落ちた火種

落ちた火種

 げっ、と早乙女くんは思った。思ったどころか、実際に「げっ」と呟いてしまっていたらしい。その声が、今回のお話のきっかけになるとも知らずに。
 今、早乙女くんがいるのは、早乙女くんの自宅から百メートルほど歩いたところにある児童公園。公園といっても大したことはない。小さな砂場と、ピンク色のベンチ、 さびた鉄棒、小さな滑り台(ちょうど滑り台の上には早乙女くんが座っている)。
 うまい具合に危険性のありあそうな遊具は回避された、面白みのない都内の隙間だ。スリルのない遊具に子どもたちは惹きつけられない。
 早乙女くんはここで遊んでいる子どもの姿を見たことがない。だからこそ、この場所は早乙女くんの格好の喫煙所となっていた。児童公園という名前をやめて、早乙女専用喫煙公園としてもいいくらいだ。夜のお散歩(徘徊ともいう)の最後にこの公園で一服して家へ戻るのが早乙女くんの日課だった。もう一年くらい、欠かさず続けている。そうしないと気持ち良く眠れないところまで来ている。
 そんなことはどうでもいいとして、なぜ早乙女くんは「げっ」という昨今では中々聞かれないげんなりした台詞を呟いたのか。
 それは、早乙女くんの真向かいにあるピンク色のベンチにテニス部エースの原田くんが座っていたからである。
 一体いつからそこにいたのだろう。そこはかとない視線を感じて早乙女くんがベンチに視線をやると、いつの間にか原田くんがテニスラケットを片手にこちらを凝視していたのである。
 その瞬間、確かに早乙女くんの「時」は静止していた、唇に咥えていたNANOTEK KENTの4ミリがぽとりと手の甲に落ち、弾かれたような痛みで我に帰るまで。
 KENTの細い、ストライプ柄のフィルターが滑り台を転げ落ちて、砂場に不時着する。赤いほのおが砂に埋もれて、早乙女くんと原田くんの間には、公園の街灯が一本、仄明るい光を放つだけになった。
 殺そう。
 早乙女くんはそれからコンマ数秒の内に決意した。同級生に喫煙現場を見られたからには、生かしてはおけない。
 原田を、殺そう。
 でも、と早乙女くんは考える。
 でも……武器がない。原田の野郎をろうにも、こっちは丸腰。反対に向こうは頑丈なテニスラケットを持っている。立ち向かっていったところで勝敗は目に見えている。
 逃げよう。
 その後コンマ数秒のうちに、早乙女くんが導き出した結論はこれだ。逃げる。俺の喫煙現場を見られたからには、逃げるしかない。原田の野郎から逃げる。ランナ・ウェイ。ランナ・ウェイ。ゴーイング・マイ・ウェイ……。
「早乙女」
早乙女くんがまさに尻尾を巻いて逃げだそうとした瞬間、水をはじいたように凛とした声が届いた。誰のものでもない、それはやっぱり原田くんの一言で、殺すことも逃げる事も出来ずに早乙女くんが固まってしまっていると、またもや「早乙女」と声がして、前方からきびきびしたスポーツマンらしい足取りで原田くんがやってくるのだった。
「どうして、俺の名前を知っている」
まるで一昔前の少年漫画のニヒルな主人公のような台詞を、つっかえつっかえ早乙女くんが吐くと、滑り台の足もとまで来ていた原田くんは未成年喫煙者を仰ぎながら、ははは、とこれまたスポーツマンらしくさわやかに笑った。
「やっぱりお前、野球部の早乙女だったか。髪の毛あるから、一瞬誰か分かんなくてさあ」
 言われた早乙女くんは無意識に自分の頭に手をやる。茶髪に染められたツーブロックが軽く手のひらを撫でる。坊主だったのは、一年以上も前のことだ。野球をやめてから伸ばし続けた髪の毛は、今はうなじを撫でるほどにまで伸びている。早乙女くんは後頭部を撫でながら、原田にどう返事したものか、思いあぐねた。自分が早乙女という名前を持つ元野球部員であることを向こうは完全に認知している。今さら、別人を装えない。かといって、自分が早乙女であるということを認めてしまったら、それは原田と同じ学校に通い同じ学年に所属する元・野球部の早乙女のことで、さらには未成年喫煙者であるという事実をも認めてしまうことになる。どうしたものか。やはり原田を殺すしかないのか。
「俺のこと覚えてる? 三組の原田だよ。一年の時、一緒に卓球やっただろ? 体育の時間にさあ」
殺す殺さないの瀬戸際に立たされているとも知らずに、原田くんは破顔に近い、心の底から嬉しそうな顔で早乙女くんに問いかける。
「覚えてる?」
覚えてる? と聞かれたら、覚えてる、と答えるしかない。最近どうよ? いや、普通だよ、程度の取りとめのない会話を交換しながら、早乙女くんは原田くんの足の下に埋もれたKENTのフィルターを思っていた。フィルターというには遠く、まだ三口ぐらい吸えた。長さにしたら三分の一くらいだ。KENTは410円。一本が20円。その三分の一というと、約7円。もったいないことをした……。
 いつの間にか会話が途切れていたので、沈黙を許せない現代高校生の反射作用でつい早乙女くんは聞いてしまった。
「お前は、ここで何をしてるの?」
「何って、テニスの練習だよ。来月に県大会があるからさ」
 そういえば、高校の部活棟の歩道に面した壁面に、「テニス部県大会出場!」と書かれた大きな垂れ幕があったことを早乙女くんは思い出した。白い十メートルほどの段幕に、書道部が気合いを入れて一筆した、母校自慢甚だしい垂れ幕だ。なるほど、県大会に出場するのは、原田だったのか。
 すごいな、とほんの一瞬ソンケイの念を覚えてしまい、早乙女くんは慌てて、首をぶるぶる振る。それから、これがせめてもの反抗だというように、自分の演技力の精一杯をこめて、いかにも無関心な装いで「ふぅん」と呟いておいた。
「それじゃあ、俺、もう行くわ」
幾分か不自然な流れだったが、早乙女くんはするすると滑り台から滑り降りた……それが、いけなかった。
 慣性の法則だかなんだか知らないが、早乙女くんが砂場に着地したと同時に、勢いあまってポケットに入っていたKENTがポトリ、と地面に落ちてしまったのだ。原田くんはあれ? という顔で、煙草の箱を拾い上げる。あああああああやめてくれええええ!、と言葉にならない叫びを、言葉にするとカッコ悪いので心の中だけで叫んでいると、原田くんは、あはははは、と爽やかに笑ってKENTを早乙女くんに返すのだった。
「早乙女もワルだなあ、先生に見つかんないようにしなよ」、と原田くんが言ったのかどうかは定かではない。
 それ以前に、煙草がポケットから落っこちた瞬間からその後の記憶がない。気がついたら早乙女くんは自分の部屋のベッドに寝転んでいて、部屋のCDラジカセからはジミー・ヘンドリックスのベストアルバムの最後に収録されているアメリカ国歌が、うねうねと聞こえてくるだけだった。間奏に入る、ズドドドドド、と戦闘機を模したジミヘンのギターサウンドに紛れて早乙女くんは深呼吸。
「うぉおおおお! ばかやろーばかやろぉー!」と叫んだと同時に、隣の部屋から大学生になる早乙女くんの兄貴がばぁん! とドアを開けて、「潤也、うっせぇぞ! いい加減にしろ!」、早乙女くんの頭に硬い拳骨を落とし、早乙女くんは泣きながら深い眠りについたのだ。


 次の日の昼休み、橙子が屋上に向かうと既に早乙女くんはやってきていて、緑色のフェンスに身体をもたせかけて、テニス部の練習試合を観戦しているところだった。
 橙子も早乙女くんの隣で目下を伺うと、まさに、テニス部エースの原田くんが鋭いスマッシュを決めたところだった。
「わあ、すごいなあ」と思わずあげた橙子の感嘆の言葉を聞きながら早乙女くんは持っていたNANOTEK KENTの4ミリに火をつける。煙を呑みこみながら、何気なく呟いた早乙女くんの一言に、橙子は心底ギョッとしてしまった。
「原田って、ホントはイイ奴なのかな……」