にがい煙草

にがい煙草

そうだった。もう、慎吾はいないんだっけ。
無神経な誰かの灰が煙ってくるたび、橙子はそう思う。今日は駅の喫煙区域の前を通って、また自覚した。
慎吾には、もう会えないのだと。


 「慎吾、慎吾」と呼び捨てにしていたが、思えば彼と自分は五歳くらいの年の差があった。
それでも彼を呼び捨てにすることに何の違和感も遠慮も抱かなかったのは、慎吾が高校生と言っても良いほど、童顔だったからだ。
高校の制服を着た橙子と一緒に街を歩くと、同年代の彼氏か、さほど年の違わない兄妹に見えた。
街を歩くたび慎吾はさりげなく人の目線を気にしながら、
「もう後五センチくらい背が高かったら、こんな顔でもどうにかなったんだけどね」
と呟いていたっけ。
橙子は視線を宙に泳がせたまま、二週間前まで恋人だった彼に思いを馳せる。その間も誰かの煙草の臭いが鼻をくすぐる。

慎吾のことでまず思い出すのは、匂い。男物のしつこくない香水と、薄い薔薇の香り。
これは、BLACK DEVILという煙草からくるものだった。
BLACK DEVILはマイナーというか、風変わりな煙草。というのも、お菓子のようにフィルターがピンク色なのだ。背の低い慎吾がピンクのBLACK DEVILを吸うと、どことなく可愛かった。
「これ、薔薇の香りがするんだ」
最後の日、慎吾が言った。 その日はちょうど二人して、お笑い芸人が監督だか原作だかのコメディー映画を見に行った帰りで、ずいぶん夜も更けていた。帰りの車の中で、慎吾は早速お気に入りのピンクフィルターを口に銜えた。
「おもしろい煙草だろ。BLACK DEVIL、火をつける前は強烈な薔薇の匂いがするんだけれど、火をつけるとすぐに灰の臭いにまぎれて分からなくなってしまう。だから僕は火をつける前のBLACK DEVILが好きなんだ」
「吸う前の煙草が好きだなんて、ヘンな話」
「僕はなんでも、始まりが好きなんだよね。食事は大抵メインディッシュよりオードブルの野菜の方が好きだし、映画も終わりが近づくにつれて、段々つまらなく思えてしまうし。飽きっぽい人間だからこそ、始めの部分が好きなのかも知れないね、なんだか新鮮で」
橙子は慎吾が安っぽいライターで火をつけるのを待っていたが、何を思ったのか慎吾は銜えていた煙草を橙子に差し出してきた。ピンクのフィルターが慎吾の唾液で緋色に濡れている。
「ちょっと橙子ちゃんも吸ってみなよ。薔薇のいい匂いだよ」
「だって私、未成年だし、煙草の吸い方なんて分かんないよ」
「いや、本当に吸えなんて言ってるわけじゃなくって――僕、これでも良識ある大人だからね。女子高生に煙草なんて薦められないよ――ちょっと吸う真似してみなよ。本当に薔薇を食べているような感じがするんだよ」
「うそだぁ」
半信半疑で、橙子は慎吾からBLACK DEVILを受け取った。
口に銜えると、慎吾の言うほどのことでもない。微かに薔薇の香りがしただけだった。薔薇というか、水で薄めた香水を振りまいているような香り。慎吾の匂いだった。
「全然分かんないや」
薔薇の匂いは、その後のキスの間中ずっと香っていた。薔薇の匂いと苦いキスの味。BLACK DEVILを吸わなくても、その芳香と苦味は慎吾の口から伝わってくる。女子高生に煙草を薦められないなんて言いながら、しっかり煙草を吸わせてくるじゃないか。
車内に充満した煙草の煙に、少しだけ頭がくらくらしながら、橙子は思ったのだった。

それが慎吾と会った最後だった。その日から急に連絡を遮断された。電話をかけても繋がらない。メールを送っても宛先不明で返ってくる。
二人を繋ぐか細い糸はあっさりと断ち切れた。まるで、煙草の火を足で潰すように、跡形もなく消えた。
〝僕はなんでも、始まりが好きなんだよね。〟
あの時、慎吾はそう言っていた。〝飽きっぽい人間だから、始まりが好きだと。〟
自分は彼に飽きられてしまったのだろうか。BLACK DEVILの吸い始めの、薔薇の匂いを楽しむ時間は、もう終わってしまったのか。
(後には、苦い煙しか、残されていなかったの?)


「橙子!」 電車に乗って地元の駅に降りると、誰かが橙子の名を呼んだ。思わず声のする方を見ると、
「あ、やっぱり橙子だぁ!探したんだから!」
「瑠璃姉ぇ……」
改札口で手を振る姉、瑠璃子の姿があった。にこにこしながら、早くおいで!と手招く。
瑠璃子の後ろには彼女の愛車、ミニバンが行儀良く停車している。
「瑠璃姉ぇ、なんでここにいんの?」
「橙子を迎えに来たに決まってるでしょ。最近、私仕事忙しくて、全然橙子に会ってなかったじゃない?だから久しぶりに、一緒にショッピングに行きたいなと思って」
『思い立ったが吉日』がモットーの瑠璃子らしい行動である。いつも人の都合を考えずに計画を立ててしまうが、そこは愛すべき短所だった。
センチメンタルから立ち直って、ここは女ではなく妹を演じる役所だ。姉と言えども、自分が五歳も年上の男と付き合って、結局音信不通になってフラれてしまったということは話していない。絶対に、悟られたくなかった。
橙子は大げさに肩をすくめた。
「もう、瑠璃姉ぇはいっつも人の都合考えないんだから。あたしだって色々忙しいんだよ?」
何も知らない瑠璃子はクスクス笑いながら橙子の肩を突っつく。
「まあ、もしかして彼氏でもできたの?紹介しなさいよ、ランクつけてあげるから」
「……瑠璃姉ぇこそ、あたしより彼氏と買い物に行けばいいじゃん」
「彼とは毎週会ってるからいいの。たまには姉妹で買い物も楽しいじゃない?」
瑠璃子は無理やり橙子を車の助手席に乗せる。瑠璃子専用のミニバンには、彼女が愛用しているANNA SUIの香水が香っていた。
慎吾の車とは違う、助手席。思えば、あれ以来、車の助手席には座っていなかった。
「どこ行こうか?橙子が決めていいわよ」
「そんなこと言われても困るよ。瑠璃姉ぇ決めてよ」
橙子は車のサイドボックスからCDを取り出す。白色のCD-Rで、題名は書かれていない。
CDをプレーヤーに挿入すると、緩やかに流れるピアノのイントロ。
宇多田ヒカルの「First Love」だった。