Snap! Dragon! Fly!

 正宗の朝は早い……時もあれば遅い時もある。
 眺める太陽は朝日、夕日、昼日、時には月であったりもする。
 彼に時間の概念はない。体内時計もない。眠たければ寝るし、眠くなければ起きている。
 元々備わっていない体内時計は狂わない。「体調不良」という言葉は彼の辞書にない。いつでも快調だ。むしろ体力が有り余っている。
 したがって、どんどん煙草を吸う。一日に何箱吸っても平気。ただし、部屋が煙草くさくなるのは嫌なので、喫煙はもっぱら縁側に限る。見事な日本庭園を見ながら吸う煙草は美味い。心が落ち着く。
 屋敷にいる喫煙者たちも、縁側に出て煙草を吸っている。景色によって煙草の旨みが違うのは、喫煙者だけにしか分からない感覚だろう。特権と言ってもいい。
 今も縁側に座して煙草を吸っている。本日の目覚めは早朝。四時半に目が覚めた。そのまま縁側にやってきて、一日の始まりの一本に火をつけた。庭園の植物が、差し込む朝日に輝いている。どの樹木も剪定が行き届いて美しい。池泉にかかる太鼓橋以外は。
 足音が聞こえる。庭先の砂利を踏む革靴の音。きびきびした足取りだ。正体は分かっている。
 一之瀬慶一郎が縁側に立った。庭を見ながら、咳払いを二度する。ごほん、ごほん。
 面倒くせえなぁ、と正宗は思う。ジッポライターの蓋を閉じ、二本目の煙草を箱にしまう。縁側からそそくさと退散する。廊下の角を曲がる直前、ひのきの床をする老人の足音が聞こえた。笹川邸の主・笹川毅一のお出ましだ。親父おやっさん、おはようございます、と挨拶する一之瀬の声もおまけでついてくる。
 旧友はこうして、絶縁した義兄弟の遭遇を未然に防いでいる。相対すると互いの心証を汚すと思っているのだろう。お節介な性格だから世話人をやっているのか。世話人をやっているうちにお節介な性格になったのか。ぐしゃぐしゃになった布団の上にあぐらをかいて正宗は考える。可能性としては前者が高い。
 年衰えても笹川毅一の慧眼は衰えない。
 縁側に残った紫煙から我より先に庭園を満喫した人間がいると見抜いている。そして、その人間を庇うために一之瀬が画策していることも。ただ気づかないふりをしているだけだ。
 正宗が一之瀬の言う通りにしているのと同じ。世話人兼現・組長の顔を立てている。
 当てもなく邸内をうろついていると、時たま笹川毅一とすれ違う。互いにわずかな会釈をしてやり過ごす。それが定石じょうせきになっていることを一之瀬は知らない。気まずいと言えば気まずい。未だに廊下の向かいに着流し姿の老人が見えると「困ったな」と思う。しかし、引き返すともっと気まずい思いをする。だから、我慢してすれ違う。無言の挨拶を交わす。
 初めて老人と鉢合わせた時、さすがの正宗も緊張した。極道時代の折檻せっかんを思い出し、拳骨の一つでも喰らわされるのではないかとヒヤヒヤした。恐れたのは元組長の暴力ではなく、売られた喧嘩を買ってしまう自分の性分だ。老人といさかいになれば、この屋敷に居られなくなる。口論も避けたい。
 笹川さん、頼むから喧嘩を売らないでくれよ……と願いつつ廊下を行き違った。何事もなく離合した後で、思わず近場ちかばの部屋に飛び込んだ。障子戸を閉めて、高鳴る心臓を落ち着かせた。
 暴力沙汰にならないで良かった……当然と言えば当然か。小学生じゃあるまいし、立場や状況もわきまえず攻撃的な態度に出るほど兄貴も馬鹿じゃない。安堵の息に重なって、寝息が聞こえた。忍び込んだ部屋は娘の自室で、彼女は父親の心境を知ることなくすやすやと眠っていた。これはこれで気まずいな。正宗は頭を掻いた。その日の時刻も早朝で、屋敷内の人間はほとんどが眠りに就いていた。凛も微かな微笑みを浮かべて、幸せな夢を見ているようだった。
 まあ、夢の中くらい幸せでいないとな。
 音を立てず障子戸を開けながら、いつになく神妙な気持ちで正宗は思った。
 ……だから、けーいち、お前の努力は無駄なわけよ。
 いなくなった笹川毅一に代わり、縁側で思う存分煙草を吸った。その頃には日も昇り、一般人が活動する時間帯になった。と言っても、裏社会にどっぷり浸っている笹川屋敷の人間たちは一般人ではない。
 この時刻に動き回る人間といえば、屋敷内で唯一の女子高生・荻野茜くらいだ。
「あっ、いたいた! 正宗のおっちゃーん!」
 制服姿の茜が手を振りながら駆けてくる。大きな声と足音。良く言えば「賑やか」だが、悪く言えば「色気がない」。先日、悪く言ったら「セクハラで訴えてやる」と脅された。
「朝から賑やかだな……ええっと」
「荻野茜。おっちゃん、なんべん言うたら覚えてくれんの?」
「興味ねぇことは覚えねぇ」
聞く人によっては毒舌に聞こえる返答を、茜は笑って受け流す。
セクハラに敏感なくせに、メンタルはとても強い。
「おっちゃん、アレして欲しいねん」
隣に腰をおろすと、女子高生は上目遣いに正宗を見上げる。
「もう一回、してほしいねん」
顔の前で手を合わせて、お願いお願い、と懇願する。
「またアレすんの? 一人でも出来るだろ」
「出来ない。おっちゃんがいないと出来ないよ」
「面倒くさいんだよな、アレ……」
「そんな殺生せっしょうなこと言わんといて」
仏前のごとく、ひたすら拝み倒す茜。
うーん、と正宗は頭を掻く。
「終わったら、お礼してくれる?」
「いいよ! なんでも言うこと聞く!」
「なんでも聞いちゃうのか」
「なんでも聞く!」
 すごいな、女子高生がなんでも言うことを聞いてくれるなんて。これで色気があったら最高なんだけどな。
 微かな無念を抱きながら、後に続いて茜の部屋へ向かう。散らかってるから、ちょっと待ってて。障子戸を閉めた向こう側、台風のような激しさで物を片す音が聞こえる。「片す」というか「殲滅せんめつ」している。非常に暴力的な音だ。待ちぼうけながら、つい極道時代の激しい抗争の思い出を振り返ってしまう。
 お待たせ! と言って開けた部屋はがらんどうとしていた。生活用品も洋服も筆記用具すらもない。部屋の押し入れを見ると、ぱんぱんに膨れ上がっている。開いた瞬間、雪崩が起きそうだ。
 お願いします! と指差す先に、ノートパソコンが置いてある。
 ディスプレイにテスト問題が表示されている。設問の下に四つの選択肢が設置されており、どれか一つのボタンが押せる。ボタンを押して、答案を担任教師に送付する仕組みだ。
 ハイテクだな、と正宗は思う。子供がパソコンを使うこと自体ハイテクだし、学校の授業にパソコンから参加できることもハイテクだ。オンライン授業、と言うらしい。横浜市内でテロ事件が頻発してから、茜の学校はオンライン授業に切り替わった。正宗がハイテクに思えることが、現代っ子には当たり前の感覚だ。「ハイテクだな」と言ったら、「〝はいてく〟ってなに?」と聞かれた。
 このシステムが三十年前に流通していたら、俺は小学校を中退せずに済んだんじゃないか? 窓ガラスを割ったり、校庭の桜並木を燃やすこともなかったんじゃないか? などと思いながら、選択肢から適当な一つを選ぶ。丸いボタンが黒くなる。
「これは何のテストなんだ?」
ハイテクなクリックをかましながら正宗は尋ねる。
公民、という答えが返ってきた。
「公民ってなんだ?」
「政治とか経済とか、社会について学ぶ学問やって書いてある」
隣でスマホをいじりながら茜は答える。
「あと社会的な倫理観とか」
「ヤクザに社会と倫理の問題を解かせているのか」
「内容はどうでもええねん。大事なのは、おっちゃんの勘」
 集中! 集中! と隣でエールを送ってくる。集中したところで、問題文も設問も意味不明だ。ただボタンを押しているだけ。手持ち無沙汰に面白半分で試したお遊び。それがかなり当たった。味をしめた茜はマークシート形式の問題が出題されるたび、正宗の元へ嘆願にやってくる。
 聞いたところ、的中率は80%程度だそうだ。
「これ、カンニングだろ」
「勘だけに」
「うまいこと言ったと思うなよ」
 あっはっはっは、と大声で茜は笑う。悪いことをしているのに、全く悪いと思っていない。このガキはヤクザの素質があるな、と正宗は思う。女にしておくのが勿体無いくらいだ。
「正解率は保証しねぇぞ」
「ウチはおっちゃんを信じとる! おっちゃんなら大丈夫や!」
 尊敬の眼差しで正宗を仰ぐ茜。かつて、何十人と持っていた舎弟しゃていと同じ目をしている。「鉄砲玉になってこい」と命令したら従順に従いそうだ。何でも言うことを聞く、と提示した条件も男気に溢れている。
何でも言って! と制服のリボンがついた胸を叩く。男らしく約束を果たすつもりらしい……女の子だが。
 数秒考え、正宗は言った。
「若様を呼べるか?」
「若様? 真一のこと?」
「そう。〝めっせーじあぷり〟で呼び出してくれよ」
「そんなお願いでええの?」
「いいよ。茜ちゃん、色気ないし」
「あっ、またセクハラした!」と茜が騒いだ。