どうしてそんなものが旨いのか理解できない

どうしてそんなものが旨いのか理解できない

朝起きると、薫の頭にはこの台詞が残っていた。どうやら夢を見たらしい。内容は覚えていないがとにかくこの一言が深く胸に残ったのだ。夢の中で、はっきりと言われた。
 夢にでてくる台詞や景色は、夢を見た人間がかつて一度は目にした光景、耳にした台詞であると言う。そんな知識をどこかで取り入れていた薫は、夢の台詞が、現恋人・澤田秋に言われたものかと思ったが、なんとなく腑に落ちない。そもそも、夢の中で聞いた声は、秋の張りのある若々しい声ではなかったような気がする。もっと女性的で艶めかしく、落ち着いていて……。
 そうだ! と薫は閃く。
 あの落ち着いた、雨に濡らされたような声は元彼女の声だ! 彼女の捨て台詞だ!
 研磨剤入り歯磨き粉で歯を磨きながら、薫はうわぁぁと思った。夢の中の叱責を思い返せば思い返すほど、あの声はほんの数か月前まで付き合っていた元カノだという確信が塵のように心の中に積もっていく。うわぁぁぁ、と思いながらも薫は一昔前に起きた苦い味のする恋の日々を回想していた。


 元彼女とはどこで知り合ったか、記憶にない。誰かの友人だったような気もするし、宵の更けた新宿の地下BARで一人飲んでいたら、彼女の方から声を掛けてきたようにも思う(信憑性が高いのは前者だ。後者は、自分で記憶操作を行った可能性の方が高いと薫は自覚している。)
 薫より一回りも年上だった彼女は、元ホステスで少し前にちゃんとした夫がいたらしかった。悩ましげに頬の辺りでウェーブした黒い髪の毛と細い眉毛が印象的な、「女」という生き物を象徴するかのような彼女。一目彼女を見た時、うわぁぁと薫は思ったものだ。杉本彩以外にこんなにセクシーな人が存在することに、感動したのだ。そしてそれ以上に、取って食われそうで、恐かったのだ。
 杉本彩張りの美女とどうしてお付き合いをさせていただけることになったのか、薫はもうよく覚えていない。ただ彼女との愛の日々の中で強烈に記憶に焼き付いているのは、彼女が極度の煙草嫌いで、家に健康関連のグッズがたくさんあった、ということだった。デートをする時、彼女はいつも禁煙グッズを持って来た。煙草を吸おうものなら、「どうしてそんなものが旨いのか理解できない」と制された。薫のセブンスターは全て押収され、代わりに禁煙用の電子パイポを持たされた。欲望を制御され、薫は麻薬課に異動になった時は薬物中毒の犯罪者にはできる限り優しくしてあげようと心に決めた。
 禁煙に耐えきれず、一ヵ月ほどで彼女とは破局を迎えた。彼女のマンションの駐車場で、隠し持っていたセブンスターに火を付ける瞬間を目撃されてしまったのだ。午後四時二十分、現行犯逮捕だった。
「どうしてそんなものが旨いのか理解できない。」
最後に、彼女は言った。薫を見上げる目は虚ろだった。
「灰を体に取り入れて、何が楽しいの。貴方、純情そうな、すごく可愛い顔をしているのに、どうしてそんな悪いものに魅入られてしまったの。もっと、可愛がってあげようと思ったのに、お別れね」
彼女は薫のくわえていた煙草を取り上げると、唇にキスをして、マンションへと帰って行った。薫はその場に立ちすくんだまま、うわぁぁと思った。杉本彩のセクシーなDVDの中でしか言われないような台詞を吐かれて、感動したのだ。そしてそれ以上に、取って食われた後の、平凡な日常に、感動したのだ。
 彼女の前の夫が彼女と別れることになった理由が、なんとなく分かってしまった。セブンスターのソフトパッケージから新たに一本取り出して火を付ける。二週間ぶりに肺胞まで届いた恋の終わりの、大人の味を感じないでもなかった……。


 歯磨き粉を吐き出し、うがいを終えると口の中が爽快な味で満たされた。薫は研磨剤入りの歯磨き粉を洗面台の棚に置く。これは煙草の容認と引き換えに秋が出した条件だ。
「煙草は吸ってもいいけど、歯にヤニとか残さないで! 毎日研磨剤で歯を磨いて! あたし、口内環境には命かけてるの。カオルもちゃんとやってよね。」
薫は鏡に向かって「イ」の発音の形に歯をむき出す。研磨剤でヤニどころか歯の表面も削られて、ヤニも黄ばみも白みもない透明な前歯がきれいに並んでいる。最新の医薬品の効能に薫はうわぁぁと思った。