7 ひたすら走った。誰の姿も目に映さず、誰の声も耳に入れなかった。そのことで平塚に何度もどやされたが、その怒鳴り声すら右から左へと受け流した。 帰り際、坂道を下っていると海の上に入道雲が見えた。まるで海の中から現れた優しい怪物みたいに大きな雲はうっすらと茜色に染まっていた。 船着き場に腰を下ろして空を眺めた。空を眺めているうちに、自分でも知らない心の隅で小さく、それでも常に思っていたことに行き着いた。 オレは、高瀬川に勝てない。 泣いても、恨んでも、羨んでも、死ぬほど練習しても、神様に祈っても、どうあがいても、絶対に勝てない。 オレたちの間には壁≠ェある。その壁≠ヘ才能によって骨組みされていて、オレが持たざる様々な資質に塗り固められている。間違え探しなんかじゃない、圧倒的な違いがオレたちの間に存在している。 現実は夢に呑み込まれる ふと、探偵の言葉がよぎった。ネムルの家の屋上で、あいつがつぶやいていた言葉。その通りだ。オレは夢に呑み込まれていた。夢を追いかけているつもりで、現実から――どうにもならないその事実から、逃げ続けていたんだ。 「ねぇ」 声がした。オレの真後ろで、好きな子の声が。 振り返ると、セツナがいた。 慌てて顔をぬぐう。傍に立たれるまで気づかなかった。セツナらしくない。もっと早く声を掛けてくれれば良かったのに……。 とにかくセーフ、だよな? オレの情けないところ、見られてないよな? 「どうして泣いていたの?」 あ、アウト――――――! しっかり見られてるよ! 完全にアウトだよ。タイミング最悪かよ。そして訳を尋ねてくるか。セツナらしくないな! オレも、オレらしくないところを見せたにしても! 「慌てることないじゃない」 凪のように穏やかな、感情のこもっていない声でセツナは言った。 「泣くことなんて笑うことの反対でしょ。あなたたちは喜怒哀楽の中でも執拗(しつよう)に泣くことを隠すから不思議よ」そう言って、にっこりと笑ってみせる。感情のこもっていない、満面の笑みで。 「あなたにも涙する時があったなんてね」 「そりゃあオレだって泣くこともあるよ……たまには」 セツナの雰囲気がいつもとあまりにも違うから、正直に答えてしまった。 「 くすくす笑いながら、彼女はオレの周りを気まぐれに歩く。一定の距離を離れるとくるりと身を翻して戻ってくる。そしてまた……。 彼女がターンする度に、真っ黒なドレスがひらりと風に舞う。 セツナ、らしくない……。 ふわりとスカートの裾を広げて、セツナは地面に膝をついた。見慣れた顔が間近に迫る。ただ美しいだけの、喜怒哀楽のない瞳。 見ていると頭がぼんやりする。真っ青なその瞳に、オレの感情まで、吸い取られてしまいそうで……。 「あなたのことが知りたいの」 ……熱い。 「身体の隅々まで知りたいの」 ……この熱さは、夏のせいじゃない。 「セツナ……」 頬に触れる彼女の手は、氷のように冷たかった。 「どうしたんだ、セツナ……」 熱くて、冷たい。 好きなのに、好きじゃない。 本当だけど、嘘だ。 ……嘘。 君は、セツナじゃない。 「さあ、眠って。そして私を、灯台まで連れていきなさい」 黒いドレスを身にまとった、セツナじゃないセツナに抱きしめられると、世界中が夜しか存在しないみたいだ。 ……………………………………………………。 波の音が聞こえて、固い地面の感触を感じた。重力がかかるままになっていた背中に痛みが走る。寝起きのダルさも忘れるほど、吹き付ける潮風が冷たい。鈍い頭痛を感じながら立ち上がる。 立ち上がって、驚いた。 「と、灯台……?」 オレは灯台の島にいた。 夕闇が迫る空を背景に灯台が眩しい光をくるくると回転させている。 一体、どうなってんだ? さっきまでオレは街にいたはずだ。街の船着き場で偶然出会ったセツナととりとめのない話をした。話をしているうちに急に睡魔が襲ってきて……そこから先の記憶がないので、眠ってしまったらしい。 そして気づけば、灯台にいる。 なぜだ? 地面にあぐらをかいて五分ほど考えてみたが、何も思い出せない。係船柱にアクアバギーが繋がれているところを見ると自力で灯台まで来たようだが、その間の記憶がすっぽり抜けている。 灯台に来た理由はなんだ? セツナはどこへ行った? あれからオレたちはどうやって別れた? ここはかなり重要だ。泣き顔を見られたあとで、上手く取り繕えていると良いけれど……。 謎は尽きないが、ひとまず保留にしておこう。こんなところでぼんやりしている場合じゃなかった。あと一時間でアルバイトが始まる。 家に帰って、さりゅの夕飯を作らなければ……。 アクアバギーに乗り込んでエンジンをかける。アクセルをめいっぱい踏み込んで、大急ぎで海を渡った。 夕飯の献立を考えながら玄関のドアを開けると、 「おにいちゃん!」 亜麻色の髪の毛が突っ込んできた。よろけながら、ぎゅっと受けとめる。 「ごめん、さりゅ。遅くなった。すぐに夕飯、作るから」 「さりゅ、おにいちゃんと一緒にいる」 「……さりゅ?」 「さりゅ、怖い夢見たの。また見たの。おにいちゃん、そばにいて。怖いの、嫌だ。嫌だよぅ」 さりゅは鼻を真っ赤にして「うわーん」と泣いた。細い腕が小さく震えている。それでも、オレを掴む力は強い。絶対に離さないというように。 「おにいちゃん、行かないで。さりゅとおうちでごはん食べててよぅ」 「でも、バイトが……」 妹の剣幕に押されて、上手くなだめることができない。 「すぐに帰ってくるから。本当だよ」 「嘘だ!」とさりゅは叫んで、オレを睨んだ。幼い妹の目は悲しみを通り越して怒りに燃えていた。 「おにいちゃんは帰ってこない! いつだってさりゅが寝ちゃうまで帰ってこないじゃん!」 「さりゅ……」 「おにいちゃんは嘘つきだ。たくさん、たくさん、嘘ばっかだ。さりゅ、知ってる。さりゅが見た夢、ほんとうだって知ってるよ。星さんが落ちてきたのも、おにいちゃんが泣いていたのも、全部ほんとうなの、知ってるもん。おにいちゃんの本当≠ヘ嘘≠セ。おにいちゃんは嘘つきだっ!」 さりゅはオレから離れると、風呂場へ走った。後を追っても遅かった。扉が閉まって、鍵のかかる音がした。滅多にしない兄弟喧嘩を、するときは必ずさりゅは鍵のかかる部屋に逃げてしまう。 名前を呼んで扉を叩いても返事はない。代わりに、泣き声だけが聞こえてくる。 ……仕方ない。 リビングへ戻って、セツナの家に繋がるランプのボタンを押した。 トランシーバーの周波数を合わせて数分待ってみる。応答はない。ケンカの仲裁役を頼もうと思ったけれど、家を空けているらしい。 結局、オレは言っているそばから薄っぺらく聞こえる話し方でさりゅを慰め、これからバイトへ行くことと、作った夕飯をレンジにかけて食べるように伝えた。 家を出るそのときまで、さりゅの泣き声は続いていた。 |