2 終業のベルが鳴って、帰り支度をする。今日は七月一日。期末試験に向けて、授業も短縮されている。クラス中で飛び交う会話は試験のことばかりだが、遊ぶ時間が増えてボクは嬉しい。 試験が終われば、長い夏休みがやってくる。セツナともナギともたくさん遊べる。今から楽しみでならない。 「あと一週間で試験かあ。数学、不安だなあ」セツナが溜息を吐く。 「オレは国語かな。文章を読んでいるうちに眠っちまいそうだ」話している傍からナギが欠伸をする。 「ネムルは良いよな。どの教科も余裕だろ?」 「余裕というほどではないが、満点は取れるだろうな」 「そういうのを余裕って言うのよ」 セツナに頭を撫でられる。 知識を収集するのが楽しかった子供のうちに、大学生以上の学力は身についてしまった。自分が天才である自覚はないが、周囲の人の話を聞くにどうやら天才であるらしい。 父上からは、常々こう言い聞かせられたものだ。 ――ネムル、天賦の知性は先の道で、お前を助ける武器になる。だからこそ使い方に気をつけろ。鋭い剣を持つ者は、剣によって己を亡ぼす危険を常に孕はらんでいるのだ。 あれ? とセツナが素っ頓狂な声を上げた。 指さす先に、男がひざまずいている。腕を伸ばして、自動販売機と地面の隙間を探っているようだ。蒸し暑い初夏の午後にレザーコートを着こんだ人間は、街中を捜しても一人しかいない。 「あれ、探偵さんよね……何をしているのかな?」 「知りたくもないが、無視できそうにないな」 ボクたちに気づいた探偵は、土に汚れた顔を上げて気まずそうな笑みを浮かべた。 「よ、よお……学校はもう終わったのか?」 「試験前だから短縮授業なんだ。君はこんなところで何をしているのかね?」 「またくだらない仕事を引き受けたんだろ」とナギ。 セツナも頬を掻きながら苦笑している。 「街に住む金持ちのペット捜索だよ。ギャラを聞いたらお前ら目ん玉飛び出るぞ……しかし、自販機の下に入り込んだまま全然出てこない。こりゃあネズミでも使っておびき出すしかないかな」 探偵が喋っている間に考える。自販機の隙間に入り込める動物の種類は限られている。猫の入れる大きさではない。ネズミでおびき寄せられるということは肉食だ。探偵を雇って捜査させるくらいだから、よほど珍種なのだろう。 そんな論理立てをしなくとも、女の子らしい直感に優れたセツナは早速後ずさりを始めている。 「ん? この感触は……おおっ、捕まえた! やった! 半日ねばった甲斐があったぜ!」 探偵が嬉しそうに捕れたての獲物を見せつける。やはり、蛇か。 珍しい模様をした太い蛇が探偵の指の間から顔を覗かせている。 おめでとうと言いたいところだが、ごく普通の女の子であるセツナの前で爬虫類を見せつけるとは、探偵も詰めが甘いな。 「いやあああああっ!」 恐怖に満ちたセツナの悲鳴。反射的にナギが探偵に蹴りを入れる。 吹っ飛ぶ探偵。宙を舞う蛇。 魔の手を逃れた彼女は、にょろにょろとどこかへ去っていく。 「ナギ、何やってんだよ! いきなり蹴りつけるやつがあるか……って、あああ! キャサリンちゃん! 行かないでくれっ! キャサリンちゃーん!」 逃げ出した蛇の名を呼びながら、探偵が跡を追いかける。一人と一匹はあっという間に地平の彼方へ見えなくなった。 まだ震えの止まらないセツナの横で、ナギがぜいぜいと荒く息をついている。 「見ているこっちが情けねえ! オレは絶対にあんな大人にはならないぞ!」 ボクも同感だ。あんな大人になるほうが、難しい気もするが。 船着き場に着いた。ナギは水上自動二輪に、ボクとセツナは水上自転車に乗り込んでレムレスに戻る。今日はナギの家で勉強会だ。 といっても勉強しているのは二人だけで、ボクはさりゅと楽しく遊ぶ。たまに二人に名前を呼ばれる。解けなかった問題の解説を頼まれる。 ボクも二人の名前を呼んで「遊ぼう!」と誘うけれど無視される。なんと不公平なことか。 その点、さりゅは公平だ。床に大きな絵本を広げて順番に読みっこする。 「不思議の国のアリス」を読み終わったとき、さりゅは不思議そうな顔をした。 「アリスのぼうけんは、全部、夢のおはなしだったの?」 「そうだよ。だからアリスは赤の女王に首をはねられずに済んだんだ」 「ホンモノじゃなかったの? アリスのぼうけんは全部ニセモノ?」 ボクは絵本のラストシーンを思い浮かべる。アリスとアリスのお姉さんが木陰の下で休んでいる。アリスはお姉さんのひざの上に頭を乗せて寝そべっているところ。ちょうど今のさりゅみたいに。 それならば、ボクの役回りはお姉さんだ。 コホン、と咳ばらいをして、なるべく誠実に、思っていることをさりゅに伝える。 「さりゅがニセモノと思えばニセモノだし、ホンモノだと思えばホンモノになる。真偽はさほど重要ではない。そこが物語と科学の違うところだ。物語で重要なのは過程だよ……君は、このおはなしを楽しめたかな?」 さりゅはにっこり微笑んだ。 「すごく楽しかったよ! さりゅも大きくなるお菓子、食べたいな」 「ボクは小さくなる飲み物が飲みたいね」 顔を見合わせてクスクス笑う。やりとりを見ていたナギが「コンビニのお菓子しかない」と言って牛乳プリンを出してくれる。面白いお話が読めた上に、おやつにまでありつけた。今日はなんて良い日なんだ。 お腹がいっぱいになったら、眠くなってきた……。 「まったく、子供なんだから」 セツナの声が聞こえて、ちょっとだけ意識が戻る。風邪を引かないようにブランケットを掛けてくれたようだ。隣で眠るさりゅの甘いにおいに包まれて素敵な夢を見た。覚えていないけれど良い夢だった。 さりゅも夢を見たらしい。覚えていないと言っていたから、ボクたちは同じ夢を見たんだと思った。同じ夢の中でアリスみたいに冒険したんだ。 目が覚めたあと、夕焼けに染まった海岸で少し遊んだ。今度はセツナとナギもついてきた。反射に近い自然さでナギは砂浜を走り出す。ボクたちは波打ち際で貝殻を拾って歩いた。 さりゅはセツナの部屋に飾ってあるような、貝殻のリースを作るらしい。 「それなら、ボクは貝殻のロボットでも作ろうかな」 「カッコイイのかダサいのか分かんないわね」 「セツナにも作ってやろう。目からビームを出すロボットだ。可愛いぞ」 「可愛い要素が一つもないんですけど……」 「ハンドメイドのロボットだぞ。ハンドメイドのビームを出すぞ」 「ハンドメイドってつけたらなんでも可愛くなると思ったら大間違いだからね」 むぅ……、言い返せない。 手作り品においてセツナには底知れぬ威厳がある。暇を見つけては、クッキーやリースなんかをちょいちょいと作ってしまうだけのことはある。 大きな夕日が海の底へ沈む。桟橋まで走っていって、先端からじっと見つめる。黒、橙、濃紺、白、桃色、紫、青……光と影が折り重なった昼と夜の狭間の光景が目に焼き付く。 ボクの心がわけもなくうずく。 悲しさと寂しさの中間に位置するのが切なさだ。誰かにぎゅっと抱きつきたくなる。そして互いに確認するのだ。この関係は永遠に続くと。 星さえ消滅してしまう、この世に永遠なんて存在しないのに。 それなのに、そうしたくなるのが切なさだ。 「せつない」 「うん?」 セツナがボクを見た。名前を呼ばれたと思ったらしい。 「君のことじゃない……いや、君のことかも」 「なあに、それ?」 「ボクにもよく分からないな」 「ふぅん?」 ボクたちはいつまで一緒にいられるのかな。 ボクにもよく分からないな。 |