かったんだ。スーツのポケットには抗争の際に使ったマカロフがそのままの状態で入っていたし、目の前を行く少年は、怒鳴りつけただけでションベン漏らしちまいそうな弱弱しいチビだったんだから。
 だけど、それ以上に好奇心が勝っちまった。少年の言っていた「もう一つのいいニュース」を聞いちゃいなかったから、その正体が分かるまではもうしばらく付き合ってやってもいいか、と思ったんだ。
 廊下を何べんか曲がって階段を三度下り、俺たちは地下へ来た。そこが地下だって分かったのは肌に触れる空気が少しばかり冷えたからだ。空気調整のせいかも知れなかったが、そんなことはどうでもいい。そのフロアへ来て、やっと、俺は少年の言っていた「いいニュース」の意味が分かったんだ。

 フロアは一帯が巨大な四角部屋になっていて、中央に巨大なケースというべきガラス張りの部屋があった。ケースは二重にも三重にも連なっていておびただしい数の照明がケースの中央を照らし出していた。
今思えば、あの部屋は集中治療室だったんだ。照明は滅菌ライト。中央に細菌の一ミリも侵入できないように万全の体制を敷いていたんだよ。
 その無菌部屋の核に横たわっていたのは……もう分かるよな?


「……アオイか?」
「そう。葵だ」
正宗は脱力したようにうなだれた。天井を見上げて溜息を吐きだす。それから微かに笑った。抵抗の術を失った人間の、やるせない笑いだった。
 しかし、すぐに正宗は背筋を正し、真剣な面持ちで語りはじめる。フィアスにはもう、龍頭正宗が〈3・7事件〉の十七人殺しの犯人だとは思えなくなっていた。
 むしろ、この男も犠牲者の一人だ……〈サイコ・ブレイン〉の。


 七年経っても葵はあまり変わっていなかった。それでも一目見ただけじゃ信じられない。俺はガラスケースに飛びついて中央に眠る女の顔をまじまじと見据えた。やはり葵だ。どうしても葵にしか見えない。長い間、俺が探し続けていた女。驚きもしたし、少年に問いただしたいこともたくさんあったが、何よりも先に彼女の声が聞きたかった。
「葵! 葵!」
 俺は彼女の名前を呼びながらガラスケースを叩いたが、葵はぴくりとも動かない。ケースには扉もない。まるでショーウィンドウに飾られたマネキンだ。
ちょっとやそっとのことで葵が目覚めないことが分かると、俺は背後に立つガキに詰め寄った。ガキは相変わらず安っぽい笑みを浮かべながら俺を見上げていた。 
 胸ぐらを掴みかかりたい気持ちを抑えて、俺は言った。
「おいガキ、お前は葵に何をした? どうして葵がここにいる?」
「やだなあ、正宗。そんなにカッカしないでよ。普段の君はもっとクールじゃないか」
「これが落ち着いていられるか! どういうことなんだ? 早く説明しろよ! どうして葵が……どうして……ここに……なぜだ……」
動揺した俺を見て、少年は肩を落とすような仕草をした。小さくため息を着くと、物ぐさな様子で言ったんだ。
「君も所詮はその程度の人間か。もう少しロジックに会話ができるかと思っていたんだけれど……まあいいや。先に断っておくけれど、僕は葵を傷つけてないよ。むしろアンタに感謝されてもいいくらいだ。何せ、彼女の命を救ってあげたんだから」
「葵の命を救った……?」
少年は頷いた。
「ああ、そうだよ。僕が彼女を見つけたとき、それはひどい有様だったんだ。横浜の古い路地裏に行き倒れていて、体中にドラッグの使用痕がたくさんあった。君の手前、言うのもはばかられるくらい痛々しいケガもしていて、廃人の一歩手前だったんだよ。放っておいたら確実に葵は死んでいただろう。葵を保護してから二年間、僕は彼女の面倒を見ている。葵の素性を知るのには苦労したよ。何ヶ月もかかって僕は失踪届けから彼女の写真と名前を見つけ出した。配偶者である君の名前もね。僕が正宗を呼び寄せたのは、他でもない、葵の現状を知らせるためだ」
 俺は茫然自失としながら、子供の話を聞いていた。信じられなかった。葵はクスリに溺れるようなタイプじゃないことくらい俺が一番よく知ってる。しかし、七年前に姿を消してから葵の身に何が起こったのか分からないだけに、少年の説明は物凄いリアリティを伴って、身も心もぼろぼろになった葵の姿が目に浮かぶようだった。ガラスの中の葵は目覚める気配がない。辛うじて呼吸はしているみたいだったが、蒼白した顔は無表情のままピクリとも動かない。
「葵は……意識はあるのか?」
 俺はすがるような気持ちで少年に尋ねた。彼は目を伏せると残念そうに首を振った。俺は歯がみして足もとを睨んだ。
葵は意識がない、二年間も……そう思うと目の前が真っ暗になって何の言葉も出てこなかった。
 ドラッグで生死のふちをさまよっている人間が意識を取り戻すことなどあり得ない、奇跡でも起こらない限り。職業上クスリには詳しかったし、クスリに溺れた人間の行く末もいやと言うほど見てきたからな。絶望したよ。
だが、「大丈夫だよ」と、平淡な声でガキが言ったんだ。
 大丈夫だよ。葵を助けられる、と。
俺は我が耳を疑った。信じられない気持で顔をあげると、ガキが相変わらず無表情を覆い隠した笑顔でにこにこ笑っているんだ。気味が悪いったら、今でもヤツの顔を思い出すとゾッとする……。
 ガキの顔を見て、俺は悟った。初めて会ったときに思ったことをもう一度直感したんだ……コイツはヤバいことになったぞって。
「葵を助けたい? 助けたいだろう?」
ガキは見る見るうちに無表情になって、ガラスケースを見た。途端、口元がニヤリと歪むように吊り上がって、俺は悪魔を見たような気がした。正真正銘、瞳の赤い悪魔だ。
「実は、新種の投薬があるんだ。世間にはまだ公表されていないが確実に効力のある薬さ。これを使えば〝死者を蘇らせる〟ことができるといっても過言ではない。葵に投与すれば、彼女は目覚めるけど……どうしようか?」
「ガキ……」
俺は歯をくいしばって子供を睨んだ。
「お前の望みはなんなんだ? 一体何がしたい?」
「さすが。察しが良いね。僕、物分かりの良い人間は好きだよ」
「うるせぇ、いいからさっさと条件を言え。お前は何を望んでいるんだ? 金か? 権力か?」
 俺の言葉に子どもは手を叩いて笑った。何がおかしいのか分かったもんじゃなかったが、子供はひどく上機嫌で、俺はというとポケットのマカロフを撫でる左腕を落ち着かせるのに精いっぱいだった。
「金と権力! いかにもヤクザが考えそうなことだなぁ。違うよ、僕が欲しいのはそんなものじゃない。正宗、僕が欲しいのは君だよ。君を僕の支配下に置きたい。葵を目覚めさせるためだと思って、僕の言うことを聞いてほしいんだよ。有無を言わずね」
「お前の言うことを聞く?」
「ああ。どんなことでも嫌がったら駄目だよ。僕の計画が成功したら、葵を自由にしてあげる。良いかい? 葵の命は君の働きぶりにかかっているんだ。ちゃんと僕の言う通りにしないと駄目だよ」
少年の頭の中ではもう決定事項となってしまったのか、俺が躊躇する暇も与えず右手を差し出した。俺に逆らう術はなかった。当時、好いている女はいたんだが、心の底ではまだ葵のことを愛していたんだ。
俺が少年の小さな手を握ると、彼は力をこめて握手した。そして、またあのにっこりする笑みを浮かべて言ったんだ。
「自己紹介が遅れたね……僕の名前はネオ。宜しくね、正宗」


「ネオ……!」
驚愕したフィアスの顔を見て、正宗は苦々しげに頷いた。
「どうやら、ネオのことも調べがついているらしいな。そうだ、俺は悪魔よりも恐ろしい、〈サイコ・ブレイン〉のカシラと契約しちまったんだよ」