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 楽しい、毎日。
 楽しい。楽しい。楽しい。楽しい。
 でも、何かが欠けている。
 夏休みが始まるというのに、なぜだろう。
 ボクは夏休みが始まってほしくない。

 目を覚ました。
 気だるさも、眠気の余韻もない。心はひどく落ち着いていて、たった今産み落とされたばかりのように視界に映る景色を新鮮に感じる。
 窓から月の光が降り注ぐ。
 真夜中だ。
 起き上がって、辺りを見回す。
 右を見る。
 左を見る。
 上を見る。
 視線を元に戻す。
 何かが目から零れ落ちた。

「……う?」
 目をこする。指先が濡れている。
 これは、涙?

 ……ぽろっ。ぽろっ。ぽろっ。

 止め処なく溢れ出て、裸の胸の上に落ちた。しばらく流れるままにしておいた。にわか雨みたいにそのうち止むだろうと思っていた。
 でも、全然止まなかった。
 涙が出るのは、悲しいからだ。ボクは悲しいのか。毎日は楽しいことであふれているのに、ボクの周りは大切な人たちであふれているのに、それにもうすぐ夏休みが始まるんだ。楽しい楽しい夏休みだ。悲しいことなんて何もない。
 それなのにボクは、とても悲しい。
 渡り鳥が飛び立つように、満ちた潮が引くように、何かが変わろうとしている。
 嫌な予感が降ってくる。名状しがたい不安、恐怖、絶望、哀しみ、怒り、苦しみ……眠りと一緒に訪れるそれらから逃れることのできないまま、試験期間が終わってしまった。満点が取れたはずの問題をたくさん間違えた。
 廊下に張り出された総合得点の順位表は三位だった。常に一位のボクにはあり得ないことだが、そんなことはどうでも良い。

 夏休みが、始まった。

 強い日差しに、冷たい風。えっちらおっちら坂道を上り、「空中図書館」へたどり着く。クーラーの効いた館内のふかふかの椅子に沈み込む。あわや気絶しそうになりかけたのを、むせかえるような百合の匂いに助けられた。
 気を取り直し、立ち上がる。館内を抜けて裏庭へ。切り立った崖の上から海を見晴らすように白亜の墓石が並んでいる。
 ここは、図書館の裏庭にひっそり作られた霊園。「星屑の病」によって召された者たちは、みんなここで永い眠りに就く。もちろん、ボクの大切な人も。
 人差し指で、墓石に掘られた名前をなぞる。

 TSUMUGU KUSUNOKI

 父が好きだった百合の花を手向け、手を合わせる。
 静かだ。鳥の鳴き声一つ聞こえない。
「父上」
 冷たい風が乾いた唇に吹きつける。
 唇を湿して、始める。
 世界一尊敬する人物との、秘密の会話。
「父上……ボクは自分が分からなくなりました。ひとり泣き濡れたあの夜から、捉えどころのない不安に脅かされています。この不安は思春期を超えるための通過儀礼に過ぎないのでしょうか。それともボクの第六感が禍事まがごとの気配を感じ取っているのでしょうか。
 ……どちらにしても、怖い。変わることの恐怖。未知なるものの訪れる恐怖。あるいはその両方が、襲いかかろうとしている。ボクはただ、ありのままでいたいだけなのに」
 目を閉じて、思いを馳せる。こんなとき父上なら何と言うだろうと想像する。
 父と過ごした記憶はあまりにも遠く、掠れた追想に映るのは大好きだった笑顔だけ。時を重ねるごとに薄くなる影を掴んで、掴み損なって、ついに笑顔だけになってしまった。記憶とは何と曖昧で、儚いものなのだろう。
 大好きな人たちが死んでしまったら、父上みたいに笑顔しか思い出せなくなるのだろうか。
 大好きな人たちより先にボクが死んでしまったら、表情の乏しいボクは笑顔すら遺せないかも知れない。
 心の変化。記憶の風化。高校二年生。進化を急かされる、夏休み。
 父の墓石に一礼をして立ち上がると、夏の日差しに立ちくらんだ。思わず墓石に手をつき、その冷たさにぞくっとした。
 慌てて手を離し、そして、不意の予感に襲われた。

 嫌な、予感……。

 背後を振り返る。崖の向こうに海が見える。何艘もの船が行きかい、水面はきらきらと輝いている。「純正品」とラベルを貼りたいくらい美しい景色の中に、一つだけ違和を感じる物が混じっている。

 ――灯台。

「うん?」
 声が聞こえた。女の声だ。きょろきょろと辺りを見回す。ひざ丈ほどの低い墓石が並ぶ霊園に人の隠れる場所はない。崖下を覗いてこちらにも人が隠れていないことを確認する。
 気のせいかといぶかりながら父上の墓石へ引き返そうとしたところ、

 ――あの灯台はニセモノだ。

 再び、声が聞こえた。
 これで風音である可能性も、空耳である可能性もなくなった。墓地の隅から隅へ視線を走らせながら尋ねる。
「君は誰だ? どこにいる?」

 ――あの灯台は、ニセモノだよ。

「灯台がニセモノってどういうことだ? 君は一体、何者なんだ?」

 ……白昼夢と呼ぶのにふさわしくないのなら、あれは追想だったのだ。

 墓場を視界に映しながら、視覚とは違う感覚を通じてボクは女の影を見た。真っ白な光の中で、青く長い髪が魚の背のようにうねっている。赤い唇を微かに開いて女は言った。

 ――ボクは、知っているはずだよ。

「……わっ!」
「ふにゃあああああああっっ!」
「わあっ!?」
 虚を突かれて、悲鳴を上げてしまった。その声に驚いて、悪戯いたずらを仕掛けた張本人も情けない声を上げる。
振り返ると気恥ずかしそうに笑うセツナがいる。
「こら、セツナ! 墓地でしょうもない悪戯を仕掛けるな!」
「ごめん、ごめん……そんなに驚くなんて思わなかったから」
「ネムルちゃん、すっごく大きな声だね!」
この声はさりゅだ。優しく垂れた目を細めてにこにこと笑っている。
 さりゅは胸の前で大事そうに手提げを抱え、セツナは私服に似合わない通学鞄を肩に掛けていた。大方、セツナは受験勉強。さりゅは新しい絵本探しといったところか。ナギがいないところを見るに、炎天下のグラウンドを走り回るという物好きなことをやっているのだろう。
「そっか。もうお盆だもんね」
 納得顔でセツナは頷き、さりゅと一緒に父の墓に手を合わせてくれる。
 困り事ができたら真っ先に父上に相談する習慣が今なお残っているだけだったが、その厚意をありがたく頂戴ちょうだいしておく。
 墓参りが済んだあとで、灯台について聞いてみた。レムレスの灯台はいつからあるのか。いや、灯台なんてなかったはずだ、と素直に思うところも述べた。
「灯台がない? そこにあるのに? ……あたし、哲学的なことは分かんないわよ」
「哲学的じゃなくて、むしろ物理的な疑問なのだが」
「灯台なら目の前にあるでしょ。いつでもあの場所に建っているじゃない」
「それは、そうなのだけど……」
 歯切れの悪いボクの答えに、セツナも困惑気味だ。
 幼いながらにボクたちが困っているのを感じ取って、さりゅが言葉を紡ぐ。
「さりゅは、灯台祭が好き」

 灯台祭……。

「りんご飴が食べれるから。金魚すくいと、輪投げもやりたいな」
「今年も楽しみね。ナギも誘ってみんなで行きましょ」
 セツナがにこっと笑いかけたあとで、
「ところでネムル、あたしたちは家に帰るけど、あんたも来る?」
「貝殻の本、見つけたの!」
 がさごそと手提げバッグをまさぐって、さりゅが一冊の本を取り出す。アレンジメントの本だ。表紙に加工された貝殻グッズが載っている。
 試験前に拾った貝殻は、まとめてセツナの家に置いてあったはず。
「貝殻でネックレス作ろうと思って」
「さりゅはリース!」
 色とりどりの貝殻。夕暮れの砂浜。眩しさ。切なさ。
 感情が、とろとろと美しい方へ流れだしてゆく。
たで食う虫も好き好きと言うが、君たちは本当に手作業が好きだな」
「あら、あんたはんだづけ好きじゃない。はんだづけも手作業じゃないの?」
「はんだづけは哲学だから」
「何よそれ」
「電子工作は人生」
「意味分かんない。あんたの言ってること、だいたい意味分かんないけど」
 セツナが笑う。ボクの不安はその笑顔にかき消される。心からわずかに飛び出た引っ掛かりなど、容易よういに押し流されてしまって、ボクはまったく悩み事のない人間のように、霊園に背を向けてしまう。

 楽しい。楽しい。楽しい。楽しい……。
 夏休みの第一日目。

 好きな人と一緒にいる。



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