同じ匂い同じ煙草

同じ匂い同じ煙草

香ってくる、煙。突然蘇る、記憶。トラウマのように、自分の心を傷つけて忘れられない。
 どうしようどうしようどうしよう……、橙子はその場に立ちすくんだまま動けないでいた。なんで、自分はここにいるのだろう。誰かが故意に自分を此処へと仕向けたのではないかと疑う。
 ピンク色の煙草を咥えた彼の口が曖昧に歪んだ。向こうも、どうすればいいか分からないらしい。お互いを無視するタイミングを逃したまま、二人は動けないでいる。
「慎吾……」
 カラカラに渇いた喉から、か細い声が漏れる。ついさっきまで、姉と携帯電話で話していた時の自分の声とは全然違う。橙子は自分の心臓がありえないくらいの速さで脈打っているのを感じた。
 二ヶ月前に別れた男、慎吾は軽く頷くと少しはにかんだ。吸っていた煙草を近くに設置されていた灰皿の端でもみ消すと、そのまま穴の中へ捨てる。それだけの仕草なのに、懐かしみが湧いてしまう。そんな自分に、橙子は驚きを隠せない。
 聞きたい事は山ほどあった。どうして携帯が繋がらないの? どうして何も言わないの? わたしは、捨てられたの……?
 喉元まで出掛かっているのに、橙子はどうしても言えなかった。口の中に溜まる唾液を飲み込むと同時に、それらの疑問も腹の中へしまう。早くこの場から立ち去りたかった。新宿駅の西口では、早番上がりの姉が、空きっ腹で待っているのだ。この場から立ち去る理由はいくらでもある。少しだけ慎吾と挨拶を交わして別れればいいだけのことだ。それなのに、言葉が、何も出ない。頭の中が白くなって、逃げの動作すら起せない。
「橙子ちゃん久しぶりだね。元気だった?」
はにかんだままの笑みで、慎吾は言った。とりとめのない社交辞令だった。たまたま会った知人に向ける、差し障りのない挨拶。こういう時の対処の上手さで、慎吾は自分よりも何歳も年上なんだと改めて感じる。
「うん、元気だよ」
「そっか。それなら良かった……。僕は今、仕事の昼休み中なんだ。橙子ちゃんは?」
「あっ、えーと、お姉ちゃんとランチを食べに……」
「そっか、お姉さん、いるんだ。じゃあ、早く行かなきゃマズイね」
「あ、うん。もう行かなきゃ」
「うん、じゃあまたね」
「うん、また」
 お互いに片手を挙げ、にこりと微笑む。慎吾は二ヶ月前と変わらない、大人の癖にあどけない笑みだった。対して、自分の顔は引きつった苦笑いに見えただろう。微笑んだとき、頬が突っ張って、痛かった。リップクリームの塗っていない唇が裂けたような感覚がした。
 その気になれば、怒鳴る事もできた。二ヶ月前に別れた理由を問い詰めて、吐かせることもできた。もっと話し合えば、もしかしたら――復縁することも出来たかもしれない。それなのに、自分はそうしなかった。慎吾の作った流れに身を任せて、離別した。もう二度と会うことはないと分かっていても、「またね」。頭の中で何度も今のやり取りがリピートされている。

またね、またね、またね……。

 慎吾の傍を通り抜けたとき、灰と化した薔薇の芳香が漂ってきたような気がした。
その後、新宿駅のショーウインドウで自分の顔を確認してから、橙子は姉・瑠璃子の姿を探した。