年の瀬の夜に その4

年の瀬の夜に その4

何か忘れた気がする。
なんだろう。

島崎元しまざきはじめは今月の予定を思い浮かべる。
頭の中のカレンダーは電子化されている。携帯にデフォルトで入っている、カレンダーアプリのシンプルな画面そのままだ。
架空のスクロールをしながら、記入した内容を思い出す。
右ポケットの手は、スマートフォンを掴んでいる。
一応、実在のアプリにも同じ記録を残してある。
携帯を取り出せば一瞬で思い出せるのだが、野外の寒さと倦怠感けんたいかんが優った。見上げた星々の控えめすぎる輝きも、面倒くささを後押しした。
二十四日あたりからスクロールを繰り返す。そして、未完了のタスクを探す。
公私混同こうしこんどうしているが、大晦日まで取りこぼしはない。
ちなみに今年最後の予定は、「瑠璃子の家に寄る」だ。
開始時刻は19:00。終了時刻は終日。
元は星空から目を離し、隣を歩く瑠璃子を見下ろす。
そのタスクも完了間近である。

元は物覚えが良い。
学生のころから、時間割や遊びの予定を抜け漏れなく覚えることができた。当然ながら学業成績も優秀で、特に頑張ることなく国公立の大学に進学した。社会人になってからスコアが目に見えなくなったが、上司の機嫌が良くなる程度にそつなく仕事をこなしている。
本人におごりがないのは、周囲も同じことをしていると思いこんでいるからだ。
幸か不幸か、「俺って記憶力良いんだ!」と気づく場面に元は出くわさなかった。
同僚や上司がやらかすと、頭の中のカレンダーを見返さない人なんだな、と元は考える。
その思い違いに気づく場面も、幸か不幸か、死ぬまで出会わない。
そういうわけで、彼の特異な才能は「何事もそつなくこなせる」程度で、今後もきらめく。

なんだったかな、と思いながら、反射的に煙草を探す。
しかし、どこにも見つからない。
コートのポケット、ジャケットのポケット、ズボンのポケット……全部ハズレだ。
煙草を忘れたか、と元は思う。
なるほど。どうりでカレンダーを見ても分からないわけだ。
物覚えの良い元だが、目に映るすべてを脳裏に叩き込んでいるわけではない。数年ぶりのうっかりミス。微かに唸った元の声に、瑠璃子が気づいた。
「どうかした?」
「煙草、忘れたかも」
元はつぶやく。
「たぶん、縁側だよ」
三十分前まで、元は篠田家にいた。
ここ数年、恒例のように彼女の実家の年越しに参加している。
帰り際、凍える縁側で瑠璃子の父親と話をした。とりとめない会話の片手間、あれが最後の喫煙だったはずだ。
「あとで見ておいてくれる? 今夜、小雨になるらしいから」
隣を歩く恋人が、うーん、と返事をする。
「よろしく」と言いながら、あれ? と元は首を捻る。
たまらずスケジュールアプリ(実在)を開いて、頭の中にある文字と同じ文字を確認する。

19:00 瑠璃子の家に寄る

今日の予定は全て終えた……ものの、あれ? 俺なんかしたっけ? いや、なんかしなくちゃいけなかったんだっけ? と不安が脳裏をよぎる。
上げぜんえ膳に、彼女が怒っているのか。
職場の飲み会と同じように、それなりに気遣いをしたはずだが……。
「……今度会うとき、持っていくね」と瑠璃子が言う。
「中旬になるかも知れないけど」
滅多に聞かない声の暗さは、大晦日の特別感を演出しない。
雪崩のような計画倒れの気配がする。
元はスケジュールアプリ(脳内)とスケジュールアプリ(実在)の狭間はざまを四往復したのち愕然がくぜんとした。

僕たち結婚します、と言うのを忘れた。

ぼんやり進んでいた道が、明確になったのが一ヶ月前。
「家族ぐるみの付き合いで、今さら挨拶に来てもらうのも変だから」と瑠璃子は言った。
「お互い忙しいし、時制に合わせて軽くできれば」と付け足した。
元は例のごとくスケジュールを確認した。
勤務シフトがちょうど出ていて、元旦も三が日も仕事が入っていた。
「大晦日に言うのってアリかな?」と元は言った。
「ささやかで良いんじゃない?」と瑠璃子は言った。
「いきなりだとびっくりするから、私からちょっとずつお父さんに伝えておくね」と瑠璃子は言った。
「お願いします」と元は言った。

そして、その話をしたことを忘れた。

瑠璃子の父親が縁側に来たのは、何らかの示唆を与えたからに違いない。
青ざめる元を、瑠璃子は見上げた。
「すごい。本気で忘れてたんだ……」
「ごめん。やらかした」
「め、珍しい〜! ハジメちゃんに限って、そんなことある?」
「ああ。俺も驚いたよ」

多忙な師走しわすは、今年も想定の内に過ぎた。
事務作業、書類整理、同僚や上司の手伝い、気楽な飲み会と強制的な飲み会の参加。
時間を上手く調整しながら、それらの雑事を淡々とさばいた。毎年恒例。細々したスケジュールは、一つも忘れなかったのに……。
煙草の置き忘れ以上の、大失態だ。

「戻ろう」
元は瑠璃子の手を引く。
「演出にしよう。帰るフリをしましたっていうていで戻ろう」
「すごく、無理があるような……」
「日を改めた方がいいかな」
「ううん。今日がいい」
瑠璃子が元の肩先に頬を寄せる。
「今日がいいよ」
「だよな」
「ちょっと眠いけど」
「ごめん」
元は片手で携帯を操作し、カレンダーに追記する。

23:30〜終日 結婚報告。あと煙草さがす