年の瀬の夜に その3

年の瀬の夜に その3

 十二月三十一日午後七時二十二分、中谷なかたにさんはとある喫茶店のカウンター席に座っていた。
 山手線銀座駅にある、由緒正しい喫茶店。喫茶室、と言った方が良いかもしれない。全国展開されているが、間違っても若者向けではない。三十代ですら門扉を叩くのに勇気がいるたたずまいだ。
 店内の二階席は、机も椅子もオーク材で出来ており、真紅のフロア絨毯も相まって、重厚な雰囲気を醸し出している。基本的に騒がしいお喋りは禁止。私語も出来るだけ慎んだ方が良い。なんと言ったってこの場所は、紳士・淑女が日々の忙しさを忘れ、束の間の休息と百年前から変わらない珈琲の味をたしなみにくるところなのだから。
 中谷さんは喫茶室の雰囲気を気に入っている。シャーロック・ホームズに出てくる「ディオゲネス・クラブ」みたい。喫茶室は会員制ではないけれど、ブレンド珈琲が一杯八百円もするので、自ずと使用できる人間は限られてくる。高校生はまず入ってこない。中谷さんは、自分を除いて、女子高生がこの喫茶室で珈琲を飲んでいるところを目にしたことがない。もちろん、男子高生も。
 彼らはマクドナルドに集う習性がある。もしくは背伸びをしてスターバックス。あるいはドトールコーヒーだろうか。
 まあ、なんでも良い。有象無象うぞうむぞうのティーンエイジャーがどこに集おうと興味はない。
 中谷さんは紫煙混じりの吐息をふぅっと吐き、ガラスの灰皿(もちろんWAKO製)にちょんちょんと灰を落とす。この喫茶室は全席喫煙可能。禁煙とか分煙とか、ケチで偽善的な現代の価値観を有していない。あくまで喫茶室は、喫茶室のルールで動く。日々刻々と窮屈きゅうくつになっていく日本社会のマナーを歯牙しがにも掛けないところが、何より彼女のお気に召すところだ。
 もっとも、喫煙中の中谷さんを生活指導の柴センなどが見つけようものなら、学校のルールに従って厳しい処罰を下すだろう。しかし、中谷さんに限ってそれはない。確率論ではあり得ないことかも知れないが、100%ないと言っても過言ではない。
 中谷さんは二本目の煙草に火を付ける。一口吸って、珈琲を飲む。策を練っているうちに長くなった灰を、再びちょんちょんと落とす。大晦日の午後七時。世間では紅白歌合戦が始まって一時間ばかり経ったころだ。裏番組のお笑い番組や歌番組も派手な幕開けとともに放映し始めた。
 ほとんどの家族がこたつに入ってみかんでも摘まみながら、早く乃木坂出ないかなとか、ガキ使は今年もやんないのか、とか思っていることだろう。中谷さんのように、高級喫茶で珈琲と煙草を嗜みながら、どうすれば学年トップの座を彼氏から奪えるかに思いを馳せる女子高生はまずいない。
 そう、中谷さんは静かに闘志を燃やしていたのである、恋人でもあり好敵手でもある、テニス部エースの原田くんに。
 先日、二学期期末試験の結果が発表された。次こそは……次こそは……呪文のようにその台詞を頭の中で繰り返し、高なる胸を押さえながら、中谷さんは配布された用紙を見た。トップ8まで表示された総合得点表の第一位、喉から手がでるほど恋い焦がれたその場所に「中谷めぐみ」の名前はない。今回も第一位は「原田英才はらだひでとし」が占拠していた。中谷さんの名前があるのは第二位の欄だ。
 第一位:原田英才。
 第二位:中谷めぐみ。
 太陽系の各惑星の並びが変わらないように、高校に入学してからずっと順位は変動していない。原田くんが水星で、中谷さんは金星だ。宇宙誕生とともに定められた法則が適用されているのかと思うほど、どうあがいても動かない。
 死ぬ気で勉強をし、コンディションを整え、やる気満々で望み、確かな手応えを感じた今回の期末試験でさえ、原田くんは中谷さんの得点を上回った。ほぼパーフェクトに近い点数を叩き出した。
 今回の首位との得点差は、わずか六点……いや、その六点の壁はうんと高くて分厚いと中谷さんは痛感している。歴史的に例えるならベルリンの壁に匹敵するほど瓦解は不可能に思える。漫画的に例えるならウォールマリアの壁くらい強固だ……いや、あの壁は1巻でさっそく崩壊していなかったっけ? 序盤しか読んでないから分からないな。続きはどうなったのかしら、と総合得点表を握りしめながら普段は読まない漫画の続きに思いを馳せるほど、中谷さんはパニックに陥っていた。
 期末結果に賑わう教室からは「またダブルス優勝かよ」「カップルそろってうらやましー」などと言った二人をはやしたてる声も聞こえたが、茫然自失ぼうぜんじしつの彼女の耳には届かなかった。


 ふっ、と中谷さんは笑い声とも溜息ともつかない吐息を吐き出す。その息にはタール5mgの紫煙が混じっている。
 彼女は実年齢よりも大人っぽく見える。聡明な顔立ちは美醜の点からも美しく、細身で背も高く、胸も大きい。適度な化粧を施し、カシミヤ生地のタートルネックに丈の長いレザースカートを履いた中谷さんを、若干十七歳の女の子だと見抜く人間はこの喫茶室にいない。
 高校に入学して間もないころ、中谷さんは自分の外見が他人にどのような影響を及ぼすかについて考えた。考えるだけでなく、入念に観察を行い、「かせるか」を検証した。周囲との理解力の差異から自分は頭が良い方だと早い段階で気づき、人並外れた努力で磨き上げた知性の他に、強みを作ろうと考えたのだ。
 そして、二番目の強み−−補助武器サイドアームとも言う−−は外見に宿していることを確信した。
 学年の男たちのほとんどが、中谷さんの美しい外見をえさにくだらない妄想を繰り広げていることを中谷さんは発見した。性格的にも外見的にも問題のある一部の女子から嫉妬しっとされ、根も葉もない噂を(裏でパパ活をやっているだとか、中学の時はヤンキーだったとか)流されていることも発見した。
 しかし、そんなことはどうでも良い。有象無象のティーンエイジャーが何を思おうと興味はない。
 私が興味のあることは一つだけ、どうしたら原田英才を追い越せるかと言うことだけだ。
 手始めに、中谷さんは原田くんに接近した。テニス部に仮入部し、原田くんと仲良くなった(勉学に支障をきたすので、テニス部は仮入部ののち退部した)。仲良くなってある程度の期間を経た昨年の冬に「好きです。付き合ってください」と告白した。「いいよ!」と原田くんはものすごく陽気に、ものすごく軽いノリで承諾した。こうして二人は晴れて恋人同士になった。いや、晴れるほどでもない、数学の微分積分を解くよりも簡単な問題をクリアしただけだ。雨が降ろうが雷が落ちようが、私たちは恋人同士になっただろう、と中谷さんは当時を振り返る。
 話はれるが、クラスの女子たちが恋の話で盛り上がるたび、中谷さんは不思議に思っている。付き合いたい異性の話を、なぜ同性で延々と相談し続けるのだろう。
 付き合いたいのなら、付き合いたい対象に「付き合ってください」と言えば済む話ではないか。そこに第三者の視点は関係ない。「今日は良い天気ですね」とか「ハンカチ落としましたよ」とか言うのと変わりない。
 この前○○くんに挨拶しちゃった!
 ××くんからのLINEの返信どうしよう!
と興奮気味に話す女子の輪にくわわり、表面上は同じような熱気をまとって耳を傾けつつも、中谷さんは内心で苛立ちを覚えている。いちばん煙草を吸いたくなる苦行の時間は、女子の人間関係を円滑にする目的を差し引いて余りある。お前らさっさと好きな男の元に行ってこいよ。私は煙草を吸いに行ってくるからよ、と喉元まで出掛かった言葉を飲み込んで、「そうよね、男の子と付き合うのって難しいわよね」と同意をしておく。
 人気者の原田くんと付き合い始めたことは、周囲に話すメリットがないと思ったので黙っていたが、いつの間にか学年中に知れ渡っていた。女子も男子も恋の話には目がない。なぜなら思春期の高校生は何事においても感情過多で、性欲に関しても有り余るほど持ち合わせがあるからだ。
 恋の話=性欲に関するアンテナは、メインキャリアの携帯電話会社の電波より強い。何を隠そう中谷さんが原田くんと付き合い始めたのも、原田くんの性欲を刺激して勉強も手につかないほど骨抜きにしてやろうという魂胆からだ。
 中谷さんはあの手この手を使って原田くんを誘惑した。手始めにさりげなさを装って、下校中に手を繋いだ。原田くんは中谷さんの手をぎゅっと握りしめ、上下に大きく振ってぶらぶらさせた。小さい子供がするみたいに繋いだ手は大きく揺れた。めぐみちゃんの手って冷たいねー! と原田くんは笑った。
 あれ? と中谷さんは思った。
 たまのデートではお化け屋敷やホラー映画鑑賞を希望し、しかるべきシーンで悲鳴をあげて抱きついた。めぐみちゃんは怖がりだなあ! と原田くんは言った。そして笑いながら中谷さんの頭をぽんぽんと撫でた。小さい子供をなだめるように。
 あれ? と中谷さんは思った。
 ついに今年の秋、横浜の赤レンガ倉庫でほどよい夜更けまでデートした後、中谷さんは「キスして」とせがんだ。
 「今日は良い天気ですね」とか「ハンカチ落としましたよ」とかの延長ではなく、声に色気をつけて(一人カラオケでエロい歌を歌って練習した)女の子らしい恥じらいも演技して(流行中の少女漫画を一通り読破し仕草を身につけた)口付けを乞うた。さらに原田くんの耳元で「今日は帰りたくない気分」とささやいた。
 ここまでやればさすがの原田くんも気づかないわけがない、と中谷さんは勝利を確信した。ルックスも頭も良い十七歳の女の子が「今日は帰りたくない」と言っているのだ。簡単に翻訳すると、このままホテルに直行して処女を奪って良いですよ、と言う意味だ。
 英語の「Apple」が日本語の「りんご」であるのと同じくらい簡単な翻訳だ。
 中谷さんは処女を捨てることにまったく抵抗がない。例え破瓜はかしても必要性を感じれば何度でも処女を売りにしようと考えている。しかし、本物の処女カードを切る相手は頭も外見も良い血統書つきの男でなければならないという独自の美学を持っている。
 つまり、自分を納得させる意味でも、原田くんを骨抜きにする意味でも、この誘いは一石二鳥なのだ。今日は煙草を吸っていないから灰の匂いを気にすることもないし、デートの前に百貨店の地下に寄ってDIORの香水も振りまいてきた。これで落ちない男はいないだろう。もちろん学力も一緒に下げてやる。中谷さんは意気込んだ。
 私は理性の化身であり、単なる肉体的快楽にほだされない絶対的な自信がある。女子特有の「付き合ってから彼の気持ちが分からなくて不安になる」というメンタルの弱さなどひとかけらも持ち合わせていない。
 さあ、さっさとキスしなさいよ。親には「友達ん家に泊まるわー」なんて言い訳をつけてとっととホテルに連れて行きなさい。
 ところが、耳元で「今日は帰りたくない気分」とささやかれた原田くんは首を傾げた。その意味を理解していない様子だった。真面目で精悍せいかんな顔に疑問符を浮かべて、なんで帰りたくないんだろう? と中谷さんが帰宅したくない理由について考えている。
 マジかよ、と中谷さんは思った。
 月期末テストで常に学年最下位のバカでアホな早乙女潤也さおとめじゅんやでさえ、私の台詞が何を意味するか察知できるはずよ。学年一の秀才・原田くんに限って、この誘いの意味が分からないはずがない。
 永遠と感じるほど長い考慮の末、原田くんはようやく激雷に打たれたように驚愕きょうがくの形相になった。
 中谷さんの双肩そうけんを掴むと、真剣な目で彼女の美しい顔を強く見据えた。
「今日、崖の上のポニョやるよ!」
 えっ? と中谷さんは目を丸くして言った。
 今、崖の上のポニョって言わなかった?
「地上波で、崖の上のポニョやるよ!」と原田くんは繰り返した。男前の顔に満面の笑みを浮かべて、再三繰り返した。崖の上のポニョやるんだよ!
「僕、ジブリの映画が大好きで! 「崖の上のポニョ」とか「となりのトトロ」とか、かわいい生き物が出てくるシリーズ。幼い妹と一緒に楽しく見ているうちに、僕の方がどハマりしちゃって。かわいいよね、ポニョ。トトロもまっくろくろすけも猫バスもかわいい。家にDVDとぬいぐるみがたくさんあるよ。僕の家族はみんなジブリの映画が大好きなんだ!」
「めぐみちゃんもそう思うでしょ?」と熱のこもった問いを受け、思わず中谷さんは頷いた。
「私もジブリの映画は好き!」
「そうだよね、みんな大好きだよね! 今から帰れば九時に間に合うよ!」
 それから原田くんは再び驚愕の表情を浮かべた。同時に頬が真っ赤に染まったことで「今日は帰りたくない気分」の前の台詞を思い出したのだろう。「キスして」という準キラーワードだ。
 自身の明晰めいせきな頭脳が出した推察を、何もかもがどうでも良くなりながら中谷さんは受け取った。
 原田くんは照れながら、中谷さんのほっぺたに口付けた……いや、口付けなんて大袈裟おおげさなものではない。キスとも言えない。唇と頬が0.5秒合致しただけのお粗末そまつな接触だった。
 おい、と中谷さんは心の中でツッコんだ。
 おい、いくらなんでもそれはないだろう。濃厚接触が騒がれている昨今でも、こんなもの接触のうちに入らない。キスだよ、キス。原田くん激推しの「崖の上のポニョ」でさえも、ラストで主人公たちがぶちゅーっとやっていたではないか。お前はあんなに小さな子供でさえやっている愛情表現も満足にできないのか!
 しかし、原田くんにとってその極薄ごくうす接触は大満足の結果であるようだった。デートの醍醐味をしてやったぞとばかりに、ふぅ、と感嘆の息を漏らすと中谷さんの手をとって、ぐいぐいと桜木町駅までの長い道のりを歩き始めた。
 嘘、冗談でしょ? 本当に直帰しようとしてるわけ? この早歩きは照れ隠しでもホテルに飛び込む前の勇み足でもなく、今夜のファミリー映画に間に合わせるためのものなの?
 えぇー! と中谷さんが愕然としているうちに二人は電車を乗り継ぎ、あっという間に地元の駅まで帰ってきたのだった。


 中谷さんは吸い終わった三本目の煙草を灰皿に置く。大晦日の非日常的な時間を一時間半も費やして原田くんを落とす(成績的な意味でも恋愛的な意味でも)作戦を考えたが、妙案は思いつかない。悶々と策にもならない空理空論くうりくうろんを巡らせた後で、一世一代の一線を越える誘いを振り切った原田くんのジブリ愛を思い出してしまう。まったくあの純粋さはなんなのだろう、と堂々巡りのふりだしに戻って中谷さんは頭を抱える。
 あれほどの純粋さを持ち合わせていながら、私でさえ引っ掛かった意地の悪い数学の引っ掛け問題を難なくクリアできたのはなぜだ。純粋な人間は、引っ掛け問題を引っ掛け問題とも思わず純粋な心で突破できるものなのだろうか。数学の問題はまだ良いとして、学期末は保健体育の問題も出題された。原田くんは完璧に男女の身体の仕組みの違いを理解していたのに、なぜ……なぜ……。
 男の子って難しい。「ディオゲネス・クラブ」に出入りしているマイクロフト・ホームズでさえ解けない謎ではないだろうか……とお手上げ状態の中谷さんが何度目かの途方に暮れたとき、携帯電話が振動した。連絡元は母親で、大晦日に塾での自習は見上げたものだけれど早く帰っていらっしゃい、と言う。
「めぐみさん、おじいさまがお見えになっているのよ。めぐみさんのお顔が見たいって楽しみにしていらっしゃるわ」
「分かったわ、お母さま。この問題を解き終えたら、すぐに帰ります」
 この問題、と中谷さんは心の中で繰り返す。原田くんを落とす問題。
 ……今年中には無理だ。
「ええ、気をつけて帰っていらっしゃいね。少し早いけれど、おじいさまからお年玉を預かっているわ……きちんとおじいさまの御前ごぜんでお礼を伝えて差し上げてね」
「もちろんよ。今年のお年玉もありがたく参考書代に使わせていただきます。それじゃあ、またあとで」
 電話を切り、中谷さんは通学カバンを探る。灰のにおいを消すために忍ばせてある、口臭除去タブレットを摂取し、においのつきやすい衣服を中心に消臭剤を振り掛ける。それから鍵付きの日記帳を取り出しページを開く。日記帳は紙の真ん中を切り取って空洞化してある。これが中谷さんの煙草ケースだ。KENT エス・シリーズ・スパーク 5とジッポライターを四角型の空洞の中へ丁寧にしまい、鍵をかける。
 原田くん攻略戦は一旦脇に置いておこう。中谷さんは気持ちを切り替える。なんと言っても今日は大晦日、中谷一族が一堂いちどうかいし、年越しを祝う大宴会が開かれる。有象無象の中谷姓が集う祝賀会で交わされるやりとりなどに興味はない。
 私が興味のあることは一つだけ、おじいさまをはじめとする、年配の親族から貰えるお年玉の金額だけだ。
 毎年十数万にのぼる親族からのお年玉は、例年に漏れずすべて個別株に注ぎ込む予定である。
 配当金が楽しみだな、と中谷さんは思った。